人は自分を映す鏡だっておばあちゃんは言ってた
稚拙な文章かと思いますが、誰かに読んでいただけたら幸いです。
感想などありましたらよろしくお願いします。
深夜4時。果たしてこの時間は夜と言っていいのだろうか正直疑問に思うところだが、ここは深夜と言っておく。
深夜4時に僕は家の前の交差点に立っていた。誰を待つわけでもなく、どこかに行こうとしているわけでもなく。ただぽつんと一人、交差点の前に立っていたのである。
僕は、不眠症だった。どうして不眠症なんていうものになったのかおおよそ検討がつかない。いつも突発的に不眠症になるのだ。対策のしようがないのである。
不眠症になってしまうと、空が明るくなる瞬間に立ち会える。これは、これで悪くはない。カーテン越しに外がだんだんと明るくなっていき、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。朝らしい響きが部屋に響き渡る。
しかし、僕自信は不眠症である。悪くはないと言っておきながら内心は、悪かったりする。だって眠れないのだから。普通は、その朝のBGMに誘われて人々は目覚めるのに、僕は眠ろうと必死なのだ。世界は、僕の気持ちなんておいて進んでいくんだと、朝が訪れるたびに感じる。
こうして僕は、不眠症になるたびに朝の交差点でぼんやりしているのである。
この毎回の恒例行事に、今回初めて変化が起きた。
交差点の目の前に見知らぬ40歳後半のおっさんが立ったのである。深夜4時。人が起床し始める時間とはいえ、この時間に外に出る人間は、田舎の農家のおばあちゃんやおじいちゃんで、畑の見回りに行くくらいの目的しかないと思う。断っておくが、僕のいるところは田舎ではない。(大都会、といえるものでもないが……)
おっさんは、短髪で赤色の短パンに緑色のTシャツ姿だった。Tシャツには、大きいハンバーガーの絵がプリントされていた。しかし、そのTシャツはずいぶんと着古しているのかいくらかプリントが剥がれかけていた。
一見すると、早朝のランニングをしに出かけたようにも見えた。しかし、おっさんは茶色の革靴をはいていたのである。サラリーマンがスーツをセットで履くような革靴である。
僕も、Tシャツにスウェットで寝間着姿ではあったが、おっさんの服装は特に目を引くというか変であった。この時間にはまずお目にかかれない奇妙な服装なのだ。短パンTシャツ革靴。そんな格好で外に出るだろうか?
僕は、交差点の反対側にいるおっさんに話しかけようと試みた。
大きく手を振りながらおはようございますと話しかけてみた。しかし、こちら側を見る気配はなかった。よく見てみると、おっさんは耳に白いコードのイヤフォンをして音楽を聴いていた。
僕は、おっさんがどんな音楽を聴いているのか少し気になった。40歳後半は微妙な年齢だ。流行りのバンドやアイドルの曲も聴くだろう。洋楽だって聴くし、育ちがよければクラシックだって聴いているはずだ。演歌には少々早いかもしれない。
こうして、僕はおっさんの聴いているものはクラシックであると勝手に断定した。今まさに、おっさんはバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でも聴きながら夜が明けるであろう空を見ながら何かを感じているに違いない。
なんだか面白くなってきてしまって、おっさんに話しかけるのがもったいない気がしてきた。話しかけた瞬間、おっさんの素性ついて知ってしまい、答え合わせのような気分になってしまうような気がしたからである。
僕は、少々この変わった推理問題が楽しくなってしまったようだった。
しかし、どうやら時間がきてしまい、この面白そうな問題を僕は解けないまま終えなければならなかった。
眠気が僕の体を徐々に覆ってきたのである。眠くなってきたのだ。
不眠症の僕にとってこの瞬間が、一番の幸福な瞬間である。ようやく眠れる。なんだか一種の神の啓示にさえ感じられるのだ(少々大袈裟である)
おっさんのことは少々気になる。しかし、そんなことよりも睡眠だ。眠れることがとても嬉しい。
また眠れなくなったとき、この交差点でおっさんを見かけた時にこの推理の続きをしよう。楽しみは後にとっておくものだ。そして、不眠症になったとしても楽しみの一つがあると思うと、不眠症が少しは好きになれるような気がするじゃないか。
今日は、もう寝るとしよう。おやすみなさい、奇妙な格好をしたおっさん。
こうして僕は、家に帰ってベットにもぐりこみ、長い夜に別れをつげ眠りについたのであった……。
20年後……
私は、未だに不眠症に時々なる。不眠症のせいで結婚ができず、仕事に遅刻することが多くなり、何回か会社を解雇されることもあった。
現在、無職。これからの自分にどんな未来が待っているのだろうか。
洋服も満足に買うことができず、いつかの公園でやっていたフリーマーケットで買った赤い短パンと緑のハンバーガーのTシャツを未だに着ている。靴だって、スニーカーは一足しか持っていなくて、昨日の夜に洗ったばかりで目の前には仕事で履いていた茶色い革靴しかない。
私は、もうこの世に未練はない。そう思えた。
私は、CD音楽プレイヤーに名曲クラシックCDのアルバムを入れて外にでた。1曲目のバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」が流れ始めた。
深夜4時、人なんていないこの時間。僕は静かに歩き始め、交差点の前まで来た。
人はいないが、車くらいは来るだろう。コンビニの配達者やらなんやらが。そして車が来たら交差点を横切ってその車に轢かれて死ぬ。それでいいだろう。自分の人生の終焉にしては少々地味だが、それでいい。もうなんでもいいんだ死に方なんて。
しかし、一向に車がこない。来る気配さえないのだ。
交差点の前に来て、しばらくして気づいたのだが、どうやら目の前に先客がいたようだ。若い20歳くらいの寝間着姿の男がたっていた。
自分にもあのくらいの時期があったなとふとそのとき思った。あの頃は何もかもが希望に満ちあふれていた。どんな失敗も恐れない若さもあった。
今の自分はどうだろう。もう若くはない。人生も折り返し地点だろう。おまけに不眠症だ。生きていても意味はない。
生きていても意味がない。本当にそうだろうか?
仮に、今ここで死んだとして、目の前の青年はどうなる。人が死ぬ様をまじまじと目に焼き付けてしまい、その後の人生観に少なからず悪い影響を与えてしまうだろう。彼の未来を自分の命と道連れにしてしまっていいのだろうか。
私は、死ぬことをその時ためらった。私は死ぬことを選んだとしても人に迷惑をかけることしかできないらしい。悔しいが、私の人生はそういうものなのだろう。
ため息をついて交差点の反対側を見たときには、さきほどの青年はいなくなっていた。
いなくなったとしても、私の心の中ではもう既に意識は変わっていた。
残りの人生の折り返し。ここからだ。ここから、何かを成し遂げてやろう。そんな意識に変わったような気がした。
まずは、不眠症を完治させてやろう。
話は、それからだ。
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