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第2章 光の残響

 翌朝、真尋は夢を見ていた。

 夢の中で、月は近くにあった。

 まるで手を伸ばせば触れられるほど。

 その光の中に、沙月が立っていた。風も音もなく、ただ唇だけが動いている。


 ——「泣いてる人の涙を、月は光にするんだって」


 彼女の声が、夢の外側まで滲んできた気がした。

 そして真尋は、目を覚ました。


 窓際に朝の光が差している。

 風に揺れるカーテンの隙間から、淡い光が机の上を撫でていた。

 あの夜の香りがまだ残っている気がした。

 ラベンダー——そう、確かに。


 彼は胸の奥を押さえる。

 夢と現実の境界が、まだ完全に剥がれていない。

 手のひらには、夜に掠めた温度の幻が残っていた。

 それを信じたかった。


 ——あの子は誰だったんだろう。


 寝ぐせのまま外に出た。

 坂道を下りると、昨日と同じ風が吹いている。

 だが、昨夜あれほど強かった月の気配は、どこにもない。

 代わりに、朝の光が世界を薄く漂わせていた。


 彼は、公園へと向かった。

 夜のあの場所。ベンチの前。

 そこに、彼女はいない。

 当然のことなのに、胸の奥がわずかに痛む。


 草の上には、露が光っていた。

 それが月のしずくのように見えた。

 真尋はしゃがみ込み、指先で一粒すくった。

 冷たさが皮膚に沁みた。


 ——沙月。


 名前を口に出す。

 朝の空気がそれを抱いて、消していった。


 そのとき、不意に微かな音がした。

 「……」

 風が草を撫でる音とまぎれるように、小さな歌声が届いた。


 彼は立ち上がる。

 耳を澄ませる。

 確かに、誰かが歌っている。


 > 風がわたしを呼ぶ

 > 光のなかで 君を探してる


 その旋律は、昨夜の歌と同じだった。

 ただ違うのは、それがどこから聞こえるのかわからないことだった。

 風の中、空の上、あるいは自分の記憶の底——。


 公園の奥へ足を進める。

 木漏れ日が踊る。

 光と影が幾重にも重なり、世界の輪郭がゆっくりとほどけていく。


 声は、古い遊具の方から聞こえた。

 そこに、小さな影があった。

 子供のようにも、大人のようにも見える。

 陽光がその輪郭を包み、形を曖昧にしていた。


 「……沙月?」


 呼ぶと、影が振り返った。

 が、そこにいたのは少女ではなかった。

 見知らぬ老女が、花を手向けていた。


 真尋は立ち止まる。

 胸が妙にざわめく。

 老女は気づくと、にこりと微笑んだ。

 「この場所、昔は歌が聞こえたのよ」


 「……歌?」


 「ええ。夜になると、月の下で女の子が歌っていたの。

 きっと、あの子は誰かを待っていたんだと思うわ」


 老女は言い、手のひらに握っていたラベンダーの花をベンチの上に置いた。

 「月の香りって、不思議ね。悲しいのに、優しい」


 その言葉を聞いた瞬間、真尋の胸の奥に何かが走った。

 思い出した——昨夜、彼女の髪から漂った香り。

 同じだ。

 同じ香り。


 老女が去ったあと、真尋はその花を見つめた。

 紫の花弁が風に揺れ、光を反射していた。

 その中で、歌の残響がまだ空気の奥に漂っている気がした。


 > ひとしずく、月は落ちる

 > 風はそれを抱いて、夜を渡る──


 ——確かに、聞こえる。

 幻聴ではない。

 むしろ、それは彼の中に残された記憶が呼び覚まされているようだった。


 真尋は小さく息を呑んだ。

 夜と朝の間に、彼女はまだどこかにいる。

 その確信が、胸を締めつけた。


 「もう一度、会いたい」

 言葉が漏れた。

 その瞬間、風が吹いた。

 ラベンダーの花びらが宙に舞い、光の粒がきらめく。


 その粒の中に、ほんの一瞬——

 彼は見た気がした。

 白いワンピースの裾、月光のような笑み。

 そして、目を伏せる少女の影。


 すべては、風とともに消えた。


 けれど、胸の奥には確かに残っていた。

 夜の記憶と、歌の余韻と、名前を呼んだときのあの震え。


 ——沙月。


 彼女はまだ、この世界のどこかにいる。

 そう思えた瞬間、涙が頬を伝った。

 理由はわからない。

 ただ、流れるままに任せた。


 朝の光が、彼の頬の涙を透かす。

 その雫は、まるで月の光を閉じ込めたように淡く輝いていた。


涙は乾いても、香りは残る。

香りは消えても、声が残る。

そして声は、彼の中でゆっくりと形を変えていく。

——恋という名の、見えない花びらに。

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