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右腕を失った元天才書術士の代筆屋稼業~白紙の聖典を持つ少女と出会い、左手の錆びたペンで神のシナリオを書き換える~  作者: 黒崎隼人


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9/9

エピローグ「新しい頁を開いて」

 あの世界改訂の日から2年の歳月が流れた。

 大陸の西端、港町リュミエールには今日も変わらず美しい海風が吹き抜けている。

 かつて街を覆っていた重い霧はすっかり晴れ、太陽の光が石畳の道を暖かく照らしていた。

 路地裏の奥にあるアルス代筆店。

 新しく作り直された真鍮の看板が朝日にきらきらと輝いている。

 カチ、カチと室内の柱時計が規則正しい音を刻む中、アルスは机に向かってペンを走らせていた。

「よし、これでよしと」

 アルスがペンを置いたのは彼の右手だった。

 あの決戦で魔力回路は完全に消滅し、彼は二度と書術を使うことはできなくなった。

 しかし2年間のリハビリを経て、普通の人間として文字を書くことなら右手でも十分にできるようになったのだ。

 今の彼は魔力を持たない、ただの、しかし最高に腕のいい代筆屋である。

「アルス、お疲れ様です。お茶が入りましたよ」

 奥の部屋から美しいトレイを持った少女が姿を現した。

 艶やかな漆黒の髪を後ろで一つに結び、エプロン姿で微笑む彼女の青い瞳にはかつての空白など微塵もない。

 生き生きとした知性と感情の光が満ちあふれている。

 エルナだった。

 彼女はこの2年間、アルスの助手として、そしてこの店の看板娘として人間の言葉を学び、自らの言葉でたくさんの思い出を紡いできた。

「助かる、エルナ。ちょうど喉が渇いていたところだ」

 アルスはエルナの淹れたハーブティーを一口すすり、静かに息を吐いた。

「先ほどのお客様、遠くの街へ行く恋人へのラブレターだったのですね。とても素敵な言葉が並んでいました」

 エルナが嬉しそうに羊皮紙を覗き込む。

「ああ。言葉ってのは魔力がこもっていなくたって、人間の心を動かすには十分すぎる力を持ってるからな。今ならそれがよく分かるさ」

 アルスは自らの普通の右手を見つめ、それからエルナを見て微笑んだ。

 その時、店のドアベルが軽やかに鳴った。

「おい、アルス。エルナちゃん。元気にしてたか」

 入ってきたのは警備隊の制服を着た大柄な男、ボリスだった。

 彼の腕には大きな木箱が抱えられている。

「ボリスか。相変わらず騒々しいな。密航の取り締まりはどうした」

「もう霧が出ないからな、密航する奴も減ったさ。それよりこれ、レオンの旦那から預かりものだ。お前らにってよ」

 ボリスが机に置いた木箱を開けると、中から出てきたのはまばゆいほどの純白のノートと、一本の美しく新しいガラスペンだった。

 表紙にはレオンの流麗な筆跡で、親愛なるアルス、そしてエルナへと手紙が添えられていた。

 手紙には、世界にはまだまだ俺たちの知らない美しい言葉と景色が溢れていると記されている。

 書芸院の再建も落ち着いた今、そろそろその新しいノートを持って、二人の旅の続きを書きに行ったらどうだ、と。

 アルスとエルナは顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。

「相変わらずお節介な奴だな、レオンは」

 アルスはそう言いながらも、愛おしそうに新しいガラスペンを手に取った。

「いいですね、アルス。私たちの新しい物語」

 エルナがアルスの隣に寄り添い、その瞳を輝かせる。

 世界はもう神様が書いた本じゃない。

 今を生きるすべての人々が、自分のペンで自分のインクで、毎日のページを自由に綴っていく新しい世界だ。

 アルスは白紙のノートを開き、優しくしかし確かな足跡を残すように右手で最初の1行目を書き加えた。

 西の港町リュミエールにて、天気は快晴。

 代筆屋と世界で一番美しい少女の新しい旅が、ここから始まる。

 アルスがペンを置くと、エルナが彼の空いている左手をそっと握りしめた。

 二人の前にはまだ誰も見たことのない、どこまでも白くどこまでも自由な新しい未来のページが広がっている。

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