1 出会いと黒ウサギ
黒いふわふわの毛並みに、つぶらな丸い紫の目。ぴんと伸びた長い二本の耳と小さな鼻が、辺りを警戒するようにぴくぴくと小刻みに動く。
短い前足を素早く動かして地面に穴を掘り、今度は一生懸命前足を伸ばして穴を広げる。そうして完成した巣穴に嬉しそうにもぐり、体を丸めて眠る。
――それがアシュリー・エル・ウォルレットの前世の姿だ。そう、ウサギである。
ただし普通のウサギではない。
およそ六百年前、この地を征服しようと企む魔王がいた。その配下で下っ端だった黒ウサギだ。
けれど平和を求めて立ち上がった勇者一行に魔王は敗れ、魔族は滅んだ。
(今世は平和でよかったなあ)
六百年後、このトルファ国に伯爵令嬢として転生したアシュリーはしみじみ思う。
たとえこの国が、魔王を討った勇者の子孫が治める国であったとしても。
平和が一番だ。つつましく真面目に、穏やかに生きていきたい――。
* * *
裾にレースのついたシルクのペチコート。その上から着る、アシュリーの小柄な体にフィットした明るい水色のドレスは、袖も同じデザインのレースで装飾されている。腰から垂れるサテン地の濃い青色のトレーンは、床に引きずる程の長さだ。
ふんわりと波打つ黒髪は後ろで一つにまとめ、目の色と同じ紫のアメジストを埋め込んだ大きな花飾りを差してある。
肘の上まである長さの、小さな真珠が並んだ手袋をつけて、銀の扇を持つ。
これで「最礼装」のできあがりだ。
(早く終わらないかなあ)
王宮の謁見の間へとつながる金の間。長い列に並ぶアシュリーはため息を吐いた。
これは「王妃への拝謁」のための列である。
(お腹が苦しい。頭も痛いし)
緊張もしているが、それよりもコルセットで締め上げられたウエストが悲鳴を上げている。
そして何よりも髪飾りのピン先が頭皮に食い込んで痛いのだ。
「私、一度も王妃様にお会いした事がないのよ。楽しみだわ!」
「粗相のないようにしないとね。ねえ、これで私たちも立派な淑女ね。この後の舞踏会には出るでしょう?」
「当たり前じゃない! 王妃様主催の舞踏会なのよ。きっと素敵な男性がたくさんいらっしゃるわ!」
前に並ぶ少女たちが興奮した様子で話している。アシュリーと同じ十七歳くらいの彼女たちも、もちろん最礼装だ。皆、いわゆる「デビュタント」である。
このトルファ国は階級社会だ。王族を頂点とし、貴族や地主などの上流階級、聖職者や医師といった専門職と金融業や企業家などの中流階級、そして労働者たちの下流階級に分かれている。
上流と中流階級の子供たちは、男女ともに十七歳前後で社交界へ出る。
そのための大事なデビューが、この「王族への拝謁」なのだ。これを済ますと、社交界に受け入れられ紳士淑女だと認められる。
だからこそ皆、気合いを入れているのだが、
(早く帰りたい)
アシュリーは社交界にも舞踏会にも興味はない。きらびやかな場所は苦手なのだ。ウサギの巣穴とまではいかなくても、薄暗くて狭くて静かな場所が落ち着く。
太陽もすっかり落ちた暗闇の中、馬車を飛ばしてやってきた。しかし他の者たちの乗る馬車で、王宮前は大混雑だった。
やっと中に入れても、そこからが長い。何度も身分証明をしながら、大きなシャンデリアがいくつも垂れ下がる壮麗なホールを横切り、階段を上り、大広間で順番を待つ。そして名前を呼ばれたら、この金の間で列をなすのだ。
「アシュリー・エル・ウォルレット。入れ!」
王室書記官に呼ばれ、やっとアシュリーの番がきた。
緊張しながら謁見の間へ足を踏み入れた。すでに手袋は外してある。
真っ赤な絨毯が敷かれた奥の壇上には、王妃の金の玉座がある。大きなダイヤモンドが埋め込まれた肘掛けに、ゆったりと腕をのせた王妃が座っていた。
国王が三十代半ばというから、王妃は三十歳くらいか。長いマントを肩から垂らし、ベルベット地の胸が大きく開いたドレスがよく似合う美女である。
王妃の後ろには上級貴族や縁戚関係の者たちが並んでいた。緊張はピークに達したが、
(よかった。恐くないわ)
心の内でホッとした。この国の直系王族は、六百年前に魔族を滅ぼした勇者の血を引いている。だから前世で勇者の部下に殺された黒ウサギ、という記憶のあるアシュリーは、今日王宮で王妃や、そして兵士に会うのが恐かったのだ。
けれど王妃は隣国から嫁いできた女性だ。この国の直系王族と血のつながりはない。
それに兵士の軍服も、六百年前にアシュリーが見たものとはまるで違った。
(よかったわ)
王妃の前に進み出て深々とお辞儀をした。差し出された手を取り、指先を自分の額に軽くつける。これが正式な挨拶だ。
そして後ろにいる貴族たちにお辞儀をしながら謁見の間を出る。
そろそろと後ずさった。王妃に背中は向けられない。扉を出るまでは、ひたすら後ずさりだ。床を引きずる長いトレーンをたくし上げるのも許されない。だから、その裾を踏まないように細心の注意を払って――いたはずなのに。
「ひゃああ!?」
見事に裾を踏んづけてしまい、淑女にあるまじき奇怪な叫び声を上げてしまった。それだけでも充分過ぎるほどの失態なのに、体勢を崩し、そのまま後ろにひっくり返る格好になってしまった。
(嘘でしょう!?)
ギュっと心臓が冷たく縮む感じがした。恥も外聞もなく懸命に両手を振ってバランスを保とうとするが、無理だ。カエルのごとくひっくり返りながら、視界の端に、驚きに目を見開く王妃と貴族たちの顔が映った。
拝謁の席で粗相をすれば二度と社交界には出られない。そうなれば貴族令嬢にとっての将来はおしまいだ。
(どうしてこんな事に……。つつましく真面目に、平和に生きていたいだけなのに……!)
恥ずかしさと恐怖で、体の底から冷たく固まっていく。もう二度と立ち直れず動けない、そんな感じがした。
だが次の瞬間、背後から強い力で肩を支えられた。
「大丈夫?」
気遣うような男性の小さな声がした。気がつくと、アシュリーはぶざまに後ろに倒れ込む事なく元の体勢に戻っていた。転倒する直前、その男性が後ろから支えてくれたのだ。
嬉しさで体中の毛穴が開くんじゃないかと思ったほどだ。
張り詰めた場の空気が安心したように緩む中、
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!!」
と振り返り、救いの主に全力で何度も頭を下げた。
「――どういたしまして」
アシュリーの大仰な感謝がおかしかったのか、含み笑いのような声が返ってきた。
思わず顔を上げると、まるで絵画から抜け出してきたような姿がそこにあった。
二十歳過ぎほどの青年だ。均整の取れた長身を金ボタンのついた黒の礼服に包んでいる。輝く金の髪に、濃い緑色の目。彫像のように整った顔立ちは近寄りがたいほどだが、今は笑みを含んでいるためか、とても親しみやすく見えた。
見とれるというよりは呆然としてしまった。その時、
(……ん?)
ほのかに鼻をくすぐる匂いに気がついた。金の肩章がついた青年のジャケット、その胸元のポケットに入ったハンカチからだ。香水かと思ったが違う。
お行儀が悪いと思ったが好奇心に勝てなかった。鼻を近づけて思いきり息を吸い込んだ。
青年がギョッとしたように上体を引いた。
この匂い。何だろう。アシュリーの体には合わないのか、少し気持ち悪くなってきた。けれど、とても――。
「いい匂い……」
心の底を優しくなでられるような、どこか懐かしいような、そんな匂い。
微笑んでつぶやいたアシュリーに、青年が信じられないというように大きく目を見張った。そして、
「へえ」
と先程の穏やかな笑顔とは違う、興味深そうな笑みを浮かべた。