エピローグ ——月影に還る歌——
あれから、三年が経った。
街は季節の香りを変え、風も穏やかに吹くようになった。
真尋は変わらず、あの丘の近くで暮らしている。
古びた教会は修復され、いまでは小さな音楽教室として使われていた。
真尋はその教室で、週に一度、ピアノを弾いている。
子どもたちが歌う。
その声の中に、時折、彼女の面影を感じる瞬間があった。
——ふと、風が吹く。
窓辺のラベンダーが小さく揺れ、
淡い香りが部屋いっぱいに広がる。
真尋は手を止め、空を見上げた。
午後の光の中に、月がうっすらと滲んでいる。
「……また、来てくれたのか。」
小さく笑いながら、ピアノの鍵盤に触れる。
音が一つ、落ちる。
そして、その旋律は——あの夜の“ワルツ”だった。
> ♪ 月影の下で あなたを想う
> 香りは時を越え 胸に咲く ♪
子どもたちの声が自然と重なっていく。
柔らかな合唱。
まるで、風と月とが、いっしょに歌っているようだった。
窓を通して、ラベンダーの花弁が一枚、舞い込んでくる。
それが真尋の手のひらに落ちた瞬間——
かすかに、声がした。
> 「真尋……ありがとう。」
その声は、優しく、懐かしく、
まるで風の中に包まれた歌のように、
そっと彼の胸の奥に沁み込んでいった。
真尋は目を閉じた。
彼女の姿はもうどこにもない。
けれど、香りと音と光が、彼女を映している。
夜。
教室を出ると、丘の上に月が昇っていた。
まんまるで、透きとおるように白い。
真尋は立ち止まり、静かに深呼吸をする。
ラベンダーの香りが、風に混じって漂う。
まるで彼女が隣にいるようだった。
「——行こう、沙月。」
その言葉に、風が優しく答えた。
彼は歩き出す。
月光の道を、ゆっくりと、穏やかに。
その背中に、香りがついてくる。
まるで永遠の伴奏のように。
香りは、記憶のかたちをしている。
消えてもなお、誰かの心の中で、静かに息をしている。
月影の夜に咲いた一輪の花は、
今も、彼と世界のあいだで、
そっと揺れ続けていた。
この物語を書きながら、何度も夜の月を見上げました。
季節や時間が移り変わっても、月はいつも静かにそこにあって、
言葉にできない想いを、ただ優しく照らしてくれる。
そんな存在に、どこか「愛」というものの真実を見た気がします。
「月影のワルツ」は、恋を描いた物語であると同時に、
“消えていくものの中に、残り続けるもの”を描いた物語です。
誰かを想う心は、形を失っても、
香りのように、音のように、そっと世界に滲んでいく。
沙月の歌は、彼女の生の証であり、
真尋の愛は、彼女がいなくなったあとにも続いていく鼓動でした。
ふたりの想いが交わる瞬間、
時間という概念さえも、やわらかく溶けていく。
そんな“永遠の一瞬”を、私はどうしても書きたかったのです。
この作品に漂うラベンダーの香りは、
過去の記憶にそっと寄り添う象徴として、最後まで私の心の中にありました。
香りとは、目には見えないけれど、確かに存在するもの。
それはまるで、愛や記憶そのもののようです。
——もし、あなたがこの本を閉じたあと、
ふとした夜に、月を見上げたとき。
どこかで微かにラベンダーの香りがしたなら、
きっとその瞬間、沙月はあなたのそばにいます。
この物語を、心で読んでくださったすべての方へ。
そして、もう二度と会えない誰かを想い続けているすべての人へ。
どうか、あなたの心にも、
“月影のワルツ”が、静かに響きますように。
——夜のしじまに、祈りを込めて。




