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一話 下僕の受難

 

 ある日、お嬢様が婚約破棄された。

 俺――アハトは公爵家に仕えるただの執事だけれど、足下の地面がなくなったかのような衝撃を受けた。


 ここはアロガンテ公爵家の王都邸。王都の中心に鎮座する、まるで王宮と見紛うほどの壮麗な屋敷だ。

 俺が今いるのは、その中でもひときわ豪奢な、エレオノーラ様個人の応接室。天井まで届く大理石の柱、精緻な彫刻が施された壁、金のシャンデリアが天井から下がり、窓辺から見える庭園は季節ごとに植え替えられる百花が繚乱している。

 分厚い絨毯は足音を吸い込み、外の喧騒など微塵も感じさせない静謐さ。ここにいると、世の中のどんな不幸もこの屋敷の敷居をまたぐことは許されないんじゃないかと思えてくる。

 だが、そんな空間にあっても、エレオノーラ様の存在感は別格だ。彼女はこの部屋の主であり、屋敷の中心であり、時にこの国の話題の中心でもある。


 先ほどだって、王太子殿下が自らエレオノーラ様を訪ねて来られた。人払いして、護衛の騎士まで遠ざけられて二人きりで話されていた。王族が護衛を遠ざけるなんて、滅多にないことなのに。

 それほどエレオノーラ様を信用していてかつ親しいということで、そんな光栄に浴する我があるじを、俺は遠くからニマニマと祝福していた。


 それなのに、護衛騎士を連れた王太子殿下を丁重にお見送りしてエレオノーラ様のところに戻った途端、あるじは天気の話でもするように「婚約破棄されたわ」と言い放ったのだ。

 足下がおぼつかないほど動揺する俺に、さっき俺が淹れた紅茶を口に運びながら、エレオノーラ様はあっけらかんと言い放った。


「まあ、それはいいのだけれど」


 俺は思わず耳を疑った。

 婚約破棄だぞ? エレオノーラ様が失ったのは、王太子の婚約者、将来の王妃、国母の座。国で最も尊い女性だという証明。


「何をそんな冷静に! いいんですか!? 国母の立場と婚約者とを同時に奪われたんですよ!? それに、あのグリムハルト侯爵家に何を言われるか……!」


 俺は思わず叫んでいた。

 執事らしくないと言うなかれ。それほど俺は動揺していた。

 だって俺は知っている。国民を導き敬愛される王妃たらんと、エレオノーラ様がどれほど努力を重ねてきたか。傍目には地道な努力なんてしているようにはまっっっっっったく見えない傲岸不遜を絵に描いたようなエレオノーラ様だが、実は天才ではなく努力型の秀才タイプなのだ。

 文武両道を掲げるエレオノーラ様は、朝早くから剣を振っているし(俺も付き合わされる)、学園の授業だけでは飽き足らず休日も経済や地政学の学者、経営者達を招いて学び(これも俺は付き合わされる)、夜遅くまで机に向かい(エレオノーラ様が寝るまで俺も寝られない)、王城に呼ばれては王太子妃教育まで(これだけは俺はまぬがれる)たたき込まれている。

 グリムハルト侯爵家は保守派の筆頭、革新派と呼ばれるうちの公爵家の政敵で、エレオノーラ様が失脚したとなれば嬉々としてのさばってくるだろう。


 それなのに彼女は眉ひとつ動かさず、涼しい顔で言い切る。


「いいのよ。王太子殿下に婚約破棄されたところで、王室よりウチのほうがお金も権力もあるし」


 ……いや、まあ、確かにその通りなんだけど。

 この応接室の調度品ひとつとっても、王宮の貴賓室に引けを取らない。むしろ、こっちの方が趣味が良いと俺は思う。

 壁に飾られた絵画は昔の公爵家が支援していた有名画家の一点物、家具はすべて特注品、カーテンの生地は公爵家が力を入れた領地の産物、その特級品。エレオノーラ様のためだけに用意されたこの空間には、金と権力と公爵家の歴史が詰め込まれている。

 万年金欠の王家より、鉄道経営や商売で成功した公爵家のほうがはるかに余裕がある。

 農民から搾取することしか知らない保守派のグリムハルト侯爵家なんて、言わずもがなだ。

 とはいえ、長年の努力を無にされたのだ。普通はもう少しショックを受けてもいいんじゃないか、と俺は思う。

 だが、エレオノーラ様は次の瞬間にはもう、王太子の新しい婚約者――学園で成績優秀だったという平民の娘について語り始めていた。


「わたくしの代わりに王太子殿下の婚約者になるというあの娘、学園での成績は上の上、平民にしてはかなり見込みがあるのよ。わたくしのスカウトを断ると思ったら、先に王太子がつばを付けてたってわけね。わたくしとしたことが抜かったわ」


 ……この人、王太子よりもその娘――ソフィア嬢だっけか? を評価しているのか? 確か一度、クラスメイト全員を公爵家の薔薇園に招待したことがあって、ソフィア嬢もその中にいたはず。あまり見た目に目立った印象はなかったが、商売だの保険だのエレオノーラ様特有の話題について行っていたから、記憶に残っていた。


「王太子殿下より、ソフィア嬢のほうに未練があるんですか」


「まあ、わたくしよりは劣るでしょうけれど、あの娘が国政を担うなら、この国もそう悪いことにはならないでしょう」


 まるで自分の後継者を見つけたかのような余裕のコメントだ。

 ん? っていうか国政って王妃が担うのか? 国王陛下じゃなく? まあ確かに次期国王陛下、現王太子殿下は優しいのが取り柄の、少々頼りない感じではあるけど。だからこそ気が強くて自信の塊みたいなエレオノーラ様とピッタリだって、婚約が組まれたんだよな。割れ鍋に綴じ蓋っていうか。


「このありあまる美貌と才能をせっかく愚民共のために使ってあげようと思っていたのに、向こうからいらないって言われちゃね」


 ……いや、言い方。ってかまともな神経があればもうちょっと落ち込むだろ。


「エレオノーラ様……見た目には分かりませんが、さすがに多少はショックを受けられてますよね?」


 エレオノーラ様はころころと笑った。


「まあ! 何を言っているの? アハトったら。全然? このわたくしの素晴らしい才能と時間を、これからは自分のためだけに使って良いってことなのよ! ワクワクしか感じないわ!」


 ……どうなってんだこの人のメンタル。


「……メンタル人外すぎやしませんか。心配した俺が阿呆でした」


「あらアハトが阿呆なのは今にはじまったことじゃなくてよ、安心して」


 さらりと言ってくれる。

 この人の辞書に「落ち込む」という単語は載っていないらしい。

 それどころか、まるで新しい遊びを見つけた子供のような目でこちらを見てくる。ちょっと嫌な予感がする。


「だからね、イキナリ先の未来がまっさらになって、やるべきことがなくなったわけでしょう?」


「お労しや」


 執事の勤めとして、おかわりの紅茶を淹れつつ適当な相づちを入れる。

 俺の適当さなど歯牙にもかけないエレオノーラ様は、紅茶のカップを置くとニコニコと女神のような笑顔を浮かべた。


「だからね、世直し旅ってヤツをやってみようと思いついたの」


 世直し旅――この人が? 直される側じゃなく? 


「ハァ!? 世直しですか!? エレオノーラ様が? 直されるほうじゃなく?」


 思わず口に出ていた。


「失礼ね。このわたくしの完璧な美貌に、どこに手直しの必要があるって言うのかしら?」


 そう傲慢に言い放つと、エレオノーラ様は艶然と微笑み、魅力的な足を組む。

 普通の令嬢ならふわふわとしたドレスを着て、足を出すなんてはしたないとされているが、エレオノーラ様は細身のスリットの入った動きやすいドレスを好む。そして、それが許される。

 なぜならそれを着ているのが、エレオノーラ・アロガンテだからだ。

 悔しいが、これが事実。

 赤みがかった金の巻き毛も、染みひとつない白磁の肌も、厚い睫毛に縁取られた宝玉のような紫の瞳も完璧で、手直しの必要などまったくない。

 この応接室の豪奢な調度品に囲まれても、エレオノーラ様の美しさは決して埋もれない。むしろ、彼女こそがこの空間の主役だと、誰もが納得するだろう。


「……ない、ですね」


 エレオノーラ様の言動にはツッコミが止まらない俺すらも、認めざるを得ない。

 するとエレオノーラ様は、まるで新しいドレスでも買いに行くかのような軽やかさで言い放った。


「でしょう? だから、しばらくは暇つぶしに、美しくないものを手直ししてあげる旅に出ようかと思って。楽しそうでしょう?」


「暇つぶしに世直ししようとか思いつくのは、エレオノーラ様くらいでしょうね」


 俺が皮肉を込めても、エレオノーラ様は蛙の顔に水をかけた程度にも感じない。


「わたくしには、それだけの権力とお金があるもの。凡人とは違うのよ。そのうえ時間もできたなんて、もはや無敵!」


 たわわな胸をムンと張る。

 この人に「できない」ことなんて、この国には存在しないのかもしれない。


「ハイハイ、エレオノーラ様は完璧で無敵で最強です。気をつけて行ってらしてください」


 止めるなんて無駄だと熟知している俺が投げやりに言えば、エレオノーラ様は当然のように返してきた。


「何を言っているの? アハトも一緒に行くに決まってるじゃない」


 ……。一瞬思考が停止した。


「……は? いやいやいやいや、俺はアロガンテ公爵家王都邸付きの執事ですから、勝手に旅に行くわけには――」


「何を言っているの、貴方はアロガンテ公爵家わたくし付きの執事よ。ほら、これがお父様の任命書」


 差し出された書類には、公爵直筆の署名と印章がしっかりと押されている。

 公爵様……俺を売りましたね……。

 脳裏に、「すまん!」と手を合わせる渋いイケオジ公爵が浮かんだ。

 公爵は決して悪い人ではないし、公爵としては有能らしいが、一人娘に弱く、軽い。

 この王都のど真ん中でこれだけの権力と財力を誇る公爵家の主だ、娘の頼みとあらば、執事の一人くらいホイホイ差し出してしまう。

 まあ、確かに、今までだって俺はエレオノーラ様付きみたいなものだったけれど、正式な辞令ともなれば逃げ場がない。

 エレオノーラ様はさらに、もう一枚の書類を俺に見せる。


「貴方がウチにしていた借金、わたくしが買い取ったの。わたくしの個人資産でね。つまりアハトは名実ともにわたくしの執事。せいぜい忠誠を捧げなさい」


 ……エレオノーラ様に、忠誠を?


「畜生、それ、執事って書いて下僕って読むヤツだろ!」


「アハトったら、心の声と外向きの声が逆になっていてよ。思っていても、生殺与奪を握っている相手に言うものじゃないわ、以後気をつけなさいね」


 エレオノーラ様は俺の不敬をとがめるでもなく、にっこりと微笑んだ。


 ◇◇◇


 これが、俺とエレオノーラ様の「世直し旅」の始まりだった。

 正直、先が思いやられる。エレオノーラ様のこと、どんな無茶ぶりをかましてくるか……旅先ともなれば、なんだかんだ有能な公爵様や兄君がかばってくれることもないし、もろもろのしわ寄せは全部俺に向かってくるに違いない。

 何よりも、今までかろうじて執事の燕尾服とネクタイに詰め込んで隠していた俺のツッコミ体質が、エレオノーラ様との旅でこの先どれだけ持つのか……

 まあ、どうせ逃げられないなら、隠すこともないか。何ならこの先の彼女の暴走に、全力でツッコミを入れてやろう。なんだかんだでエレオノーラ様は不敬には寛容だし。

 そう心に決めつつ、俺はエレオノーラ様の新たな「お遊び」に付き合う覚悟を決めたのだった。


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