終章
大全がこの世を去ってから、さらに百年近くがたった。
その日、エリカは「組織」の地下牢に幽閉されている岩志木のもとを訪れた。
岩志木の入っている牢は透明な特殊強化プラスチックを使った二重の立方体で、彼は常にAIによって監視されていた。また、量子コンピュータによる暗号でロックされており、その暗号は一分ごとに変更される。外部の者が解錠することは不可能だった。
「久しぶりね、岩志木幻弥」
透明な部屋の中で岩志木がベッドから身を起こす。どうやら読書をしていたらしい。
「これはこれは……工藤エリカさん」
牢の内と外は音声がつながっている。
「覚えていてくれたのね。うれしくないけど」
「もしかして、僕を出してくれるの?」
期待に目を輝かせる岩志木に冷たい視線を浴びせる。
「そんなわけないでしょ。あなたはずっとそこにいるの」
「いい加減、許してくれないかなあ。実験にもまた協力するしさ」
「無理よ」
「どうしてさ。もう百年くらいたってるよね?」
「私はあの夜、あなたがしたことを許すことができない。私自身が油断したことも含めて」
エリカの強い口調に岩志木は肩をすくめ、うすら笑いを浮かべる。
「ふーん。ということは、僕の目論見通りになっているということだ」
岩志木の目論見。あの夜、錠次を襲ったあと、血で真っ赤に染まった口から放たれた言葉をエリカは思い出す。
「それはどうかしら」
「絶対そうだよ。ジョー君はあれ以来、苦しみ続けてるわけだ」
岩志木はニタリと邪悪な笑みを浮かべる。
「そうでもないさ」
という声がした。
「え?」
地下牢の通路の扉からステッキを手にした鷹架錠次が姿を現した。
そして、背後にもう一人。
「久しぶりだな、岩志木」
「ウソだろ!」
と、岩志木が叫んだのは、しかし錠次に対してではない。その目は錠次がともなっている少女に向けられている。驚愕で大きく見開かれていた。
ほっそりとした黒髪の少女は錠次の横に立ち、静かなまなざしで岩志木を見ている。
「ま、まさか。この子も不老不死に」
岩志木は透明の壁に張り付いて「夏音」を凝視する。
あの極上の血液を持つ少女のことを、岩志木は一度たりとも忘れたことはなかった。舌の上に、かつて味わった芳香がよみがえる。
そんな岩志木に対して少女は微塵もたじろがなかった。しばらく見つめ続けたあと、やがて錠次を見上げて言う。
「おじいちゃん、この人が恩人の吸血鬼?」
「そうだよ、なたら」
「なたら? 夏音じゃないのか」
「おいおい、人の孫を気安く呼び捨てにするんじゃない」
錠次は穏やかに言って、なたらの頭に手を置く。
「夏音のひ孫だよ。おれにとっては、五世代先の子孫だな」
「な……」
「夏音はこのあいだ亡くなったよ。百十二歳だ。長生きしてくれた」
「………」
「おい、岩志木。おれはお前のおかげで目の中に入れても痛くない孫と百年以上も一緒に過ごしてきたんだぜ。それだけじゃない。ひ孫とも、ひひ孫とも、そしてこの子ともな」
「な、なぜだ」
岩志木が血走った目で言う。
「なにがだ?」
「なぜ、そんな平気な顔でいられる。お前は孫が可愛いんだろ? 目の中に入れても痛くないんだろ? その孫が、孫たちがお前より早く死んでいくんだぞ。お前は、ずっと、自分の血を分けた子孫が死ぬのを見届け続けるんだぞ。それなのに、なんで平気でいられるんだよっ!」
「平気じゃないさ。でもな、岩志木。正直、孫が百歳以上になって死んでも、悲しいという気持ちはそんなに湧かないんだ。むしろ、お疲れさまという気持ちのほうが大きいな」
「………」
「ずっと一緒にいたから夏音が悔いのない人生を歩んでくれたことは分かってるしな。他の孫たちにしてもそうだ」
「そんなのウソだ!」
「ウソじゃないんだよ、岩志木。別れは確かに辛いさ。でも、孫たちをずっと見守っていられることの幸せのほうが遙かに大きいことをおれは知ったんだ」
錠次はいったん言葉を切る。
「人はいつか死ぬ。それは受け入れる。受け入れた上で、悔いのない人生を送れるように力になる。支える。それはな岩志木、とてもありがたいことなんだ」
「な、なにをわけの分からないことを」
「岩志木。おれはこの先ずっと、新しく生まれてくる家族たちと過ごすことができるんだぜ。子どもたちの力になり続けることができるんだ。おれは幸せだ。それはお前のおかげだ。感謝している」
「か、感謝なんてするなっ!」
「おじいちゃん、この人ちょっとうるさい」
なたらが耳をふさぎ、顔をしかめる。
「仕方ないさ。こいつは羨ましいんだ」
「う、羨ましくなんかない!」
「私、外で待ってる」
「ああ、そうしなさい」
なたらは岩志木への興味をなくしたらしく、一瞥さえせず扉の向こうに消えた。
「お、おい。待て。待ってくれ。お前は、」
しかし岩志木の声にはなたらを引き戻す力はない。
「岩志木幻弥。ジョー君が言っていることは本音のようよ。彼はあなたに感謝をしている。良かったわね」
「ふざけるな!」
「でも、私は違う。あなたのせいで望まない人生を歩むことになったし、ジョー君に対してあなたが行ったことも邪悪な行為だと思っている」
「そこは見解の相違だな。おれはエリカともずっと一緒にいられるからうれしいが」
「あらら。長生きすると、そういうセリフもさらっと言えるようになるのね」
エリカが満更でもない顔で微笑む。
「だけどね、岩志木幻弥。ジョー君と私には一致している見解もあるの。それは、あなたをここから絶対に出さないこと。それだけは覚えておいて」
「く……」
「岩志木。新しい孫が生まれたら、また連れて来るよ。恩人の吸血鬼として紹介させてくれ。この先もずっとな」
「に、二度と来るな!」
「誰も面会に来ないと寂しいだろ? お前、家族には恵まれてなかったようだしな」
錠次がそう言うと、岩志木は憤怒の形相で透明の壁を叩きつけた。
「絶対、ここから出てやる。絶対にだ! そしてお前の家族を全員ぶち殺してやる!」
「それは無理だな」
「そうね、それは無理」
錠次とエリカは地下牢をあとにする。岩志木はなおも叫んでいたが、扉を閉めると、それもやがて聞こえなくなった。
「あれで良かったの、ジョー君?」
「あれで良かった。怒らせてしまったが、おれがあいつを恨んでいないのは本当のことだ。それを伝えたかった」
地下の長い通路を出口に向かって歩きながら二人はそんな会話を交わす。二人の前には、背筋をまっすぐに伸ばして歩くなたらがいる。
ふと、なたらが振り向いて言った。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだい、なたら」
「幸せになることが最大の復讐って、このまえ読んだ本に出てたよ」
「確かどこかの国のことわざだったな。古いことわざだ」
「あと、私お腹空いた」
「よし、なにか食べて帰るか。なにがいい?」
「トマトのパスタ」
「わかった。そうしよう」
「夏音ちゃんも好きだったわね、トマト」
「一度おれの〝トマトジュース〟を間違って飲んで目を白黒させたことがあったよ」
「あらあら」
百年近く前のあの夜。
星を見上げて喉をさらしている錠次に岩志木は襲いかかった。
常夜灯のポールに結ばれていたロープを後ろ手でこっそりとほどき、目が見えないふりをして隙をうかがっていたのだ。
錠次の喉元に歯を立て、血を吸い、途中で止めた。そのことにより岩志木の体内にある特殊なウィルスが錠次の血管に送り込まれ、不老不死の身体へと変化させた。
口から血をしたたらせながら、岩志木は哄笑し、そして叫んだ。
「ざまあみやがれ、このクソジジイ! これでお前は、大事な大事な孫がお前より先に死んでいくのを見なければならなくなったんだ! 孫だけじゃないぞ。ずっとずっと、そのあとの子どもたちもそうだ! お前はな、目の中に入れても痛くない自分の家族が死んでいくところをこれからずっと見続けるんだ!」
「この大バカヤロウ!」
大全が素早く岩志木に近づき、足払いをかける。地面に叩きつけられても岩志木は叫び続けた。
「あの子の血液は最高だったのに! いままでで一番美味しかったのに! なぜ飲ませてくれなかったんだ! くそ、くそ、くそっ! 絶対に許さないからな!」
醜い形相で叫び続ける岩志木を三人は黙って見つめ続けた。錠次の喉の傷はすでに塞がり始めていた。
間もなく、体調を取り戻した隊員たちが駆け足でやって来て、岩志木の身柄は確保された。
岩志木の目論見通り、錠次は不老不死となった。
そのことをもっとも悔やんだのは大全だった。岩志木の言葉を真に受けてしまっていた。
孫という存在をこよなく愛する大全は、自分よりも先に孫たちがこの世から去ることを考えるだけで胸が苦しくなるほどだった。だから錠次にそんな宿命を負わせてしまったことに罪悪感を覚えていたのだ。
「オレがロープをしっかりと結んでおかなかったせいで、あいつは……」
錠次がいくら「気にするな」と言っても聞き入れなかった。
「バカな上に頑固だからな、あの男は」
しまいには錠次も匙を投げた。
エリカも悔やんでいたが、すでにこうなってしまった以上はとやかく言っても仕方のないことだと無理に割り切った。そして今後のことを考えて錠次を「組織」に誘ったものの、あっさりと断られた。
四十年前なら拒否権はなかったのだが、いまでは「組織」も柔軟になっていた。岩志木やエリカの存在を知った者が多かったのも理由の一つだ。まさか大全とすみれ、そして夏音を「組織」に入れるわけにもいかず、また強制的に「口封じ」することも非現実的な話だった。「決して口外しない」ことを約束してもらい(口外したとしても、他人から信じてもらえる話ではないにせよ)、錠次たちの自由を保障した。
錠次が探偵事務所を再開してエリカに協力すると申し出たことも大きかった。半ば「組織」の一員となるようなもので、ある程度の自由は与えたほうがいいとの判断があったようだ。「彼を敵にまわしたら面倒だし、同じように厄介な元刑事もいますから」というエリカの進言も功を奏した。
錠次のもとには「組織」から定期的に「トマトジュース」が送られてくるようになった。中身は血液だ。もちろん合法的な。
錠次が協力者としての仲間になったので、エリカは「組織」について明らかにした。
エリカの所属する「組織」は不老不死の管理を目的として運営されていた。不老不死の研究のみならず、不老不死とされる人物の探索・追跡、文献調査などが守備範囲である。
また、不老不死の研究を進めている民間企業や団体の調査・監視も役割に含まれていた。もし不老不死の実現を可能とした場合、その技術を奪い取り封印する。「一般企業が核兵器を開発していたら、国家は黙っていないでしょ? それと同じ」とエリカは言い添えた。テロ対策も兼ねているらしい。
今回、その民間企業の一つが君島財閥であり、人体実験を行っていたことを世間に公表され(もちろん「組織」は表には出ないが)、同財閥は力を失っていった。君島家も後に没落している。
もともと「組織」は鎌倉時代に生まれたものらしい。人魚の肉を食べて不老不死になったとされる八百比丘尼の身柄を確保することが当初の目的だった。現在もその目的は取り下げられていない。
夏音は高校在学中に錠次の後継者となることを決意し、学業のかたわらアシスタントとして探偵業をこなすようになった。当時は「美少女探偵」として関係者の耳目を集めたものである。祖父と孫との探偵コンビという物珍しさも含めて。
二人が挑んだ事件はいくつもあるが、それはまた別の話である。
なお、夏音の娘も、その娘も、さらにはそのまた娘も美少女探偵となり、錠次とコンビを組むことになるのだが、やはりこれも別の話となる。
ついでのことだが、鷹架錠次の認知機能の衰えは解消している。
「百年以上も脳トレを続けていたら、さすがにな」
とは、錠次が肩をすくめて口にした言葉である。