第5章 香の彼方に
夜の街は雨に包まれていた。
しとしとと降る雨は、まるで記憶を洗うように静かだ。
真尋は傘もささずに歩いていた。
胸ポケットには、乾きかけたラベンダーの花びら。
——沙月の最後の欠片。
彼女が消えてから、幾晩も夢を見た。
月の下で歌う彼女。
微笑んで、手を伸ばす姿。
目が覚めるたびに、胸が裂けるように痛んだ。
「君は……どこにいるんだ。」
呟いた声は、雨に溶けて消えていく。
けれど、その夜——不意に風が変わった。
雨の匂いの奥に、確かに“あの香り”が混じっていた。
——ラベンダー。
真尋は顔を上げ、風の向かう先へ歩き出した。
足元の水たまりが、月を映して揺れる。
その光の中に、彼女の影がふっと浮かび上がるような気がした。
辿り着いたのは、丘の上の教会跡だった。
古びたステンドグラスは割れ、祭壇には埃が積もっている。
けれど、その中央だけが、柔らかな月光に照らされていた。
そして——そこに、沙月がいた。
白い光の中に立つ彼女は、まるで祈るように両手を胸に当てていた。
涙の跡のような光が頬を伝っている。
「……沙月?」
> 「真尋。」
彼女の声は、風に触れるように静かだった。
> 「もう、泣かないで。」
「泣いてなんか——」
言葉が詰まる。
気づけば頬を伝うものがあった。
> 「あなたがくれたの。
> あの夜の歌。
> あなたが覚えていてくれたから、私はここに戻れた。」
「戻れた?」
> 「香りの中に、想いが残ってたの。
> だから私は、まだ“この世界の端”にいる。」
月光が彼女の髪を照らす。
その光が、徐々に薄れていく。
「やめろ……そんな言い方、しないでくれ。」
> 「真尋、ありがとう。
> あなたの心が私をもう一度、生かしてくれたの。」
彼女の足元から、花びらが舞い上がる。
淡い紫が空へ昇り、光の粒に変わっていく。
まるで彼女が“香りそのもの”に戻っていくようだった。
真尋は駆け寄り、彼女の手を握った。
温もりが、確かにあった。
「行かないで……! 僕はまだ——!」
> 「いいの。」
> 「愛してるって、伝えられたから。」
その言葉とともに、風が吹いた。
ラベンダーの香りが世界を満たす。
彼女の姿は光に溶け、月に還っていった。
——静寂。
真尋はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
涙が止まらなかった。
それでも、どこかで知っていた。
彼女は“消えた”のではない。
香りになって、この世界に溶けたのだ。
ふと、教会のステンドグラスが月光を受けて輝いた。
その光の中で、沙月の声が微かに響く。
> 「月影のワルツを、もう一度——」
真尋は立ち上がり、空を見上げた。
月は雲間から姿を現し、優しく光を落としていた。
彼はそっと唇を開く。
——あの夜、彼女が歌っていた旋律を。
声は震えていた。
けれど、風がそれを受け止め、夜空へと運んでいく。
> 「月影に咲く花よ、
> どうか彼女を包んで……」
その瞬間、世界がほんの一瞬だけ、光に満たされた。
月が彼を照らし、風が彼の涙を拭う。
香りが、まだそこにあった。
まるで彼女が「おかえり」と微笑んでいるかのように。
朝が来た。
夜露に濡れた丘の上、真尋は空を見上げていた。
空は澄み渡り、月はもう見えない。
けれど——香りが残っている。
彼はポケットから、最後の花びらを取り出した。
光に透かすと、そこに小さく、音符のような模様が浮かんでいた。
それは、沙月の“ワルツ”だった。
彼は微笑み、そっと目を閉じる。
風が頬を撫で、香りが彼のまわりを包んだ。
——彼女は、もう消えてはいなかった。
心の奥で、永遠に踊り続けている。




