第3章 月の声を聴く
その夜、真尋は眠れなかった。
窓の外には満ちかけの月。
白い光がカーテンの隙間から差し込み、床の上に淡い影を落としていた。
静寂の中で、心臓の音だけがやけに大きく響く。
——彼女は、誰だったのか。
思考が波のように寄せては返す。
あの声、あの香り、あの視線。
何かを伝えようとしていた気がする。
けれど、その言葉はいつも風にさらわれてしまう。
真尋は、机の上のノートを開いた。
白紙のページに、昨夜の記憶をなぞるように鉛筆を走らせる。
> 月の下、ラベンダーの香り。
> 風が、彼女の髪を撫でる。
> 歌——「光のしずくが落ちて、夜を満たす」
その一文を書き終えたとき、不意に空気が変わった。
部屋の中の温度が、すっと下がる。
窓の外で、風がひときわ強く吹いた。
——そして、歌が聞こえた。
あの旋律。
夢ではない。確かに、耳の奥で鳴っている。
彼は思わず立ち上がり、窓を開けた。
夜風が部屋になだれ込み、ラベンダーの香りを運ぶ。
まるで“彼女”がそこに立っているかのように。
> 「どうして泣いてるの?」
——その声を、確かに聞いた。
風の音に紛れていたが、たしかに自分を呼んでいた。
胸の奥が焼けつくように熱くなる。
「沙月……?」
名前を呼ぶ。
だが返事はない。
代わりに、光の粒がふわりと舞った。
月光が部屋の中に溶け、壁に淡い影を描く。
その影が、まるで人の形をしているように見えた。
——いや、見間違いではない。
影がゆっくりと動いた。
輪郭が揺れ、髪が揺れる。
それはまさしく、あの夜の少女の姿。
真尋は息を呑む。
胸が震え、涙がこぼれそうになる。
「……沙月、なのか?」
少女は答えず、ただ微笑んだ。
そして、唇を動かす。
けれどその声は、音にならない。
風のざわめきとともに消えていく。
——声が届かない。
そのもどかしさに、喉が詰まる。
真尋は一歩、彼女の方へ近づいた。
けれど、その瞬間——彼女の姿はふっと消えた。
光だけが残り、ラベンダーの香りが漂う。
その香りの中で、彼は静かに膝をついた。
「沙月……君は、どこにいるんだ」
声が震えた。
涙が床に落ち、淡い光を反射する。
その雫が、まるで小さな“月のしずく”のように輝いた。
——その光が、わずかに揺れた。
床に落ちた涙の粒が、淡く光を放つ。
そして、それが指先に触れた瞬間、彼の視界がふっと滲む。
そこにあったのは、夜の湖。
月が湖面に映り、風が波紋を描いている。
湖のほとりに、白いワンピースの少女が立っていた。
「沙月……!」
彼は思わず叫んだ。
しかし声は空気に溶け、届かない。
彼女はただ、微笑んだまま唇を動かす。
> 「——ありがとう」
その口の動きを、確かに読んだ。
次の瞬間、湖面が揺れ、月が砕けた。
そして、真尋は再び部屋にいた。
頬を伝う涙。
手のひらには、ラベンダーの花びら。
——夢だったのか。
それとも、彼女が会いに来たのか。
わからない。
ただ、心の奥に確かに残っている。
彼女の声、光、香り、そして“ありがとう”の唇の形。
それだけが、現実だった。
月は満ち、やがて欠ける。
けれど、その光は見えない場所で静かに呼吸をしている。
涙が乾くたびに、その呼吸が、彼の胸の奥でかすかに脈を打った。
——その鼓動の名を、恋という。




