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右腕を失った元天才書術士の代筆屋稼業~白紙の聖典を持つ少女と出会い、左手の錆びたペンで神のシナリオを書き換える~  作者: 黒崎隼人


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第2話「検閲官の黒い影」

 朝焼けの朱色に染まり始めたリュミエールの時計塔。

 冷たい海風が二人の髪を激しく揺らす。

 アルスは左手から伝わるひりつくような焦燥感と、全身を駆け巡る激痛に歯を食いしばった。

「……くそ、思ったより回路の逆流がひどいな」

「アルス、無理をしないで。私のためにあなたが壊れてしまう……」

 エルナがすがるような手つきで、アルスのボロボロになった左手を覗き込む。

 その瞳には、自分の存在が他者を傷つけることへの根源的な恐怖が揺れていた。

「言うだろう、お前の物語に興味があるんだ。それに――」

 アルスが言葉を切り、眼下の街を見下ろす。

 リュミエールの美しい港町が異様な雰囲気に包まれていた。

 朝靄のなかにぽつぽつと漆黒の光が灯っている。

 それは神聖書芸院の検閲官たちが展開した、街全体を隔離する結界術式『鎖』の文字群だった。

「街を丸ごと検閲する気か。あいつら手段を選ばなくなってやがる」

 背後で硬質な金属音が響いた。

 振り返ると時計塔の点検用ハッチがゆっくりと開き、そこからあのモノクルの男、特級検閲官ギルバートが姿を現す。

 法衣に汚れ一つない。

 アルスの極大移動術式を完全に予測していたかのような、精密機械めいた足取りだった。

「無駄な足掻きを、アルス・カリグラフィ。君の左手の書術は見事だが、急造の回路ではあと一回文字を紡ぐのが限界のはずだ」

 ギルバートは懐から鈍い銀色に光る特殊な万年筆を取り出した。

 そのペン先には禍々しいほどの濃度のマナがどす黒く収束していく。

「君の右腕を奪った大禁書惨劇。……あの時、君が神を恐れず世界を書き換えようとしなければ、今でも書芸院の至宝として称えられていただろうに」

「神を恐れず、だと」

 アルスは血を吐き捨て、エルナを自身の背中に庇った。

「あいつらがやっているのは歴史の改ざんと人間の言葉の搾取だ。俺はただ、白い紙に本当の言葉を書き戻したかっただけさ」

「それが叛逆だというのだ。……消えなさい、過去の遺物」

 ギルバートが万年筆を振るうと、空中に『葬』『影』『縛』の三文字が浮かび上がった。

「影の葬列に縛られよ」

 ギルバートの足元の影が爆発的に膨れ上がった。

 無数の黒い触手となって時計塔の屋根を這い、泥のようにうごめきながらアルスたちの足元へ襲いかかる。

 触手が触れた屋根のレンガが一瞬で腐食し、乾いた砂となって崩れ去っていく。

 触れれば魂ごと消滅させられる死の呪いだった。

「エルナ、俺の服を掴んでろ!」

 アルスは再び血墨の瓶を口で咥え、震える左指を浸した。

 激痛で視界が真っ赤に染まる。

 脳裏で魔力回路が限界を告げる警報を鳴らしていた。

 だがここで立ち止まれば、この少女は再び書芸院の冷たい檻に閉じ込められる。

 アルスは空中に歪だが力強い『断』の一文字を刻み始めた。

 だがギルバートの影の触手は速かった。

 アルスの文字が完成するより早く、黒い影がアルスの左手首に蛇のように巻き付く。

「が、ああああああああっ!」

 魂を物理的に削り取られるような痛みがアルスを襲う。

 左手の魔力が霧散し、文字が空中で消えていく。

「終わりです。お前のような壊れたペンでは何も綴ることはできない」

 ギルバートが冷酷に言い放ち、触手をエルナへと伸ばした。

 その時だった。

 アルスの背中で、エルナの身体が引き絞られるように震えた。

 彼女の衣服が内側から放たれる凄まじい純白の光によって引き裂かれる。

「……あ……あ……」

 エルナの口から言葉にならない無垢な声が漏れる。

 彼女の背中に刻まれた白紙の聖典。

 その文字群がアルスの流した血墨と共鳴するように、激しく神々しく発光した。

 純白の光の波形が広がり、ギルバートの黒い影を塵一つ残さず蒸発させる。

「何だと!」

 ギルバートが初めて冷静な仮面を崩して声を上げた。

「聖典が自ら防衛術式を起動したというのか。意思を持たないはずの器が……!」

 エルナの背中の文字が目に見える光の糸となって、アルスの左手へ絡みつくように伸びていく。

 その糸が触れた瞬間、アルスの全身から痛みが消え去った。

 それどころか失われたはずの右腕の回路からさえも、奔流のような清らかなマナが流れ込んでくるのを感じた。

「これは……世界の原初のインク……!」

 エルナの背中から流れ込む力は、書芸院が管理するどんな魔力よりも純粋だった。

 どんな絶望的な言葉をも肯定する力に満ちている。

「ギルバート。俺のペンは壊れてるかもしれないが……最高の紙がここにいるんだよ!」

 アルスは左手を高く掲げた。

 指先に絡みつく光の糸が眩いばかりの巨大なペン先を形成する。

 アルスは空中に極大の『破』の一文字を一息で描き切った。

 書術士が一生に一度、己の魂をすべて賭けて紡ぐと言われる奇跡の形である。

「馬鹿な、その規模の術式を一人で!」

 ギルバートが防壁の文字を重ねて描こうとするが、遅すぎた。

 アルスが紡いだ文字が時計塔の頂上から解き放たれる。

 それは光の津波となってギルバートの術式を砕き、街を包囲していた結界ごとリュミエールの霧をすべて吹き飛ばした。

 まばゆい光が収まったとき、ギルバートは膝をついていた。

 モノクルが割れた顔で呆然と天を仰いでいる。

 彼の自慢の万年筆はペン先から真っ二つにへし折れていた。

「……見事だ、アルス・カリグラフィ。だが……世界は神聖書芸院の手からは逃れられない……」

 そう言い残し、ギルバートは魔力の枯渇によってその場に崩れ落ちた。


 ◆ ◆ ◆


 数時間後。

 霧の晴れたリュミエールの港から、一隻の小さな交易船が朝の海へと滑り出していた。

 潮の香りが漂う荷物室の隅、干し草の上にアルスとエルナは並んで座っている。

「……悪かったな。お前の力を無理やり引き出しちまったみたいで」

 アルスは包帯を巻いた左手をさすりながら頭をかいた。

「いいえ。私、アルスが傷つくのを見て身体が勝手に……。あの時、私の中にあった何かが、あなたを助けたいって叫んだ気がしたんです」

 エルナは自分の両手を見つめながら、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「お前の記憶のヒントはやっぱり書芸院の総本山にありそうだな。……あいつらの言う第一級禁忌指定物ってのがお前の正体だ」

 アルスは窓の外、遠ざかっていくリュミエールの街を見つめる。

「ここからは逃亡犯だ。厳しい旅になるぞ、エルナ」

「はい。でも、怖くありません」

 エルナはアルスの顔を見つめ、力強く頷いた。

「あなたのペンが私の次のページを書いてくれるなら」

 二人の乗った船は広大な大陸の中央へと向けて波を蹴立てて進んでいく。

 しかし彼らはまだ知らなかった。

 エルナの白紙の聖典が覚醒したことで、世界全土の文字がかすれ始めるという恐るべき崩壊の秒読みが始まったことを。

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