優「阿呆でいいじゃん」
仕事から帰って来るなり溜め息をついて自分の部屋へと直行してしまった勇。
壊れたクーラーが吐き出す冷気に対抗するためソファーに腰掛けた俺は、毛布に包まりつつソーダ味のアイスバーを頬張っている。
正直、こういった行動には「幸せだなぁ」とか思ってしまう贅沢感がある。自分で室温を下げておきながら、その冷気を拒んで毛布を被っている――割には冷たいアイスを片手に背徳感。まぁ、代償として今月の電気代はきっとご機嫌だけれど。
そういえば勇が明日は休みらしいので、電気屋で相談して何とかしてもらうらしい。電気代を気にするならばクーラーのコンセントを抜けばいいと言われるかもしれないが、一度抜くと電源はもう入れられない。何せ、リモコンが壊れているのだから。となると、つけっぱなしにしておく他ない。
それまではちょっとした贅沢に伴う背徳感を味わうのだ――と思うも、想起。
そうだ、勇に伝えておかないと。
俺は毛布を脱ぎ捨てると立ち上がり、勇の部屋へと向かう。いつものようになどと語れば勇に「いい加減にしろ」と言われそうだが、ノックもせずに扉を開く。
「おい、勇。そういえば海行きの件だけど――」
俺が扉を開くと、勇は椅子に腰掛けてパソコンの画面を見つめつつ溜め息を吐き出していた。それだけならば俺が絶句する理由にはならないのだが、そのパソコンの画面には妖艶な笑みで裸を晒す女性の画像が表示されていた。
「何見てんだよ!」
俺は怒りと侮蔑、それにちょっぴりの呆れを込めてそう叫ぶと、勇の脳天を履いていたスリッパで殴打する。
このスリッパを脱ぎ、手に持ってから殴打の流れ――実に数秒。洗練された無駄のない動きは、如何に勇が俺の苛立ちを日々買っているかを物語っている。
ついでにパソコンに電力を供給しているコンセントも引っこ抜く。ノートパソコンではないため充電の機能を持っておらず、瞬間的に画面が生気を失ったが如く真っ暗になる。
そんな一連の流れに対していつもならば「何をするんですか、優! 本当にそれは壊れるからやめて下さい」と言ってくるはずなのだが、勇はまたしても嘆息。
まぁ、何度も注意されておきながらコンセントを抜いている俺の方が相当に悪な気もするけれど……。
しかし――。
「いや、溜め息をつきたいのは俺の方なんだがな……お前さん。昨日の胸の件といい、そういうアダルトな画像を見まくってたり、中学生かよ」
「まぁ……中学生止まりなのは認めますけどね」
勇は触れがたい過去の闇を自覚的に、そして自虐的に用いてくる。
うーん、かなり心が荒んでいるなぁ……とはいえ、俺としては勇のその顕著になってきた性欲に対して思う事もある。言うなれば責任のようなものだろうか。
もしかして、と――。
だから、その辺を言及するつもりはない。しかし、いつものようにパソコンを労わる言葉もなければ、激怒する事もないというのはちょっと異常である。
「どうしたんだよ? 溜め息なんて似合わねーな」
「似合わない? あぁ、悩み事が似合わない単細胞と思われてるんですね。そうですね、どうせ私は中卒の元引きこもりですから」
「……本気で面倒くせぇなぁ。何かあったんなら、言ったらスッキリすると思うけどなぁ。言いにくい事なのか?」
俺がそう言うと、椅子の向きは変えずに首だけをこちらに向けて、陰鬱な表情を浮かべた勇は語る。
「……言いにくくはないですけど、馬鹿にされる事は分かっているので抵抗があります。ですから、馬鹿だと罵らない確約を貰えれば話します」
「分かった確約してやる」
俺が二つ返事で了承すると少し戸惑ったような挙動を見せつつ、勇は語る。
「真奈と夕映を海に誘ってしまいました」
「阿呆だな」
「馬鹿にしないって言ったじゃないですか!」
オフィスによくある回転チェアを半周させて体ごとこちらを向くと、勇は咎めるような視線で俺を見つめて言った。
「阿呆にしたんだよ」
「阿呆の方が言葉として鋭利です!」
「そうか? あんまり変わらんと思うけどなぁ」
俺は腕組みをして懐疑心を露わにする。
「馬鹿は頭が悪い人って感じですけど、阿呆は頭がおかしい人という印象があります!」
「じゃあ、阿呆でいいじゃん。お前さん、頭は悪くないだろ」
「馬鹿でもいいから正常でいたいです!」
「うーん。じゃあ、馬鹿」
「馬鹿だと罵らない確約はどこにいったのですか!」
その不服の述べ方から、とりあえず「失敗した事は自覚しているから、あまり触れないでくれ」という意図は伝わった。もっと弄繰り回しても楽しいとは思うが、重要な問題が提起されているのでやめておく。
そう――。
「真奈と夕映を呼んじまったって……俺は別に困らねーけど、お前さんの方は問題ありだろ。だって、夕映の体をペロペロして擦っての日々だったわけで、そんな中身は男性でしたぁ……ってのが露呈すると仲違いに発展しそう。それが嫌なんだろ?」
「そうですよ。――っていうか、勇。いつだったか真奈から聞きましたけど、あなた夕映に対してあの日、ファミレスで身体検査みたいな事を行ったのですか?」
勇は表情をしかめて俺に問いかけ、そんな質問で「身体検査?」と疑問符が頭上に浮かばんばかりの胸中。
しかし、ファミレスというシチュエーション。
……あぁ、あれか。
「動物とじゃれるように夕映にスキンシップを取ればよかったらしいな。よく分からんからお前さんの言われた通りにしたんだけど――しかし、あれだな。真奈も無関係って事になってるはずのお前さんに俺のエピソードを聞かせるあたり何つーか、流石だな」
「……ですよねぇ」
俺の言葉で真奈という存在が持つ高すぎる洞察力に、入れ替わりの露呈は確実と懸念したのかまたもや嘆息して首を垂れる勇。
あくまであの二人にはバラさない方向性、か――。
「どこまで行けるか分からんが、俺と勇はそもそも知り合いだったって事にするか? そんでもって当日、真奈と夕映に鉢合わせした時、お前さんが『お二人の言ってた優って、この人の事だったんですか!』って驚けばいいんじゃね?」
その提案に少しは可能性を見出し――しかし同時に不備も感じ取ったのか、顔を上げるも顎に手を触れさせて「確かにそうですが……」と勇は呟く。
「私がこの体で初めてあの職場にて仕事をした日、真奈達に『君と同じ名前で優という女性がいた』という話に『偶然ですねぇ』なんて返事をしたわけですけれど……その時に、私が『自分の知り合いにも優がいるんですよ』という風なエピソードを交えてなかった事を、真奈は指摘してきませんかね?」
「こ、細かいな……とはいえ、真奈ならあり得るか」
「でしょう?」
「でも大丈夫じゃねーのかなぁ。何度も使っている文句ではあるが、非科学的な入れ替わりって現象にはなかなか人間、行き着かねーっての」
「まぁ、そうですか……」
勇はそう納得と共に表情を幾分か明るくした。
決して問題は解決しておらず、あくまで真奈と夕映を演技で欺いてみようという挑戦が可決されたに過ぎない。それでも話して楽になったのだろう。
――とはいえ、夕映も事実が明るみになってそんなに怒るのかな?
温厚そうなのに……でも、勇自身が気にするって面もあるのか。
ならば、真奈達に対して行う対応は「知り合いだった」それでいいだろう。
「って訳だから、愛衣ちゃん! 口裏合わせよろしく!」
俺ははっきりとこの場に存在しない少女にも聞こえるようにその旨を伝える。そんな俺の行動から数十秒もすれば勇の携帯が着信音を鳴らし、
「了解、だそうですよ。全くこのカメラいつ外してくれるんでしょうか……割と困ってるんですけれど」
と、勇はもう何度目か分からない嘆息をしつつメールの内容を俺に伝えた。
「そりゃそうだろうな」
「優にこの苦悩が分かるんですか……」
呆れた表情で俺に力なく問う勇。
「まぁ、他ならぬ俺だからな」
「あらゆる苦痛を共有してきた私達ですが、何でもかんでもその言葉で押し切れると思ったら大間違いですよ?」
「そうか?」
「そうですよ」
どうも共感を得たくないようで、勇は打ち止めとばかりにぴしゃりと言った。
確かに人間には共感されたい心に反して、同調を認めたくない心境もある。気安く、半端な理解を自分に重ねるな――と。
それに関しては確かな共感が出来る。
他ならぬ俺でなくとも――人である限り。
などと思考している最中、俺はこの部屋に来た本題をまだ語っていない事に気付いた。
「あぁ、そういえば三浦も海に来るって言ってたぞ。車も出してくれるってよ。何だか計画も現実味を帯びてきたと言えるが――しかし、そっちがメンバーを増やしてくるとはなぁ。全部で五人か……三浦の車って見た事ないけれど、独身だからきっと大きくないぞ?」
俺はそう語りつつ、もう一台車が必要となるとどうしたものだろうかと思う。俺の両親を巻き込めば車をもう一台出せるかも知れないが、親が同伴というのも真奈や夕映としては抵抗があるだろうし、俺自身もちょっとなぁ……って感じだ。
しかし、そんな疑問は勇のしたり顔から発せられた言葉によって打ち砕かれる。
「あぁ、それは大丈夫です。手は打ってありますから」




