第4章 月光の残響(ざんきょう)
夜が深まるたびに、彼女の姿が鮮明になる。
それは幻なのか、記憶なのか。
真尋はもう、区別がつかなくなっていた。
町は梅雨明けを迎え、夜空の月は澄んでいる。
ラベンダーの香りが風に乗って、路地を包んでいた。
その香りに導かれるように、真尋は歩いていた。
目的地などなかった。
ただ、心が「そこに行け」と囁くままに。
気づけば、町外れの古い公園に辿り着いていた。
壊れかけたブランコ、錆びた鉄棒。
そこだけ時間が止まったようだった。
月の光がブランコの鎖を白く照らしている。
「……ここ、か。」
彼の胸が不意にざわめく。
まるで“懐かしい”と誰かが囁いたようだった。
そして——そのとき、歌声が聞こえた。
あの旋律。
あの声。
> 「——月影に咲く花は、風のように消えるけれど、
> 想いは香りになって、あなたを包む……」
歌声に導かれるように、真尋はブランコの影へ歩み寄った。
そこに、彼女がいた。
白いワンピース、淡い光を纏った少女。
髪が夜風に揺れ、月が彼女の輪郭を撫でていた。
その姿は、この世のものとは思えないほど儚かった。
「……沙月、なのか?」
少女は振り向き、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑みが、胸を刺すほどに優しい。
> 「覚えていてくれたんだね。」
「……え?」
> 「あの夜のこと。月の下で、歌を聞いてくれたこと。」
真尋は息を呑んだ。
胸の奥に、何かが弾けるような痛みが走る。
——あの夜?
霞のような記憶が頭の片隅で揺れる。
月、雨、花、香り、泣いている誰かの声。
「……僕たち、前にも会っていたのか?」
沙月は小さく頷いた。
> 「あなたは、私の歌を覚えてくれた。
> でも……その夜、私はもう——」
言葉が途切れた。
彼女の肩が震える。
そして、淡い光が彼女の輪郭から零れ落ちていく。
「やめろ……!」
真尋は思わず叫んだ。
「消えるな、沙月……!」
その瞬間、風が吹き抜けた。
ラベンダーの香りが強く広がり、彼女の髪を散らす。
彼女は微笑んだまま、手を伸ばした。
> 「大丈夫。私はここにいる。
> 月がある限り、香りがある限り——あなたのそばに。」
指先が触れた。
けれど、それは空気のように儚かった。
指の間から零れた光が地面に落ち、小さな花びらに変わる。
「沙月……」
彼女は一瞬だけ瞳を伏せた。
そして——
> 「ねえ、真尋。あなたに会えてよかった。」
その声は、まるで祈りのように静かだった。
次の瞬間、風が止み、月が雲に隠れる。
光が消え、沙月の姿も消えた。
——静寂。
ただ、彼の手の中に残っていたのは、
淡く香るラベンダーの花びら。
真尋はその花びらを胸に抱きしめ、
空を見上げた。
雲の切れ間から、月がふたたび顔を出す。
その光が、涙に濡れた頬を静かに照らす。
「……沙月、君にもう一度、会いたい。」
その呟きは夜風に溶け、香りとともに遠くへ運ばれていった。
夜は静かに明けていく。
空気の中に残るのは、彼女の香りと、月の名残りだけ。
けれど、その香りを吸い込むたび、真尋の心に小さな光が宿った。
——それは、消えることのない恋の残響だった。




