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第1章 月の記憶

 風が、夜の胸をひとつ撫でた。

 坂道の向こうから来る風は、街灯の届かないところを通るときだけ、ほんの少し匂いを連れてきた。

 薄紫がふっと鼻を掠める。ラベンダー。


 真尋は、その匂いに足を止めた。

 記憶が波を打つ。

 でも、思い出せない。

 誰のものでもないのに懐かしい。


 夜は凪いでいる。

 車の音は遠く、家の明かりは戸締りの向こうで眠っている。

 月だけが、静かに目を開けていた。

 その光が石段を縁取り、世界を薄く銀色に染める。


 歌が、どこかで鳴った。

 ふいに、呼び出されるように。

 小さく、揺れるような旋律。

 耳を澄ますと、それは歌声だとわかった。


 誰かが、歌っている。


 真尋は知らない道を登っていたはずなのに、身体が先に坂の上を選んでいた。

 声は遠くて近い。風に混じって、月光に溶けていた。


 公園のベンチのところ、月の光がちょっとだけ厚くなる場所がある。

 そこに、少女が立っていた。白いワンピース。黒い髪が夜を切るように落ちる。

 輪郭が、少しだけ滲んでいる。風に溶けるように、彼女の先が空気の中で薄くなる。


 真尋の唇が動いたことに気づく。

 ——誰、だろう。

 声にならない問いが夜に溶けた。


 少女は歌うのをやめ、ふっとこちらを見た。月の光が彼女の瞳に流れ込む。

 瞳の中に、光のかけらがいくつも揺れていた。


 「こんばんは。」


 その声は、風が紙を撫でる音みたいに柔らかかった。

 真尋は胸の奥に、知らない小石が落ちるような感触を覚えた。

 心臓が、無理に跳ねる。


 「こんばんは……」

 言葉が出る。声は自分のものに聞こえなかった。


 少女は笑う。つくり笑いではない、眠りから目覚めたみたいな。

 その笑みを見た瞬間、真尋は驚くほど素直な思いを抱いた。

 ——ああ、この人を守りたい。


 唐突で、戸惑う気持ち。

 でも、確かだ。

 砂の下に埋もれていた何かが、彼女の笑みに触れて溶け始める。


 「月がね、泣いてるって知ってる?」

 少女の唇が小さく動く。言葉は柔らかな砂の上に落ちた。


 真尋は首を傾げる。

 「泣くって……どういうこと?」


 少女は目を伏せる。月明かりが顔を撫でる。

 「泣いてる人の涙を、月は光にするんだって。だから、夜はたまにとてもきれいになるの」


 その言葉を聞くと、胸のどこかが疼く。単純な言葉なのに、深い。

 真尋は自分の生や死や、過去の断片を召喚しそうになるのを押しとどめた。

 なぜだろう。胸の奥の隙間に、彼女の言葉がぴたりと合う。


 「私、ここにいると落ち着くの」

 少女はぽつりと言った。視線の先に、月が丸く顔を出している。

 「月が近いから。声が、反射して帰ってくるの」


 真尋はその言葉を聞き、変な既視感に襲われた。

 ——いつか、こんな夜を待っていたような気がする。

 幼い頃の夢か。映画か。わからない。だが、その既視感は彼を引き寄せる。


 風がまた吹いて、ラベンダーの香りが濃くなる。

 香りは、彼女の髪の隙間からふわりと上がってくる気がした。

 真尋は知らずに胸に手を当てた。呼吸が浅くなるのがわかる。


 「名前を、教えて」

 少女の声は、初めてそれが誰かを知りたがっている人の声だった。


 「真尋。三崎真尋」

 名前を言うと、少女は小さく頷いた。じっと、言葉を味わうように。


 「真尋くんね。いい名前」

 その言葉を胸の奥で反芻する。彼はぽつりと尋ねた。

 「君は?」


 「沙月」——彼女はそう言った。声に少しだけ震えが混じる。

 名は静かな月の名だった。真尋はなぜか、その名を聞いて胸がしみるのを止められなかった。


 沙月は、ふと歌の続きを口ずさんだ。旋律の欠片。言葉は断片で、まるで古い写真の隅に残る影のようだった。


ひとしずく、月は落ちる

風はそれを抱いて、夜を渡る──


 そのひと言が、真尋の耳の奥に小さな鐘を鳴らした。

 鐘の音はひそやかで、胸の中を揺らす。

 彼は自分が何か呪文にかかったように、ただその音に寄りかかった。


 沙月の輪郭が、また少しだけ滲む。彼女の手が、月の光を掬うように上がった。

 動作はゆっくりで、空気を切ることなく、まるで時間をこねるように指先を回す。


 「この光、わたしの声を拾ってくれるの」

 彼女は真尋を見つめる。そこには悲しみがあった。温かい、でも決して癒えないような悲しみ。


 真尋は、言葉を探す。

 どう答えればいいのか。

 「君は、どこから来たの?」と訊ねると、沙月は微かに笑って首を振った。


 「どこか、遠いところ」

 「……遠いって、どこ?」


 彼女は答えない。答えは、月の向こうにあるのかもしれない。

 その沈黙がまた、真尋の胸を掻く。何かがそこに触れる。切実さが生まれる。


 「そろそろ行くね」

 言葉は柔らかく、避けがたかった。風が強くなる。月が雲にかすれる。


 真尋は、手を伸ばした。自分でも驚くくらいに真っ直ぐに。

 その指先は、白いワンピースの裾をかすめた気がした。

 温度の記憶が、掌に残ったような気がした。


 触れたのか。触れなかったのか。

 その境界が、言葉にならなかった。


 沙月は消えた。世界の中の何かが、しぼむように、彼女の輪郭が溶けていった。

 残ったのはラベンダーの匂いと、月の光。

 空気の中に、彼女の呼吸の余韻が漂っている。


 真尋はしばらく立ち尽くした。手のひらを見つめる。そこには何もなかった。だけど確かに、何かがいつまでも熱を持っているように感じた。


 夜は、いつもより少し哀しく、でも甘かった。

 月は、見守るように静かに光っていた。


 ——僕は、まだこの手に何かを抱いている。

 思えばそれは、触れられないものだった。

 でも、その温度を忘れたくない。


 真尋はそっと息を吐いた。指先で鼻を擦ると、ラベンダーの香りがふわりと戻ってきた。

 胸が締めつけられ、涙がこぼれそうになるのをなんとか抑える。


 夜の風が、静かに歌を運んだ。

 その歌は、彼の心の奥でゆっくりと根を張り始める。


月の光は、まだ彼の肩口で輝いている。

ラベンダーの匂いが、彼の記憶に指を置いたまま離れない。

そして、どこか遠くで、歌の断片が余韻として鳴り続けている。

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