13 お風呂に入れてみよう
黒狼は湯につかるのも好きだった。当時の魔国には温泉が噴き出す地域があり、そこに魔王や配下の魔族たちとよく入っていた。
ジャンヌが唖然とした顔で聞く。
「魔獣を? お風呂に入れるんですか?」
「はい」
黒狼の毛並みは元から綺麗だったから、水と石けんでこまめに洗ってはいたのだろう。だが人間と同じようにお風呂に入れるという感覚はなかったようだ。
同じく唖然としていたハンクが興味深そうに笑い、クライドも笑みを浮かべた。
「よし。そうしよう」
クライドとハンクが二人がかりで、厩舎の二階にある物置から大きなたらいを運んできた。そこにジャンヌが中庭の井戸で汲んだ水を注ぐ。
「なるべくたくさん入れた方がいいと思います。肩までつかるのがお好きでした――好きだと思います」
「わかりました」
たらいの縁いっぱいまで水が注がれた。クライドがそこに手をかざす。手のひらから光があふれたかと思ったら、たちどころに水から湯気がたちのぼった。
「すごいですね!」
アシュリーは驚いた。一瞬である。
ジャンヌが誇らしげに言う。
「クライド様は私たちより魔力が強いですから。なんたって直系王族ですもの」
(そうよね)
眠っているといえど、魔王の側近であった黒狼を結界で閉じ込められるほどなのだから。
ここでまたもや疑問が湧いた。最初に魔獣がいるとわかった時に思ったことだ。
「どうして王家は魔獣を殺さなかったんですか?」
できれば考えたくない質問だけれど。仲間だったアシュリーは黒狼が生きていてとても嬉しい。だが勇者の子孫たちにとっては違う。忌むべき敵のはずだ。
悲しそうな声の響きに、ハンクがちらりとアシュリーを見て答える。
「暴れたり抵抗したらすぐ殺したんでしょうが、四百年前に捕まった時から魔獣はおとなしかったそうです。素直に首を垂れたそうですよ。見つけたのは当時の王子一行だと聞きましたが、可哀想に思って連れて帰ったんでしょうね。まあその考えもどうかと思いますが、それから王家がこのサージェント家に預けたそうです。今までずっと」
そして、それからずっとここで眠り続けている。
「そうですか……」
それとどうしても聞かなくてはならないことがある。アシュリーは両手を強く握りしめてクライドに向き合った。
「クライド様はどうして魔獣を目覚めさせたいんですか?」
助けたい、と言っていたけれど、クライドは王族だ。他の王家の者たちと同じように、このまま魔獣が亡くなってくれた方が都合がいいはずなのに。
理由によっては協力できない。せっかく会えた唯一の魔族なのだ。
勇者の子孫を前に恐怖に膝が震えたが、そんな強い思いをこめて見つめる。真剣な思いが伝わったのか、クライドが真摯な口調で答えた。
「四百年間眠り続けていると言ったけれど、それは嘘だ。一度黒狼は目覚めた」
「えっ?」
「俺がまだ子供の時だ。その時に少し話もした。高等魔族はこうして心の中に語りかけてくるんだと、初めて知ったよ」
それはそのとおりだ。頷くアシュリーをクライドが見つめる。そして、すぐに続けた。
「その時に黒狼が言っていた。『魔王様の魂の許へいきたい。でもこのまま死んだのではたどり着けない』とね。それからまたすぐに固く目をとじてしまったから詳細は聞けなかったけど。俺はその望みを叶えてやりたいんだ。そのために目覚めさせて詳しいことを聞きたい」
驚き過ぎて言葉がでない。
「黒狼様がそんなことを? でもどうして黒狼様はクライド様にそんな話をしたんですか? それに子供の時って、この場所でですか?」
クライドは勇者の子孫なのにどうして?
呆然としながらも次々と言葉を重ねるアシュリーに、クライドが小さく笑った。
「質問が多いね」
「そりゃ……!」
「次はアシュリーの番だよ。どうして黒狼について知っている?」
グッと言葉に詰まった。
聞くだけ聞いておいて自分は答えないなんて卑怯者のすることだとわかっているけれど、それでも前世が魔族だったなんて言えない。狼狽しているとクライドが笑った。
「なんてね。いいよ。本当は聞きたいけど、無理に聞いて口を閉じられる方が困る。今のところアシュリーが黒狼を起こす唯一の頼りみたいだから」
そして黒狼に向き直った。
「さて、風呂に入れるか」
「入れましょう。まさか魔獣を風呂に入れることになるとは。いいっすね。楽しいっす」
その言葉どおりハンクは楽しそうだ。ノリがいい性格らしい。
クライドが黒狼の前に片膝をつき、何やら呪文を唱える。黒狼の口元と四本の足の先がぽわっと光った。
黒狼の体の下に両手を差し入れ、力を込めて持ち上げる。光の魔法は黒狼の体を軽くするためかと思ったが違ったようだ。いざ目覚めた時に噛みつかれないようにするためのものらしい。
クライドが抱えた黒狼をゆっくりとたらいに沈めていく。
(どうかしら?)
黒い体が湯に沈み、顔だけが湯から出た状態だ。クライドが首を押さえて沈まないようにしている。たらいから顔だけ出す狼を、ジャンヌが複雑そうな顔で見つめた。
黒狼の周りから湯気がたちのぼる。毛でふさふさした顔が水蒸気でしっとりしていく。
期待して見つめるものの、やはり黒狼は目覚めない。それに全く反応もない。
アシュリーはジャンヌの隣に膝をつき、固く目を閉じる黒狼の後頭部に優しく湯をかけた。ほわほわと立ちのぼる湯気が、黒狼の顔をゆっくりぼやけさせていく。
(黒狼様、どうか目覚めてください)
たらいから出た黒狼の凛々しい顔に、アシュリーは心の中で祈った。
(「魔王様の魂の許へ」か)
黒狼は魔王の側近だった。尊敬していただろうから頷ける話だ。アシュリーもそうしてあげたい。そのためには黒狼に起きてもらわねばならないのだ。
(黒狼様)
一心に湯をすくってはかけるアシュリーを、ジャンヌとハンクが不思議そうな顔で見る。
けれど祈る気持ちが伝わったのか、やがて一緒に湯をかけ始めた。
クライドも片方の手で黒狼の首を支えたまま、もう片方の手も湯の中に入れた。その周りが光り出す。湯の温度が一定になるようにしているのだ。
その時だ。黒狼の鼻がぴくっと動いた。
アシュリーも驚いたが、クライドたちはもっと驚いたようだ。
「動いた!」
「動いたわよ! すごい!」
「さては風呂が気持ちいいんだな。もっと湯をかけろ!」
興奮したハンクがざぶざぶと湯をかける。黒狼の顔が温かい湯であっという間に濡れていく。
けれど、それ以降は動かなかった。また元の眠る魔獣に戻ってしまった。
それでも――。
「すごいですわ、クライド様。ようやく黒狼が反応しましたよ」
「やりましたね」
紅潮した頬のジャンヌとハンクが言い、クライドが「ああ」と微笑む。そしてこちらを見て、
「ありがとう。アシュリーのおかげだ」
と笑った。その心から嬉しそうな笑顔に、アシュリーは思わず、
「いえ」
と笑い返していた。クライドが目を見張り、そしてもう一度嬉しそうに微笑んだ。




