手を伸ばす理由
──体育祭前日。
柳田学園は、朝からどこか落ち着かない雰囲気に包まれていた。
生徒たちは最後の練習や準備に追われ、教室もグラウンドもいつも以上に賑やかだ。
そんな中、校門へと続く坂道を歩く二つの影があった。
「……朝から騒がしいな」
「前日だからな。お祭りみたいなものだ」
坂道を登るコウと先生。
先生の家から学園までは、それほど遠くない。
海沿いの道を抜け、住宅街を横切り、この坂を登ればすぐだった。
コウは静かに歩きながら、先生の横顔をちらりと見た。
(不思議なものだ)
ほんの数日前まで、自分がこの人と共に暮らすことになるとは思っていなかった。
先生もまた、普段と変わらない表情のまま、時折海の方へ視線を向ける。
そんな二人の姿を、学園の正門前で見ていた者たちがいた。
「……あれ?」
千織の目が大きく見開かれる。
「ねえねえ、あれって……」
セイラが驚いたように指をさす。
翔が目をこする。
「……うそだろ?」
坂を登ってくるコウと先生。
「コウ、先生と一緒に登校してる!?」
「お前、いつの間にそんな関係になったんだ……?」
翔が妙な方向に話を飛ばそうとした瞬間、千織がすかさずツッコミを入れる。
「絶対違うから!!」
コウはそんな騒ぎに気づいたのか、無言のまま近づいてきた。
「……何でそんなに騒いでるんだ?」
「そ、それはこっちのセリフ!」
千織が勢いよく詰め寄る。
「なんで先生と一緒に登校してるの!?」
「……一緒に住んでるからだ」
「……は?」
「だから、俺は今、先生の家にいる」
「えええぇぇ!?!?」
千織、セイラ、翔の三人が揃って叫ぶ。
「どういうこと!? いつから!? なんで!?」
「住んでいたアパートが取り壊されたからだ」
コウは淡々とした口調で答える。
「行く場所がなかったから先生の家にいる。ただそれだけだ」
「いや、それだけって……先生、いいんですか?」
千織はセンセイの方を振り向いた。
先生は軽く肩をすくめる。
「特に問題はない。コウ一人くらい、置いてやる余裕はある」
「先生、優しい!見直したよ!」
セイラが感動したように目を輝かせる。
「いやいや、それにしても驚いたよ……」
翔が頭を抱えながら呟く。
千織は少し考え込むようにコウを見つめた。
「……それで、ちゃんとご飯とか食べてるの?」
「食べてる」
千織はじっとコウの顔を見つめる。
「ほんとに?」
「あぁ」
「嘘ついてない?」
「…ついてねぇよ」
「……怪しいなぁ」
千織の疑いの目を避けるように、コウは静かに顔を背けた。
「……とにかく、俺は問題ない」
「……ふーん」
千織は何か言いたげだったが、結局それ以上は追及しなかった。
─────
放課後。
「買い物に行こう」
先生に言われ、コウは近くのスーパーに連れ出された。
「……何を買うんだ?」
「夕飯の材料だ」
「……」
夕飯。
言葉通りに受け取るなら、今夜の食事のための買い物ということになる。
しかし、先生の歩き方にはどこか迷いがなかった。
まるで、最初から買うものが決まっているかのように、肉や野菜、卵を手際よくカゴに入れていく。
(…メモも持ってねぇのに)
コウは訝しんだが、口には出さなかった。
「お前の好みもあるだろうから、何か欲しいものがあれば選べ」
先生がそう言いながら、パンや果物の棚を指さす。
「特にない」
「そうか」
先生は一瞬だけコウを見つめ、再びカゴを満たしていく。
そして──ふと、弁当のコーナーで立ち止まった。
そこに並ぶのは、色とりどりの手作り弁当セット。
コウはその横を通り過ぎようとしたが、先生は無言のまま卵焼きをカゴに入れた。
「……」
何かを考えているような表情を浮かべながら、先生は最後に海苔と漬物をカゴに加える。
(……夕飯の材料にしては不自然なものが多いな)
コウは思ったが、深く追及することはしなかった。
──────
先生がなぜ弁当の材料を買ったのか。
コウは知らない。
──先生は見ていたのだ。
いつも、昼休みになると生徒たちが弁当を開き、家族に作ってもらった料理を囲んで楽しそうに談笑する光景。
その中で、コウはいつも一人売店で買ったパンを、静かに食べていた。
特に気にしている様子はなかったが、先生の目には、それがほんの少しだけ寂しそうに映った。
──少なくとも、体育祭の日くらいは、そういう顔をさせたくなかった。
だから、先生はコウの弁当を作るつもりだった。
建前は「夕飯の材料」だが、実際には弁当の材料を選ぶために、コウを連れてきた。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。
──知りたかった。
コウのことを、もっと。
理由は分からない。
ただ、そう思ったのだ。
先生はちらりとコウの横顔を見る。
コウは特に気づくこともなく、淡々と歩いていた。
「……」
先生は微かに微笑むと、静かに袋を持ち直した。
夜の風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。
閲覧ありがとうございました。
誤字脱字脱字等ありましたらすみません。