口紅
濃厚なクリームと砂糖を溶かしたコーヒーと、真っ白いプレートの上に乗せられた、赤い実が飾られたショートケーキ。
スプーンやフォークで掬われるのを待っている。
「あの…私…プロポーズされたの」
あ?なんだって?もう一回。と意地悪く言うにはケーキに負けないくらい真っ白い頬をそれこそ苺色に染め上げて蚊の鳴くような声で、だけどハッキリと言うから、
「そりゃ、おめでとう沙耶」
と祝福するしか無く。
「ありがとう。良かったルイにそう言って貰えて」
数年前からするようになった、恋する乙女な笑顔が感謝を述べる。
「ドウイタシマシテ」
「はい、これ、招待状。それでね、お願いがあるの」
「え?プロポーズ初報告なのに、もう招待状くれるの!?早くね?!…まあ、良い。で、お願いって?」
「結婚式当日は、ルイが私に口紅を塗って欲しいの」
沙耶は、何か特別な事がある日には、ルイに口紅を塗って貰いたがる。
学生の頃受験当日にリップクリームをルイが塗ってあげ、高校に合格してからのゲン担ぎらしい。
未来の夫となる彼氏に告白する日も初めてのデートの日も、沙耶にせがまれルイが紅を塗ってあげた。
あれは世間はクリスマス、ルイは仕事で苦しみます、そして屍となり果てた帰り道、近所に住むリア充の沙耶と未来の夫とのキスシーンを目撃して灰になったのを覚えている。
その日は出勤前にクリスマスプレゼントを持って現れた沙耶に口紅を塗ってくれと頼まれ、込み上げた殺意と共に彼女の唇に塗りたくったのだ。
殺意、いや、嫉妬だ。
ルイが塗り込めた沙耶の口紅が、男の唇によって剥がされていく。
クリスマスデートだ。2人でラブラブして、すごく洒落ていて、リア充の爆発を願う品の良い店員が居て、高額だからと1円単位まで割り勘にされると興醒めするような場所で食事した後に、沙耶は口紅を塗り直したのかも知れないが、だとしても、ルイの中の沙耶への執着と独占欲が煩く、が鳴り声をあげている。
いや、実際は夜中だけど口笛を吹いて、
「熱いね、お二人さーん。でも、沙耶の家の窓から丸見えだし、お父さんがカーテンの隙間から覗きながら泣いてるから彼氏はスライディング土下座して来いよ」
と囃し立て、土下座しに家を訪ねる彼氏を尻目に、アレが私の彼氏ですと、やっぱり苺みたいな頬をして、ルイは初めて彼氏を紹介して貰った。
そして現在。
「いや、ダメだろう。そういうのってプロの人がドレスとか顔色云々に合わせて技術とセンスに合わせてやるもんだろ。素人がそこに手を出すなんて、木造建築にお菓子を突っ込むようなものだ」
「でも…」
「ダメ、絶対、ダメ」
「わかった…」
納得はしたが不貞腐れた大福のような顔でコーヒーを啜ってる。
だって、名実共に他の男のものになる日にこの手で口紅を塗るなんて、どんな倒錯プレイだ。
誓いのキスだってあるのに。
とうとうこの日がやって来た。
主役の為に地味なスーツで決め、握り締めるは招待状。では無く、銭だ。万札が数枚入った煌びやかな封筒が手汗で湿るくらい渡したく無いが、仕方がない、親友の為だと渡す。さようなら、クリスマスと年末年始を休まず頑張って稼いだお金達。
別れたら返してくれないかなと、不謹慎な事を考えていたら、
「あら、ちょうど良かったわ。あなたが来たら部屋に呼んで欲しいって沙耶が。私はこれから挨拶回りがあるし、行って貰えるかしら」
年々、ふっくらして来た沙耶のお母さんに声を掛けられた。
沙耶の家はお母さんが太っていく代わりにお父さんが痩せていってる気がする。夫婦って神秘的だ。
言われた通りに沙耶のいる部屋を訪ねると、もうウェディングドレスを纏い、化粧を施した花嫁さんがいた。
「良かった、来てくれて。私、ルイは来てくれないかもって思ってたから…」
「なんで?招待状も貰ったし、何より小学生の頃からの親友の結婚式だよ。来るに決まってんじゃん」
「うん…」
「あれ?口紅、塗って無いじゃん。まだ途中?もうすぐ式なのに?」
「私、やっぱり口紅はルイに塗って欲しくて」
「いや、だけど…」
沙耶は鞄から真新しい口紅を取り出し、ルイの手を取って握らせる。
「これ…ルイにあげる。お願い、これを塗って。どうしても嫌って言うなら、私、このまま式に出るわ」
「沙耶…」
本当にそのまま出るつもりだろう。彼女の瞳や声が本気だと言っている。
ルイは口紅の封を開け、蓋を取り、捻って紅を出す。
「ブラシとか無いけど…良い」
言外にあまり綺麗に塗れないかもと含ませる。
「ええ、大丈夫」
細い顎を掬い上げ、薄桃の柔らかな唇に紅をさしていく。
壊れる筈が無いし、ブラシを使わないとはいえ、初めてというわけではないのに、なぜか緊張して、少しばかり手が震える。
「…終わったよ」
「…ありがとう」
沙耶は紅をひく間、閉ざされていた瞼を開き淡く微笑む。
艶ののった唇は、これからバージンロードを歩く花嫁に言う台詞では無いが、なんだか婀娜っぽい。
紅を仕舞って蓋をして返そうとしたルイの手の上から沙耶は手を重ね、
「良いの、ルイにあげるわ。だって…」
重なっているのとは別の手が、彼女より背の高いルイの首の後ろを捉え、塗ったばかりの口紅が、寝坊したのを言い訳に、化粧なんてして来なかったルイの何も塗られていない唇を塞ぐ。
そんなに強い力じゃないにも関わらず、驚きで顔を反らせないのをいい事に、何度も喰まれる唇。
「…ほら、ルイに似合ってる」
やっと正気に返る頃、沙耶は離れて泣きそうな表情で言った。
なんで、と疑問を口にする間も無く、
「……ごめんなさい」
と言い残し、部屋を出て行った。
追い掛けて問い詰めたい自分を抑える為に、貰ったばかりの口紅を、痛むくらい手の中に閉じ込めた。