序章(前日譚おまけ)
蛇足っていうか前日譚というか。読まなくても本編に影響はありません。
ブルーワース伯爵家のルカを知らない貴族はよほどの世間知らずか社交界のモグリだ、とは誰が言い出した噂だっただろうか。いつの間にか私の幼馴染は社交界の有名人になってしまっていた。
マルカ・ブルーワース伯爵令嬢といえば、この国の貴族であれば誰でも一度は名前を聞いたことがあるとまで言われているらしい。彼女の実家であるブルーワース伯爵家は港を有し国内の物資流通に大きく貢献している優良な家だが、彼女自身は幼いころから大人しく決して目立つようなタイプではなかった。母親同士の縁で幼少期から共に過ごしていたが、もう一人の幼馴染であるマリアンナが気の強い性格だったこともあってマルカは控え目でおとなしい少女だった。
そんな彼女の生活が一変したのは、デビュタントを翌年に控えた14歳の頃だった。伯爵が事故で大怪我を負い足に障害が残り、さらに予後が悪く病床に臥せった話は公爵家にもすぐ届いた。幸いにして命こそは助かったが、伯爵としての仕事をこれまで通りに行うのは到底無理、頼れる親戚縁者もいないとなって伯爵家の進退に社交界がざわついていた中、表舞台に飛び出してきたのがマルカだった。
伯爵の事故から数か月、久しぶりに会いたいとマリアンナと二人、ブルーワース家に招待された。そこで姿を見せたのは、すっきりとした仕立てのいいスーツに身を包んだマルカだった。悔しいことにすらっとして背が(私よりも)高いマルカの男装はものすごく似合っていた。なんだマルカには実は兄がいたのか、と思ってしまうほどその姿は様になっていて、私もマリアンナも唖然としてしまった。そんな様子を見てマルカは「どうかな」照れたように笑った。
「マルカ、その恰好……」
マリアンナがどこか浮いたような口調で問いかけるのがどこか遠くで聞こえる。目の前の映像の処理が忙しくて耳が正常に機能していないようだった。
「お父様の代わりに、伯爵家の社交は私が前に立つことにしたの……したんだ。弟が成人するまでの間だけだけど」
「まぁ、喋り方まで」
「この格好でこれまでの話し方だと違和感があるからね。名前も、これからは男の子みたいにルカって呼んでほしいな。今更男の子のフリしたって社交界の人はブルーワース家のマルカだってバレてるけど、けじめっていうか……お父様の代わりだってことを示したいんだ」
「……」
「わかったわ、ルカ。すっごく素敵よ、かっこいい。本当の男の子だったらルカと結婚したいくらい」
先に正気を取り戻したらしいマリアンナはそう言ってマルカの手を取った。ほっとして微笑んだマルカの顔は、これまでずっと見てきた彼女となんら変わりはなかった。
「マリアンナにそう言ってもらえると嬉しいわ……嬉しいよ」
「いいこと思いついたわ、わたくしのこともアンナと呼んで。そうすれば男の子の名前を騙っているのではなくて、名前の後ろを取ったお揃いの愛称みたいになりますもの」
「……うん、ありがとう。アンナ」
手を取り合って笑う二人を見ながら私ははぁ、と息を吐いた。ここまで言うということは、もう彼女の中で決心はついているのだとわかったからだ。
「わかった。私もマルカを支えるようにする。私のこともザックと呼べば、マリ……アンナの言う通り違和感が少なくなるかもしれない。でも、私はルカとは呼ばないよ。男の名前でお前を呼べない」
「うん、それでもいいよ、ありがとう。アイザック……ザックがついてくれるなら私も心強い」
「……私たちの前でくらい、いつもの話し方でいいじゃないか」
「でも、これからを考えると慣れておきたいんだ。気持ち悪いだろうけど許してくれ」
マルカが笑顔でそう答えるのを見て、無意識に眉間に力が入ってしまった。はっとして少しうつむくマルカに、誤解を与えてしまったのがわかったけれど素直に今の気持ちを言葉にできる気がしなくて口をつぐむ。その様子を横目で見ていたアンナは呆れたように私を見て、マルカを励ますようにつないだ手を握り直した。
「気にしなくていいわ、ザックは拗ねているだけよ。来年のデビュタントでマルカをエスコートしたかったのに、急に“ルカ”になってしまったんですもの」
「えっ」
「マリアンナ! 余計なこと言わなくていい!」
アンナの言葉にマルカの頬がさっと赤く染まった。おそらく、自分の頬も。おずおずとこちらをうかがうマルカにその顔を見られたくなくてさりげなく顔をそむけた。
気の強いマリアンナと穏やかなマルカ、一緒に過ごしていて気が休まるのは当然マルカだし、心優しい性格や賢く聡明な姿も見ているうちに惹かれていくのは自然なことだった。(別にマリアンナが悪いというわけではないし、どうせ向こうも同じことを思っている)幼馴染という気やすい立場でならそんなこっぱずかしい思いを隠したままエスコートに名乗りを上げられるだろうと企んでいた、そんな下心を勘のいいアンナに気づかれていたというだけだ。
「ごめん、そんな風に考えてくれてるなんて知らなかった。アンナは相手決まっていないの? 本当は私が頼みたいと思ってたんだけど、アイザックとアンナでペアになったら? 二人なら絵になるよ」
「待て。エスコートする側に回ろうとしてたのか!?」
「え、だって、男の子の恰好だし」
そんな思いを知ってか知らずか、明後日の方向に弁解するマルカに、顔が赤くなっているのも忘れて向き直る。さすがのアンナもこの発言には驚いている様子だった。
「わたくしがアイザックと行くことにしたらルカはどうするの?」
「どうしよう、お隣のミシェル様なら頼めるかな」
「グレージュ子爵家の方ですわね。確かお兄様もいらしたわね」
「うん、元々ドレスで参加するにしてもグレージュ様にお願いしようと思っていたし……ザックが誘ってくれるなんて思ってなかったから!」
「……」
ハナから自分はお呼びでなかったと言われているようで気分が下がっていくのを自覚する。
「でも、見つからなかったら1人で行くし、やっぱりアンナはザックと」
「マルカとアンナで行けばいい。私は従姉妹のアリサと行くことにする」
「そうしましょう。ルカの隣にわたくしたち以外がいるのはいい気分ではないですもの。ねぇザック」
「……もうそれでいい」
見るからに不機嫌になっていく私を見て、マルカが慌ててまた突拍子もないことを言い出したので、白旗を上げて降参する。嬉しそうにするマルカに聞こえないよう、アンナからは小さな声で「いい加減素直におなりなさい」と釘を刺された。
そうして3人そろって社交界デビューを果たし、マルカはブルーワース家の男装令嬢として社交界の噂の的になった。その後も色々なパーティーに招待される中で、その度に私とアンナが側についてマルカを支えた。私の実家とアンナの実家も伯爵家をサポートするように動いてくれていたらしい。そんな風にマルカの当主代理としての日々は過ぎていき、すぐに社交界の有名人へとなっていった。
不思議なもので、マルカはもともと控え目でおとなしく、引っ込み思案だったというのに男装をすると性格のスイッチが切り替わるようだった。パーティーに呼ばれるたびにタキシード姿で参加していくうちに、すっかり“ルカ”が板についていったようで、最初は壁の花となっているアンナの側にいてダンスホールに出ることはなかったのだが、次第に同年代の女の子からダンスに誘われるようになり、今ではすっかり男性パートが得意になったと笑う。そのおかげで私はマルカをダンスの一つにも誘えなくなってしまったのだが。
「学園にもその恰好で通うのか」
「うん。休みの間のシーズンでみんなもう知ってるだろうし。学園に相談したら許可してもらえたから制服も用意したんだ」
デビューシーズンの休みが終わり、学園の新学期が始まる前に会ったマルカは平然と言ってのけた。最初の1年は女子生徒の制服で通っていたから少し違和感があるけど、これもすぐ慣れるだろうとあっけらかんと。
「学園でもルカと呼ばせるのか?」
「強要はしないけど、そう呼んでもらえるよう頼むつもり。でも、無理に呼ばなくていいから」
「うん。私はマルカを男の名で呼ぶのは嫌だから」
周りがどれだけ彼女を“ルカ”として男扱いしてきても、私だけは“マルカ”として扱うことをやめなかった。ちっぽけなプライドのために未だに気持ちを伝えられてはいなかったが、これだけは譲れないところだった。
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実際、学園に男装で登校してもすぐにマルカは馴染んでいった。休み中に散々顔見せと当主代行の仕事に精を出した結果だろう。1年も経つ頃にはすっかり女子生徒からの人気を集め、休み時間には囲まれる姿もよく見かける。
「ルカ、明日我が家でお茶会をするの。いらしてくださる?」
「ルカ様。わたくしダンスがあまり得意でなくて、よろしければ練習に付き合ってくださいません?」
「ルカ先輩! 私今度のパーティーでエスコートしていただく方が見つからなくて、お願いできないでしょうか」
「いいよ、私でよければ」
その日も昼休みに中庭で後輩の女子生徒とダンスをしているところを見かけた。マルカのエスコートでくるりと回る度、女子生徒のスカートがふんわりを広がって舞い上がる。秘密の花園とでもいうようなその光景を、男子生徒は遠巻きに眺めている。
「相変わらずルカの一人勝ちだなぁ……」
「聞けよ、俺の婚約者もあの輪の中にいるんだ」
「仕方ない、ルカがかっこいいのは事実だ」
同級生の男子生徒たちもマルカを女子扱いしていない。むしろ好きな令嬢や婚約者を取られるライバルとして見てすらいる。そんな会話を聞き流しながら後輩女子の腰をホールドしてくるくると回るマルカをぼんやりと見ていたら、不意に「アイザックもそう思うだろ」と話を振られた。
「私は、」
ふとダンスが止まった。先ほどまで相手をしていた女子生徒がマルカから離れると、いつの間にかできていたギャラリーの真ん中でマルカが次の相手を待って手を差し伸べていた。
「一度上手い人のを見た方がいいかもしれない。アンナは今日いないから……誰か相手をしてくれる?」
風に乗って聞こえてきたマルカの声に誘われるように足が動いた。
「アイザック?」
「私はマルカのこと、ずっと可愛いと思ってる」
女子生徒の山をかき分けてマルカの前に出ていくと、彼女は目をぱちくりさせて驚いていた。
「ザック?」
「マルカが手本を見せてあげたらいい。私が相手をしよう」
流れるような動作でマルカの手を取ると、止めろと言われる前に素早くホールドを取る。腰に手を回されてはっと顔を上げるマルカと目が合い、気が付いた。私の方が背が高くなっている。私を見上げて少し上を向いたマルカの青い瞳に真昼の太陽が差し込んでキラキラと輝いていた。あぁ、ようやくこの日が来た。
「ざ、ザック。待って、私女性パートなんて」
「家では練習していると聞いているぞ。相手に任せればいいとさっき言っていなかったか? 見せてやればいい」
ワン、ツーとカウントを取って動き出す。慌ててついてくるマルカのステップは正直うまいとは言い難い。いつもアンナと踊ってばかりいるからだと言ってやりたい気分になる。必死についてきながら、時々ちらりと上目遣いでこちらを見てくる姿がたまらなく可愛らしい。目が合う度に耐え切れず笑顔がこぼれてしまうのに、いちいち顔を赤くして反応される。意識してもらえているのだと実感して、喜びに足が躍る。くるりくるりとターンをしても、マルカのスラックスは先ほどの女子生徒のようには舞い上がらない。それでも私の気持ちは高揚していった。
休みを終える予鈴が鳴ったのが聞こえ、足を止めた。ギャラリーからはわっと歓声が上がったが、授業が始まると気づいたものから解散していった。「私たちも行かないと」と言って離れようとするマルカの手を引き留め、「週末、父上と屋敷に訪問したい。伯爵のおじ様にもそう伝えてほしい」とささやいた。マルカは顔を赤くしたまま呆然としていた。
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宣言した週末に父と一緒にマルカの家を訪れると、どうしてかアンナまでそこにいた。
「なんでアンナがいるんだよ」
「元々今日はルカと会う約束でしたの。闖入者はザックの方よ。それで用件は?」
「一緒に聞くつもりか?」
「権利はあると思わなくて?」
引くつもりのなさそうなアンナのことは諦めることにした。どうせすべて隣で見られていたわけだし、帰したところですぐ話は伝わるだろう。
「ザック、公爵様まで一緒なんて、本当にどうしたの」
「父上は今おじ様と話している。正式に家からも申し込みをしたくて……でもそれとは別に自分の口からも伝えたかったんだ」
手に持っていた花束を渡してマルカの手を取った。小さい頃からずっと傍にいた女の子。好きと伝える前に「男の子」のようになってしまい、意地でもその名を呼べなかった女の子。ちっぽけなプライドもようやく落ち着いた。
「マルカの背を抜いたら申し込もうと決めていたんだ」




