優「三浦は撤去されていった」
訪れた週末――俺は愛衣ちゃんと約束していた水着を買うという予定のため、待ち合わせ場所として指定している公園へと向かう。
昨日、空を塞いでいた雨雲はまるで嘘のように消え失せていた。抱えていた雨水を絞り切ったのか、風に流れて彼方へ移動したのかは分からないけれど、見上げれば吸い込まれそうな青空を背景として燦々と輝く太陽。
俺は折角の休日という事で、いつものブラウスにタイトスカートの仕事着ではない。
ちょっと大人びた服装を、という事でモノクロを基調としたシックな色合いでまとめてハットを被っている。夏にしては少し露出が少ない服装にはなっているものの、そこは乙女の恥じらいという事で個人的には納得している。
そこはもしかすると水着の件と同様、大衆に肌を見せる事に少々の抵抗があるのかも知れないが……。
道中、商店街のウインドウに映った自分を眺めてスマイルを浮かべたりすると、なかなかどうして俺も女の子しているなとか思ってしまい気分は高揚する。
身に纏うもの一つで心が豊かになるという感覚に同調できないらしい勇には「捕まらなければカーテンに包まって歩いてもいいんですけど」などと言われるも、この楽しみは止められない。
自ずと、スキップさえしてしまいそうである。
などと上機嫌なまま辿り着いた公園。時間に関しては割ときちんとしている方という自負のある俺だが、愛衣ちゃんが先に到着してベンチに腰掛けて携帯を触っている光景を見ると小走りで駆け寄ってしまう。
そんな靴が地面を叩く音に気付いたのか、こちらを向いた愛衣ちゃんは「あ、優さん」と言って手を振ってくる。俺も呼応するように手を振り返し、距離を詰めていく最中――ある光景が目に飛び込んできたため思わず小走りをやめて、ゆっくりと歩いて「彼女ら」の下へと辿り着く。
「いや、何でお前さんがいるんだよ」
俺は呆れっ面で愛衣ちゃんの隣に座る長身、細見で眼鏡を掛けて整髪料できちんと整えた頭髪の印象的なスーツ姿の男――というか、三浦に対して言い放つ。
相変わらず、この気温と日差しだというのに涼しい顔をして缶珈琲を片手に「やぁ」と俺に挨拶する三浦。
別に構わないけれど……彼は今日の趣旨を分かってここに来ているのだろうか?
「昨日の夜、三浦さんからメールがあったんですよ。土日が休みだから水着を買おうと思っているのだけれど、一緒に行かないかって。それで丁度いいかと思って呼んだんです」
あっけらかんと事情の説明を行う愛衣ちゃん。
光を反射して眩しいばかりの真っ白なワンピース姿の彼女を見て、素直にそういった服装が持つ幼い印象を覚悟してでも「着てみたい!」と思ってしまう俺。
年齢によって着られる服は本人の抵抗もあるだろうけれど、格段に減っていくと思う。そういう意味では着られる内に楽しみたいし、もっといえば愛衣ちゃんの学校が制服を着てみたいのだけれど。
と、それはさておき――。
「三浦、お前さんを海に誘ったのは俺だから一緒に今日を行動する事に疑問はないが……しかし、何で愛衣ちゃんを水着選びに誘ってんだ。試着した姿を愛衣ちゃんに見てもらって意見でも伺う気だったのかよ……」
俺が呆れ気味な表情と、口調で言うと三浦は何故か「ふふふ」と不敵に笑んで眼鏡の縁に手を触れさせ、その位置を修正した。
「僕個人の水着ならば、自分で買いに行くけれどね。しかし、愛衣ちゃんは勇くんに対して好意を抱いている……ならば、互いの利害が一致したとようなものだ。せっかく一緒に海へ行くんだ――勇くんの水着を選んであげるしかないじゃないか」
「何でそうなるんだよ」
そう語ってしたり顔を浮かべる三浦に、相変わらずの引き攣った表情で一瞥をくれてやりつつも、愛衣ちゃんの方を向く俺。
「他人の旦那の水着を選ぶという倒錯した行動原理は相変わらず残念極まりないものだが、しかし――愛衣ちゃんも勇の水着姿なんてみたいのか?」
俺がそう問いかけると、愛衣ちゃんは嘆息して首を横に振りつつ答える。
「……いえ、人数は多い方が楽しいかなと思って呼んだだけですよ。三浦さん、好意を寄せた人間は皆、その相手の肌が見たいものだって思い込んでいるみたいで……まぁ、今のおねーちゃんってば筋肉質で世間一般には魅力的な体系なのでしょうけれど、私としてはあまり興味がないというか」
「うーん。理由は分かったけれど、しかし三浦を交える事は楽しいのかねぇ?」
「倒錯した人間を見るのは楽しいと思いますよ」
さらりと語って笑みを浮かべる愛衣ちゃんに、言い知れないサディストの気配を感じたために俺は「そ、そうかい」とぎこちない感じの返事をした。
とりあえず、集合したという事で俺達は商店街方面へと引き返していく。
戻るならばわざわざ公園を集合場所に指定する理由は何だという話だが、やはり集まる拠点として最適という以上に腰掛けられる場所が商店街内は少ないのだ。それに、商店街から吐き出されてすぐの所に公園があるため、戻るのも容易ではある。
歩き出した俺達は商店街内にある大型のショッピングセンターへと向かう。多くの衣服を取り扱った店舗が一体となった集合施設たるこの場所は商店街内でも象徴的な建物である。
とはいえ、勇の趣味趣向的に訪れる時はいつも俺一人だったのだけれど。
エスカレーターにて、水着を扱っているフロアへ。
色とりどりの水着が陳列されているフロアへ到着すると、俺はそんなものには目もくれずに周囲を見渡す。目立った場所に陳列されている水着は何というか……その、軽装備過ぎるのだ。
無論、俺は以前語っていたウェットスーツ的なものを探しているのだが、そんな最中――愛衣ちゃんは「あれなんか可愛いんじゃないですか?」などと言って俺の手をぐいぐいと引いて売り場へ連れていく。
「ちょ、ちょ、ちょっと愛衣ちゃん。俺はそういう露出の多いのより、ウェットスーツ的な全身を覆うようなものをだな」
「駄目ですよ、優さん。男性だった件で水着に抵抗があるのは聞いてますけれど、折角女性の体になって、しかもそんなにスタイルがいいのですから――こういった部分は楽しまないと!」
俺を指差して諭すように語ると、愛衣ちゃんは満面の笑みを浮かべる。
真っ先に浮かぶ「あれ、どうして俺のトラウマ的な部分まで知っているのだろう?」という疑問はとりあえず置いておくとして――何だか驚愕のようなものが胸中に生まれて、目を見開いてしまう。
俺も単純なもので「女性としての楽しみを逃している」という趣旨を持った愛衣ちゃんの言葉に反応し、抱いていたウェットスーツなんて馬鹿げた発想は消え去っていたのだ。
自分でさっき思っていた所ではないか。
歳を重ねれば自ずと抵抗を抱いて出来ないファッションも生まれてくる。時間の限られた楽しみは、その瞬間に掴まなければあっと言う間に後悔を連れてくる、と。
男性としての肉体を有していた時、嫌でしかたなかった水着というものが「選び、身に着ける楽しみ」として捉えられるだなんて……ちょっと考えれば行き着きそうなものだけれど人間は否定的になると視野が狭くなるものなのである。
俺だって、一人の女性としてどうせ身に着けるならば可愛らしい水着の方がいいし、そんな選ぶ楽しみに興じてみたいという欲求はある。ただ、気付かなかっただけで――それを言われてみれば、目の前の光景はなんと希望に溢れているのだろうか。
色んな服を着てみたいと思っている割には何と臆病だったのだろう!
自然とこぼれる笑みを俺は自覚しつつ、愛衣ちゃんに言う。
「よし! 勇を悩殺するくらいのやつを選ぶか!」
「そうですよ。おねーちゃんに一泡どころか、鼻血吹かせてやりましょうよ!」
俺と愛衣ちゃんの間に妙な意気投合が生まれ、それから陳列された水着を隈なく吟味していく。
数着、候補が生まれるとここも愛衣ちゃんに促されるまま試着室に放り込まれる俺。水着への抵抗を拭い去った俺は初めての感覚となる女性用の水着を身に纏い、愛衣ちゃんと三浦に感想を求める。「可愛いじゃないですか!」と感嘆の声を挙げる愛衣ちゃんとは対照的に、心底つまらなさそうにジト目で俺を見る三浦は「イイジャナイカ」と気持ちのこもってないイントネーションで言った。
うーん、感想を求めた俺が間違っているのか……。
とはいえ、着用した感覚も踏まえて俺の中では購入する水着が決まりつつあった。一度しか海に行かないのだから、複数着買っても仕方ない。そう考えると普段着る服と違って一つに絞らないといけないというもどかしさが、妙に楽しい。しかし複数着買って、現地で定期的に着替えたい気持ちも生まれてくるのだ。面倒だし、ちょっと自意識過剰感もするが、そこはナルシスト夫婦の女の方である俺の面目躍如ではある――と自分を論破しかけるものの、やはり一着に絞るべきだろう。
こんな欲求が生まれるのも、俺がこれまで水着一つにしてもあらゆる意味での我慢をしてきたからに他ならないからだろう。
と――、思っていた最中だった。
「あれ、優じゃない? 奇遇だねぇ」
突如、視界外からかけられた声に反応して周囲を見渡す。それでも把握できない声の持ち主を求めて振り返ると、少女と女性の二人組――真奈と夕映がそこに立っていたのだった。
え、何でこの二人がここに……。
俺はほっこりとしていた心地を急激に取り上げられ、急ごしらえの焦燥感を胸中に宿す事となった。そんな焦りが生んだ鼓動の高鳴りがうるさいくらいに内部で反響して聞こえ、じわりじわりと嫌な汗をかいてくる。
「お、おやおや。真奈と夕映ではないですか。……どうしたのですか?」
俺はやや引き攣ったイントネーションになりながらも「勇」の口調を持ち出して語った。
「あれ? お姉ちゃん、知り合いなの?」
流石は機転が利くというか、頭の回転が速いと思わされる愛衣ちゃん。突如として俺の事を「お姉ちゃん」と呼称する切り替えを見せて、対応する。
「そうなのですよ、前の職場で一緒に働いていた真奈と夕映です」
俺がそう二人を愛衣ちゃんに紹介すると「あぁ、あなた方が! 姉から話を聞いております。妹の愛衣です」などと自然な語り口調で礼儀正しく真奈と夕映に挨拶し、ぺこりと頭を下げた。
「挨拶出来るなんて偉いねぇ。お姉さん、関心したよー」
普段、子供扱いされているであろう夕映は歳下が相手だからかしゃがみ、愛衣ちゃんが幼稚園児か小学生であるかのように褒舌と共に頭を撫でた。しかし、愛衣ちゃんと夕映は全く同じといっていいほど背丈が変わらないため、しゃがんだ夕映が爪先立ちして頭を撫でるというシュールな光景となった。
「夕映、挨拶にはきちんと挨拶を返さないと、どちらがお姉さんか分かったものではないよ」
真奈の淡々とした指摘にびくんと体を反応させた夕映は立ち上がり、二人共が順番に愛衣ちゃんへ自己紹介した。
「――で、さっきの質問だけれどここにいる理由は無論、水着を買いに来たのだよ。盆に職場の同僚と海へ行く事になってね。夕映は去年のが着られるから買う必要はないのだけれど、私は海など久しいからね。新しいものを、と思って見に来たのだけれど……ここにいるという事は優も海かプールへ行く予定があるのかな?」
真奈の言葉に、隣で夕映が「きょ、去年のはきつくて着られなかったし」と頬をふくらまさせて不機嫌そうに言っていたものの、俺としてはそんな子供っぽい夕映の挙動を注視している場合ではない。
「そ、そうなんですよ。友人に誘われましてね……」
俺は恐る恐る、といった口調で言葉を置くように語った。
無論、そんな口調になるのも無理はない。
何といっても相手はあの真奈なのだから冷静に立ち回らないと、どんなボロを出すか分からない。もしくはちょっとした発言をヒントに何かを突き止められるかも知れない。
などと思っている時――。
「おーうい! 優! 勇くんの水着、これがいいと思うのだけれど、どうだろう?」
いつの間にかいなくなっていた三浦は、漫画でしか見た事のないような面積の少ないブーメランパンツを片手に視線の向こう、恐らくは男性用の水着が陳列されているであろう場所から大声と共に駆け寄ってくる。
そんな声量であるため、レジや商品の陳列を行っている店員さんや他のお客さんはもちろん、真奈と夕映の視線もそちらへと引き寄せられていく。
そんな状況に呆れていいのか、羞恥心を抱えるべきなのか分からなくなり、俺は頭を抱えて嘆息してしまう。
「な、何だか『優』と『勇くん』で呼び分けていた気がするけれど――まぁ、いいか。それよりも優、彼は友人かい?」
真奈は若干引きつった表情で問いかけてきた。
「ええ。……残念ながら」
三浦に対して呆れかえった表情と共に侮蔑の視線を送る真奈は暫しの沈黙を経て、俺の返答に対し「友人は選ぶべきだと思う」と呟くように言った。
まぁ、当然だと思う。
今の三浦は女性である俺に対してブーメランパンツを勧めてくる奇特な人物となっているのだ。発言上は両方とも「ユウ」に聞こえているのだから、真奈と夕映は俺の事を指していると思うのは至極当然だ。
とはいえ勿論、三浦が「勇」の水着を買おうとしている――などと真奈に言おうものならば、より複雑な状況になってしまう。
なので、俺は傍らに佇む愛衣ちゃんとアイコンタクトを交わす。
「ん? 優、この人達は一体?」
ようやく俺の目の前にいる真奈と夕映、二人の存在に気が付いたのか三浦は彼女らを交互に見つけて問いかける。真奈の残念な物を見つめる瞳と、夕映の恐怖に怯えるような視線を物ともしない三浦も流石といった感じではある。
愛衣ちゃんは俊敏な動きで三浦に歩み寄ると、スーツの袖を掴んで引っ張り、
「す、すみません。この人、頭おかしいんですー」
と言って三浦をどこかへ連れ去ろうとする愛衣ちゃん。
特に抵抗する理由がないのか「女性に罵倒されても僕は喜ばないよ?」と言いながら、この場から三浦は撤去されていった。
「……優、あの人と泳ぎに行くの? 私だったら嫌だけどなぁ」
俺の方を見つめ、不安と同情の込められた言葉を投げかけてくる夕映。俺の身を案じてくれている細やかな気遣いを感じるイントネーションだったが、しかし――残念ながら、真奈と夕映も「あの人」と一緒に海に行くんだよなぁ。
とはいえ、勇と俺の関係性は当日にようやく「知り合いだった」と開示される予定なのだから、三浦が実は今回の海行きのメンバーだという事は伏せておいた方がいいのだろう。
「ま、まぁ……そうなりますかね。別に悪い人ではないんですよ。悪い人では」
俺がそう語ると、顎に手を触れて神妙な面持ちで思考する真奈。
「でも、趣味は悪そうな人だったね。初対面で貶すような事は言いたくないけれど……しかし、『女性に罵倒されても喜ばない』というのは何だか男性相手ならば反応もまた違ってくるという事のようだね。――ん? そう考えると先ほどの水着と『勇くん』の呼称を鑑みるに」
「――ま、まぁ、どうだっていいじゃないですか。そんなのは」
真奈が確信に触れかけていたので、俺は必死に言葉で遮った。
本当にこの真奈という女性は無自覚に真相へと突き進むというか……一緒にいて勇や夕映は心臓が悪くなったりしないのだろうか?
そう思いつつも、俺は愛衣ちゃんが三浦を撤去してくれたおかげで、その後を追いかけるという口実と共にこの場を去る事が出来る。なので「話したい事も沢山あるのですけれど、彼らを追わないと」と言って、俺は別れの挨拶を添えてそそくさと立ち去ろうとする。
彼女らに背を向け、数歩を歩き出した瞬間だった――「あぁ、そういえば優」と言って真奈が事もなさげに俺を呼びとめてくる。
嫌な予感が俺の胸中を掌握し、油のさされていない機械のようにギシギシとぎこちなく振り返る。その先で俺の視界に飛び込んだ真奈の表情が特筆すべき感情を有していたわけではないもの、しかし――怖い。
何か面倒な事を指摘されそうな気がする……。
そんな嫌な予感は、やっぱり避けられなくて――的中する事となる。
「過去、一緒に働いていた優なのに私達がお盆に海へ行けるという事実を驚かないんだね。毎年、お盆が休めるはずないくらいに忙しい事は優も知っていると思ったのだけれど」
勘繰る風ではないのに、俺は真奈の言葉が訝しんでいるように思えて仕方なかった。
そうだ……俺は勇の店が盆を休む事実を知っていたから、そこに食いつけなかったのだ。本来は「珍しい事もあるものですねぇ」などと言わなくてはならない。
その事実を丁寧に拾って、このタイミングで投げ込んでくるとは……。
――やはり、真奈。恐るべし!
とはいえ、どうしたものだろうか。勇の職場が盆を休むという事実を俺が予め知っていた事にしなければならないのだが……。
と思案していた、その時だった――。
「ついこの間、私お店にお邪魔したんですよ。で、『お盆は休業します』って表記を見かけたもので。『珍しい事もあるもんだねぇ』ってお姉ちゃんと話してたんですよ」
背後から突如として聞こえた声――振り返ると、佇んでいた愛衣ちゃんが俺に対して「万事休すでしたね」と言わんばかりにニコリと笑む。
そんな愛衣ちゃんの助け舟に「あぁ、そういえば貼り紙してたね」と納得した真奈は、妙な質問で引き止めた事を謝罪して無事――俺は解放される事となった。
手に持っていた候補としての水着を早くこの場から離れたい一心で選別する事なく全て購入し、そそくさとその場から移動する俺と愛衣ちゃん。
三浦は屋上の休憩スペースに放置しているらしく、合流のためにエスカレーターにて上を目指して上り連ねる。
そんな最中に俺は問う。
「よく貼り紙なんかあるって知ってたなぁ。そんなによく勇の店に行くのか?」
すると愛衣ちゃんは「ふふふ」と不敵に笑んで、首を横に振った。
「一度も行った事なんかありませんよ。ただ、サービス業でかつ、盆が驚異的な忙しさを記録する店が今年は休み――となると事前の告知を行わないわけがないですからね。要は勘で言ったという事ですよ」
そう語って笑う愛衣ちゃんを見つめ、真奈も怖いけれどそんな彼女に対して平然と嘘をつき、それを成立させるこの子が実は一番危ないのではないか――そう思わずにはいられなかった。