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第4章 永遠の、錠次



 君島総合医療センターは、山のふもとの広大な敷地の中にたたずんでいた。

 診療棟と入院病棟、そして研究棟に分かれている。

 研究棟だけが平屋建てで、近代的な建物の裏手にヘリコプターが見えた。

 おそらくはエリカが数時間前に目撃をしたヘリコプターだろう。夏音がここにいることはほぼ決定したと考えていい。

 駐車場は数百台が収容できる広さがあり、一番外側に頑丈なボディを持つ二台の特殊車両がひっそりと待機していた。

「あそこに停めて」

 エリカの言葉に、大全が呆れたような声を出す。

「驚いたな。ありゃテロ対策用の車両じゃなかったか」

「テロリストによる化学犯罪にも、吸血鬼による襲撃にも耐えられる仕様よ」

「いやはや」

 エリカがクルマから降りると、特殊車両からそれぞれ五人ずつの隊員が降りてきた。全員が黒の出動服に身を包み、特殊警棒を携えている。

 空気が一瞬にしてものものしい雰囲気に変わった。

「うちの精鋭部隊よ」

 男性七名に女性三名。いずれも二十代から三十代に見えた。

「お疲れさま」

 場にそぐわない軽い調子で声をかけ、エリカは隊員の一人から書類を受けとる。サッと目を通し、うなずく。

「捜査令状かなにかかな?」

「ご明察。これらかあの研究棟に調査に入るの」

「ずいぶん手回しがいいな」

「国が本気になると、こんなものよ」

 澄ました顔で言ったあと、隊員たちに向き直る。

「すでに本部から話を聞いていると思うけど、今回の出動に関して目的は二つあります。一つは、岩志木幻弥の確保。もう一つは鷹架夏音さんの保護」 

 整列した隊員たちは表情を変えずにうなずく。

「あなたたちは岩志木の確保を優先してください。夏音さんの保護は私と、こちらの」と錠次を示す。「鷹架さんが行います。夏音さんは鷹架さんのお孫さんです」

 無表情だった隊員たちの顔にかすかな困惑が浮かぶ。一般人、しかも老人を捜査に加えることへの戸惑いだ。エリカはニコリと笑い、くだけた口調で言う。

「私の昔の知り合いなの。元私立探偵で、修羅場はたくさん経験している。止めても聞き入れるような人じゃない。責任は私が取ります」

 隊員たちは静かにうなずいた。

「それと、ゼン君?」

「おう、オレも行くぜ」

「ダメ。あなたの役割は、すみれちゃんを守ること。この中なら安全だから」

 特殊車両を指さす。

「おいおい、エリカさん。ここまで来てそれはないぜ」

 唇をとがらせる大全に錠次が釘を刺す。

「大全。なにが大切なのかを考えろ」

「……分かったよ」

 隊員の一人が特殊車両の後部扉を開いた。大全とすみれに中に入るように礼儀正しくうながす。二人はおとなしく従った。

「では、行きましょうか」

 先頭に立つエリカ横に錠次が並ぶ。ステッキの音が響いた。

 後ろを固めるのは十人の隊員たちだ。



「大丈夫かな、錠次さん」

「心配することはないさ。あれだけの連中が付き添ってんだから。逆に足手まといにならなきゃいいけどな!」

 特殊車両の細い窓から大全とすみれは錠次たちを見送っている。

 常夜灯の遠い光が彼らをモノクロに照らし出す。

「じいじ。残念だね、見せ場がなくて」

「まったくだよ。これじゃ、ただの運転手だ」

 ぼやき口調で顔をしかめる大全にすみれが言った。

「だったら行こうよ」

「ん?」

「エリカさんに怒られるかもだけど、私も夏音のことが心配だし、じいじが守ってくれるんなら大丈夫でしょ」

「そ、そう思うか?」

「うん。じいじは強いし」

 孫のその言葉に大全は感激し、使命感を燃え上がらせる。

「よし! すみれのことはじいじが命に代えても守ってやるから安心しろ!」

「じゃ、行こ」

 すみれは窓から離れ、扉に手をかける。大全には見えないように小さく舌を出していた。

 夏音が心配だという言葉に嘘はなかった。ただ、別の理由もあった。

 大全と二人きりでいることの気詰まり感だ。決して広いとは言えない車両の中に祖父と過ごすことが息苦しかったのだ。照れくさい気持ちもあった。

 もちろんそんなことは口にしないが、祖父がその気になってくれて、すみれはホッとしていた。



 時刻は十九時四十分。

 いつもと違って遅い夕食を夏音はとっている。ナイフとフォークを動かしながら「こういう経験も新鮮でいいな」と呑気なことを考えていた。

 テーブルでは特大のステーキが鉄板の上で音をたてている。ナイフを通すとスッと切れて、赤みがかった断面が見える。「食べきれなかったら残してもいいですよ」と看護師は言ったが、そんなもったいないことはできないと思った。

 この柔らかさと言い、口の中に広がる香りの良さと言い、高級な肉だということは誰にでも分かる。正直、これほどまでに美味しいステーキを食べたことはなかった。

 夏音としては白いご飯も欲しいところだったが、夕食として出されたのはステーキの他にはサラダだけだった。

 ボウルいっぱいのサラダもまた美味しかった。トマトは酸味が優しく、タマネギはシャキッとしていて、キュウリは口中でパリッと小気味よい音をたてた。ドレッシングがなくても食べられる。

「最近の病院食ってすごいんだな」

 夏音はつぶやく。

 自分が献血中に意識を失い、病院に搬送されたということは一時間ほど前に聞かされた。目覚めたのは、いまいる病室のベッドの上で、夏音が身を起こすとすぐに医師がやって来た。医師は薄いフレームのお洒落なメガネをかけていた。

「軽い貧血です。若い女の子にはよくあることですから、心配することはまったくありません。しかし万一ということもありますので、大事をとって病院で様子を見ることにしたわけです」

 優しい声で話す男性医師の言葉を夏音は素直に信じた。

 自宅にも連絡は入っているとのことだった。すでに面会時間は終了しているので、家族が病院に来るのは明日の朝になるらしい。

 献血中の出来事なら連絡を受けたのはおじいちゃんだろう……と夏音は思う。お父さんとお母さんには知らせてくれたかな。

 一応、自分からも連絡をしておきたいとスマートフォンを探したが「急なことだったので、荷物は献血センターに置いてきたようですね」と言われ、あきらめた。

 医師は簡単に夏音の身体の状態をチェックし、そそくさと病室を出て行った。そのあと一時間近くが過ぎ、看護師が贅沢な夕食を持ってきたのだった。

 夏音は看護師に電話を貸してほしいと頼んだが「いまは安静にしていてくださいね」と笑顔で断られた。そう言われるとどうしようもない。せめて目の前のご馳走を楽しませてもらおう。そう思って、夏音はナイフとフォークをせっせと動かす。

 病室にはテレビが置かれていなかった。本も見当たらない。病室からは出ないようにと言われていた。

 今夜はかなり退屈な夜になりそうだ。

 早めに寝ることにしよう、と夏音は思った。



 令状を突きつけられて戸惑う守衛を半ば脅すようにしてエリカは入り口のドアを開けさせた。研究棟のエントランスロビーは広々としており、奥へと向かう通路が左右それぞれにあった。

 左側の通路から白衣姿の男が二人、小走りでやって来た。

 一人は薄いフレームのメガネをかけていて、もう一人は黒縁のメガネをかけている。エリカたちの姿を見て、ギョッと立ち止まった。薄いフレームメガネの男が身を翻し、エリカが鋭く叫ぶ。

「止まりなさい!」

 男は足をすくませた。エリカは二人にゆっくりと近づき、令状を見せる。

「いまからこの施設を捜索します。ご協力をお願いします」

「な、なんの捜索ですか。私たちはなにも……」

「岩志木幻弥」

「!」

 二人の顔が蒼白になり、レンズの向こうで目が泳ぐ。エリカは内心で快哉を叫んでいた。岩志木の名を出したのはハッタリでしかなく、もしここで相手が動じなかったら捜索は鷹架夏音を対象としたもので終わっていた。

「研究職に就く人たちは冷静なようでいて、実はすぐに感情が顔に出る。少年の心を失っていないからでしょうね。素敵なことだと思います」

 エリカは隊員たちを振り返り、薄いフレームのメガネをかけている男を示す。

「こちらの方に案内してもらって。岩志木のいる場所まで」

 隊員たちが無言で男を取り囲む。エリカはもう一人の黒縁のメガネに言った。

「あなたには、鷹架夏音さんのところへ案内していただきましょうか」



 エントランスロビーの様子は、研究棟の中央部にある「ラボ」の監視モニターに映し出されていた。壁に設置された複数のモニターには通常「生体」たちの部屋が映っているのだが、先ほど守衛室から「警察が令状を持って捜索に来た」との連絡を受けてカメラを切り替えたのだった。

「まずいな、これは……」

 額に冷や汗を浮かべているのは、ごま塩髭を蓄えた初老の男だった。白衣に身を包んでいる。

「どうするつもり? 高柳さん」

 声をかけた人物は速乾性のトレーニングウェアを着用していた。つい先ほどまでランニングマシンで走っていたのだが、疲労している様子は見られなかった。スリムでありながらバランス良く鍛え上げられた肉体の持ち主をちらりと見て、高柳は吐息をつく。

「どうしようもないだろうね。せっかくここまで来たけど、岩志木クン、あきらめたほうがいいようだ」

「ずいぶんあきらめが早いんだね」

「変に抵抗をして、これ以上罪を重くしたくない」

「残念だなあ。僕、ここが気に入ってたんだけど」

 それはそうだろう、と高柳は苦々しく思う。岩志木にとって、ここはパラダイスのようなものだ。

 岩志木がやって来たのは一年半前のことだった。君島家の使いの者にともなわれて飄々とした態度で現れた。

 使いの者は「これは君島家の意向です」と高柳に告げたあと、岩志木が吸血鬼であること、不老不死の肉体を備えていること、四十年近くに渡って国の「組織」に囚われていたことなどを話した。その「組織」から救い出した彼を、これからは研究所で面倒を見るように、とのことだった。

 面倒をみるというのは衣食住の提供。特に、食。つまりは血液である。

 岩志木は生身の人間から直接血を飲むことを希望したが、それはあまりにリスクが高すぎた。「半月に一人で足りるんだけど」と言われても、生きた人間を提供することなどできるはずがない。そこで輸血用の血液はどうかと申し出てみたところ、うんざりとした顔をされた。理由を聞いて納得したが、岩志木が鮮度の低い輸血用の血液を飲んでいたのは四十年前のことだ。いまでは保存技術も向上しており鮮度は良質な状態に保たれている……と、試飲をさせたところ「なるほど、そんなに悪くはないね」と満足そうに言った。

 岩志木が特に好んだのは少女の血だった。「ま、吸血鬼だからな」と高柳は深く考えることもなく納得し、なるべく若い女性が献血をした血液を調達するようにした。最初は病院で使う輸血用の血液から選んでいたが、充分な量を確保することは難しかった。

 そこで少女専門の献血センターの開設を君島家に提案したところ、すんなりと受け入れられた。法律的にグレーなところはあるものの、君島家の力でなんとかしたようだった。また、岩志木の住まいは研究棟の一室を改装することで対応した。岩志木自身は住む場所の環境にはほとんど興味を示さなかった。

 研究棟の外には出ないようにという要望にも岩志木は素直に従った。もし彼がその気になればいつでも出て行くことができただろう。彼には人間離れした腕力があり、力で押しとどめることはできない。しかし岩志木には外に出る気はないようだった。あまり活動的な吸血鬼ではないらしい……というよりも「組織」に見つかることを面倒だと考えている節があった。

 衣食住の提供を受ける見返りとして、岩志木が差し出したのは自身の身体だった。「不老不死の研究材料として使ってくれていい」ということである。

 不老不死の研究。

 それは君島家――君島財閥に君臨する一族当主の意向だった。君島財閥は医療法人を中核として金融や通信、福祉、物流、製造など多角的な事業を展開している一大コンツェルンだが、その当主は代々不老不死の研究を続けてきたらしい。この研究棟の「ラボ」も、代々のその研究をさらに発展させるために設置された。その責任者が高柳というわけである。

 高柳が吸血鬼(岩志木)という非現実的な存在を抵抗なく受け入れることができたのは、かねてから不老不死を研究テーマにしていたからだ。医学的なアプローチにとどまらず、たとえばサンジェルマン伯爵や八百比丘尼など伝説上の不老不死の存在についても知識を蓄えていた。もちろん、吸血鬼に関しても。

 古来より多大な権力を有する者は、その権力への執着から死を怖れ、不老不死を求めるケースが少なくなかった。不老不死を願う気持ちは誰にでもあると言えるが、特に権力者はその傾向が強いようだ。有名な例としては秦の始皇帝がいるが、現代でも不老不死に関して真面目にアプローチをしている者たちは多い。海外の著名な実業家も研究所を設けていると聞いたことがあった。

 君島家当主が追求してきた研究に岩志木は協力するという。かつては「組織」においても協力を惜しまなかったという。

 その理由を尋ねられた岩志木は「自分でも興味があるから」と答えた。自身の生態について深く知りたいということらしい。一般の人間が自分の潜在的な能力を知りたいと思うのと同じなのだろう。

 岩志木が生まれつきの吸血鬼なのか、それとも後天的なもの(他の吸血鬼に襲われた結果)なのかということは分からない。本人が言いたがらないからだ。

 生まれつきではないだろう、と高柳は考えていた。もし先天性のものであれば、成人になっていることと不老性とが両立しない。

 ともあれ、高柳をはじめとする「ラボ」の研究者たちは岩志木の協力のもと研究を進めていた。岩志木は献血センターから送られてくる血液を飲みながら研究に応じた。

 高柳たちが人の道を踏み外すことになったのは、あるとき岩志木が「この血液の持ち主に会いたい」と言い出したことがきっかけだった。会ってどうするのかはあえて聞くまでもなかった。

 難色を示す高柳たちに、岩志木は頼みを聞き入れられないなら研究への協力は打ち切ると言った。君島家に相談をすると「聞き入れてやれ」という回答だった。君島家も人の道を踏み外したことになる。

 結果として、これまでに十数人の少女が献血センターから搬送され、岩志木と直接会ったあと、家出少女として世の中から姿を消した。

 少女たちを差し出したときから、高柳はいつか破局が訪れるだろうとの覚悟はしていた。それが今日、この瞬間に現実となったわけである。

 おそらくは一大スキャンダルに発展するだろうが、いまさらどうすることもできなかった。君島家の威光をもっても抑えることは不可能だ。

 ものものしい姿をした警察官たちがやって来るのをモニターで眺めながらそんなことを考えていた。

「高柳さん、僕に考えがあるんだけど」

 岩志木がニコニコと笑いながら言った。



 薄いフレームのメガネをかけた研究員の名は水澤といった。その水澤が「ここです」と「ラボ」の入り口を示す。隊員たちはドアを開けようとしない水澤を押しのけるようにして中に入った。全員が警棒を手に構えて瞬時に戦闘態勢に入れるようにと気を引き締めていた。

 水澤はドアの脇で足を震わせている。自身が破滅の淵にいることは分かっていた。吸血鬼を匿っていたことや研究材料にしていたことで責められることはないだろう……との思いはあった。非現実的なことなので報道されることもないという理由に加え、それはあくまでも研究の一環だったからだ。誰に迷惑をかけているわけでもない。

 しかし、吸血鬼に十数人の少女を「食糧」として差し出したことに関しては逃れようがないと思っていた。非現実的なことではあり、報道される可能性は低いにしても、その行為は人道に反するものだ。研究者としての未来も社会人としての生命も絶たれたに等しい。

 だが、実は水澤は知らず、さらに重い罪を犯していた。「ラボ」への入室をためらったことで、隊員たちを先に行かせた罪だ。

「いったい何事ですか」

 入室してきた隊員たちに白衣の男が咎めるような口調で言った。マスクをしているので、声が少しくぐもって聞こえた。

「岩志木幻弥を引き渡していただきたい」

 隊員の一人が言う。

「岩志木? 捜査というのは、彼のことですか?」

「そうだ。どこにいる?」

「あそこですよ」

 白衣の男が指し示したのは、強化プラスチックの透明の壁だった。手前にはさまざまな調節スイッチのついたコントロールパネルがあり、その向こうにはスポーツジムを思わせる空間が広がっていた。

 緑色のリノリウムの床と白い壁。ランニングマシンやベンチプレスマシン、腹筋台、懸垂マシンなどが置かれている。壁に沿って簡易ベッドがあり、毛布をかぶった人間が横たわっているのが見えた。

「さっきまで筋力トレーニングをしていたんです。少しやり過ぎてしまったみたいで休んでいるところです」

「よし、確保だ」

 隊員の一人が言い、残り全員がうなずく。

「あ、ちょっと待って」

「なんだ」

「乱暴なことはしないでください。疲れているので彼はいまご機嫌斜めです。抵抗するかも知れません」

 白衣の男の言葉に隊員は「ご忠告、ありがとう」と素っ気なく告げて壁の横にあるドアに向かう。ドアは密閉式で頑丈な造りだった。

「いま開けますよ」

 白衣の男がコントロールパネルのボタンを押す。プシュッという音をたてて密閉ドアが開いた。

 隊員たちは一人ひとり慎重な足どりで中に入っていく。

 最後尾は女性隊員だった。彼女はドアをくぐろうとして、ふと白衣の男を見る。

 目と目が合った。

 女性隊員は眉をひそめ、次の瞬間、その目を見開いた。

 白衣の男が素早く近づき、強烈な蹴りを食らわせた。

 女性隊員の身体が吹っ飛び、その勢いで他の隊員数人をなぎ倒した。トレーニングマシンに身体をぶつけた者が数名。ほとんどが咄嗟のことに反応できず立ちすくんでしまった。その間にドアが再び閉ざされる。

 白衣の男に蹴られた女性隊員は床に置かれていたバーベルに頭をぶつけ、意識が遠くなっていた。薄れゆく意識のなかに浮かびあがっていたのは、出動する前に見せられた岩志木幻弥の顔写真だった。



「あ、おじいちゃん! わ、エリカさん⁉ どういうこと?」

 テーブルで食事をしていた孫が目をまん丸にする姿を見て、錠次は安堵で崩れ落ちそうになった。

「夏音ちゃん、ぶじだった? なにかされてない?」

「え、なにも。というか、どうしたんですか?」

「話はあと。とりあえず、出るわよ」

「あ、はい」

 夏音は素直にうなずき、ナイフとフォークを置いて立ち上がる。着替えをもってバスルームへと駆け込んで行った。

 順応力の高い子だ、とエリカは感心する。

 夏音と初めて会い、言葉を交わしてから数時間しかたっていない。そのときエリカは自分が工藤エリカであることを頭から否定した。すげない態度さえ取った。

 夏音は納得していないようだったが、常識的に考えて四十年前の若さを保っている理由が説明できないことも理解はしていたはずだ。夏音は、エリカが錠次たちに話した事情も知らない。本来なら、いまこうして錠次とエリカが並んで現れたことに対して違和感を覚えて当然だ。

 しかし、夏音はなにも知らないにもかかわらず、目の前の非現実的な光景を受け入れた。そしてすぐに対応しようとしている。その順応力の高さは「さすが鷹架錠次の孫だ」と思わせるものがあった。

 じきに夏音が私服に着替えて出てきた。

 錠次はステッキを握り直し、体勢を整える。黒縁のメガネの男を叩きのめしたい衝動に駆られていたが、孫の前でそんな取り乱した態度は取れない。

 錠次のそばに夏音が無邪気な顔で寄ってくる。

「ごめんね、おじいちゃん。私、貧血を起こしたみたい」

「ぶじで良かった」

 錠次がそう言って肩を抱きしめる。エリカはほんの一瞬だけ目を閉じて、すぐに二人に言う。

「急ぎましょう」

 足早にドアに向かう。その途中、テーブルの上に乗っている料理を一瞥して、黒縁のメガネの男に言った。

「ずいぶん立派なお食事でもてなしてくれていたのね」

「………」

 黒縁のメガネの男は気まずそうに顔をそむけた。

 


「あれ? 水澤さん、どうしたの、そんなところで」

「な? え、岩志木クン?」

 廊下に座り込み、頭を抱えていた水澤は「ラボ」から出てきた岩志木に声をかけられ、口を半開きにする。白衣姿の岩志木はマスクを外してニコリと笑う。

「あはは、そんなに驚かないでよ。僕が簡単につかまるわけないじゃない。水澤さんなら分かるでしょ?」

「……ああ」

 その通り、自分なら分かる。岩志木の体力に関しては水澤が担当していたので、いかに人間離れしているかは誰よりも知っていた。当の岩志木以上に詳しいと言っていい。例えるなら、選手の力を選手以上に把握しているコーチのように。だからこそ、岩志木が平気な顔で「ラボ」から出てきた意味の怖ろしさも分かる。

「……あの人たちは?」

「耐暑訓練中」

「ジムに閉じ込めたのか!」

「三〇〇度にしておいた」

「無茶だ! 死んでしまう!」

 絶叫だった。「ラボ」のドアに駈け寄ろうとした水澤だったが、岩志木に襟首をつかまれる。

「ぐえっ!」

「そんなことより、水澤さん。ゲストはもう到着してるんだよね? 僕、挨拶してくるよ」

「だ、だめだ。これ以上、罪を重ねたら」

 水澤が必死の形相を浮かべる。

 挨拶というのは、つまりは血を吸うということだ。警察に踏み込まれたからには、すでにこの研究棟での活動継続は無理だろう。岩志木は逃亡する気満々であり、行き掛けの駄賃として少女の生き血を飲んでいくつもりに違いない。

 水澤の口にした「罪」には少女を生け贄とすることの他にも、もう一つあった。警察官たちを死に追いやることだ。

「ジム」というのは、さまざまなトレーニングマシンを揃えているスペースのことで、岩志木の体力を研究するために用意された部屋だ。

 体力の測定はもちろん、トレーニングによって吸血鬼の筋肉は増大するのか、どこまでの負荷に耐えられるのか、過酷な条件のもとでどこまで活動を続けられるのかといったことを調べるための部屋である。

 室温の調整もできるようになっており、低温では零下一〇〇度まで下げることができ、高温では摂氏三〇〇度まであげることがきた。いずれも吸血鬼の使用を前提に設定されたものであり、人間にとっては死に直結する温度だった。猛暑日と呼ばれる日の気温は三五度以上、一般的なサウナの温度は八〇度から一〇〇度だ。それを考えると、室内温度が三〇〇度というのはあり得ない高温状態である。体温が急激にあがり、おそらく十分もしないうちに彼らは死んでしまうだろう。

「警官殺し」が重い罪に問われることを、水澤はどこかで読んだことがあった。その罪の一端を自分が担ってしまったことにも気づいていた。

 おそらく岩志木はマスクと白衣によって研究員になりすました。そして警官たちを「ジム」へと誘導したのだろう。もし水澤も一緒に「ラボ」に入っていたら、すぐに岩志木の変装に気づいたはずだ。警官たちに告げれば、彼らが罠にはまることもなかったに違いない。

 それを考えると水澤は怖ろしくなり、せめて警官たちを助けようと思ったのだった。しかし岩志木が前に立ちはだかっている。

「放せ!」

 水澤は必死で抵抗し、岩志木の手を振り払おうとした。一刻も早く助け出さなければ。秒速で死期が迫っている。

「仕方ないな。じゃ、ここでお別れ」

 岩志木は水澤の首をつかみ、握力を込めた。乾いた音と湿った音が同時に起きる。水澤の抵抗がやみ、くずおれたまま痙攣する。

 岩志木は研究所の奥にある「ゲストルーム」へと向かって歩き出す。

 研究棟には「生体」と呼ばれる患者たちが過ごす病室があった。彼らは身寄りのない末期がん患者たちで、治療費の支払いに困難をきたしている者たちだった。であるにも関わらず、研究棟では個室の病室を与えられていた。理由は「ラボ」における研究協力への見返りだ。

 彼らは岩志木の血液や細胞を投与され、がん細胞にどのような変化や影響があるのかを調べられていた。有り体に言えば、人体実験の被験者である。

 研究棟には常に複数の生体がいた。彼らが過ごす病室は研究棟のもっとも奥にあった。彼らが「寿命」を迎えたとき、裏口から死体を搬出しやすいというのがその理由だ。

 そうした病室の一室を品のいい調度品を揃えて改装したのが「ゲストルーム」だ。

 ゲスト、とは岩志木に直接会わせるために招いた少女たちのことだ。彼女たちはゲストルームで一夜を過ごし、早朝に岩志木と「面会」する。そして、生体たちと同様に裏口から搬出される。

 岩志木がゲストルームを利用するのも今日が最後だ。本当は血液が美味しさを増す朝まで待ちたかったが、そんな猶予はなさそうだった。

「ま、最後の晩餐ということでいいか」

 岩志木はつぶやき、廊下を進む。



「うげっ!」

 口を押さえたすみれの両肩を大全がつかみ、くるりと後ろ向きにさせる。

「見るな。あっちを向いてろ」

「う、うん」

 廊下を渡ってきた二人が目にしたのは、水澤の死体だった。ねじれた首がうつろな目で虚空を見ていた。

「すみれ。お前はここで待ってなさい。部屋の中を見てくる」

「やだ、怖い」

「のぞくだけだ。なにかあったらすぐに逃げる」

「私も行く」

「お前、死体の近くまで行けるのか?」

「目、つぶってる。手、つないで」

 目を閉じて手を差し出す孫に大全は呆然とする。直後、目をうるませた。まだすみれが幼児だった頃のことを思い出した。「じいじ、だっこ」と両手を広げてぴょんぴょん跳ねている姿がよみがえる。

「よし、手を放すなよ」

 ズボンで手を拭ってからすみれの手をつかんだ。そのまま死体の脇を通り、ドアを細く開く。

 おそらく中に吸血鬼はいない、と踏んでいた。

 白衣を着ていたことから、廊下で死んでいる男は研究所員だろう。エリカの部下たちが手を下すはずがないので、犯人は吸血鬼だと推測できる。目立ちすぎる死体を廊下に放置しているということは、後先を考えずに逃亡したと考えて間違いない。

 そう思いながらも一応の用心をして静かにドアを開けた大全だったが、次の瞬間には飛び上がらんばかりに驚いていた。

「どうしたんだ!」

 思わず叫んで、すみれの手をとったままを中に駆け込む。引っ張られたすみれがバランスを崩すが、いまは構っていられなかった。

 強化プラスチックと思われる透明な壁の向こうで隊員たちが倒れていた。大全は密閉ドアに飛びついた。取っ手をつかんで開けようとするが、ドアはびくともしなかった。

「くそ、どうなってやがんだ!」

 その後方ですみれが足をすくませている。隣室の惨状に腰が抜けそうになっていた。

「マジでもう無理」

 と、そのとき隊員の一人が緩慢な動きで顔をあげた。正確にはあげようとした。女性隊員の一人だった。彼女は力尽きたようにガクリと首を落とす。

 すみれは弾かれたようにコントロールパネルに駈け寄る。素早く視線を動かし、すぐに「door」という表示の下にある開閉ボタンを見つけた。叩きつけるように押す。プシューという音がしてdoorが開いた。

「うわっ!」

 大全があふれ出してきた熱気から顔を防いでたじろぐ。が、それも一瞬だ。

「なめんなよ! 年寄りは暑さにツエーんだ!」

 そして中に飛び込んで行った。


10


「やあ、久しぶり。僕のこと覚えてるかな?」

 廊下の向こうからやって来た岩志木が片手をあげてニコリと笑った。その笑顔はエリカに向けられている。

 錠次は咄嗟に手近なドアノブをひねる。鍵はかかっていなかった。素早く開き、夏音を中に入れる。

「夏音、鍵をかけなさい」

「ジョー君も入って」

「いや、君に加勢する」

「ダメ。なにが大切か考えて」

「………」

 思わず黙り込む錠次を押し込むように部屋に入れた。そして岩志木に向き直る。

「そうね、お久しぶり。もちろん、あなたのことは覚えてる。二度と会いたくはなかったけど」


11


 錠次は室内を素早く観察した。

 壁面に丸いカバーの電気が灯っている。どう見ても病室だが、夏音のいた部屋とは雲泥の差だった。広さだけなら同じくらいだが、床は剥き出しで、壁も薄汚れている。年季の入ったビジネスホテルの部屋のようなわびしさが漂っていた。

 狭いベッドの上には呆けたように口を開いて眠っている男がいた。顔色は悪く痩せている。若者にも年寄りにも見えた。

 正面奥のカーテンを開くと、窓の外にバルコニーがあり、緑の芝生が見えた。ここから出られそうだ。窓を開けて夏音を手招きする。

 途端、ドアがどしんと音をたてた。夏音がビクッと身をすくめる。錠次は孫の手を取り、外に出た。

 頭の中でいまいる位置を把握しようとしたが、うまくいかなかった。方向感覚が失われている。焦っているのだと考え、息を深く吐いて気持ちを落ち着かせようとしたが効果はなかった。原因は焦りではなく、老いによる衰えらしい。だったら頭に頼らず足に頼ろう。

 どしん、という音がまた聞こえた。エリカが吸血鬼をドアに叩きつけている音であればいいのだが、と錠次は思う。

「おじいちゃん、大丈夫?」

 夏音が気遣うような視線を向ける。この子にとってはなにが起きているのか分からない状況だ。たとえ取り乱しても無理はないと錠次は思っていたが、意外なまでに夏音は冷静だった。その夏音の目を見ながら錠次は言った。

「もちろん大丈夫だ。行こう」

 そして孫の背中に手を添えて歩き出す。どこへ向かえばいいのかは分からないが、まずはここを離れることが先決だ。敷地には一定の間隔で常夜灯が立っている。移動をしているうちに駐車場の場所も分かるだろう。

 特殊車両のところまで辿り着ければ、大全に夏音を預ければいい。そしてエリカのサポートに戻る。吸血鬼を相手にどこまで加勢できるかは分からなかったが、なにもしないわけにはいかなかった。エリカのおかげで夏音をぶじに救出できたのだ。

 もしかして命を落とすことになるかも知れないな、と錠次は思った。そして淡い苦笑を浮かべる。そんなことを思うのはずいぶん久しぶりのことだった。


12


 ドアの蝶番が弾け飛ぶ。身体が室内の床に叩きつけられる。衝撃でクラクラした。頭のどこかを切ったようだが、気にはならない。傷はすぐにふさがる。

 岩志木は手強かった。四十年近く眠っていたので筋肉は衰えているだろうとタカをくくっていたが違った。むしろパワーアップしている。つかんだ腕の筋肉には鋼鉄の芯が入っているようだった。鍛え直したのかも知れない。

 エリカは「組織」で戦闘訓練を受けていた。身につけた技を次々に繰り出すが、たいしたダメージを与えられていない。逆に岩志木からのダメージが大きい。

 焦りがエリカの心を包む。

 岩志木が姿を現したということは、隊員たちの手から逃れたことを意味する。でも、どうやって? 彼らが追ってきていない意味を考えれば、最悪の事態が予想される。 

 隊員たちは、吸血鬼からすればか弱い人間かも知れない。それでも彼らは「組織」の精鋭たちだ。日頃の鍛錬を怠ることがない。一人や二人で立ち向かうなら返り討ちにあう可能性は高い。しかし今回出動したのは十名である。

 だが、短時間で戦闘不能に陥らせた。そこまでの力を岩志木は宿していることになる。

 どうして、そこまで強くなれた……?

 負けるかも知れないとの怖れがエリカの中に焦りを生み出していた。

 立ち上がろうとしたエリカは顎に衝撃を食らい、吹っ飛ぶ。強烈な蹴りだった。舌が切れ、血があふれ出す。

 岩志木が馬乗りになって首を絞めてきた。

 顔を近づけながら岩志木が言う。

「君も僕と同じ身体になったんだよね? だったら、死ぬことはないよ。安心して」

「ぐっ」

 首にかかる手をつかんで腕に力を込めてみたものの、ビクともしなかった。

 岩志木が言うように、どれだけ首を絞められても窒息死をすることはない。と言って苦しくないわけではなかった。じきに気を失う。

 そして実際にエリカは意識を薄れさせつつあった。

 そのとき。

 グシャッという鈍い音がして岩志木の手の力が緩んだ。エリカの手を誰かが引っ張る。カサカサと乾いている。老人の手だ。

 まさか、ジョー君?

 顔をあげたエリカの目の前には大全がいた。

「ゼン君⁉」

「悪い。来ちまった」

 鼻の下を人差し指でこすり(昭和の仕草だ、とエリカは思った)、大全は岩志木に向き直る。

 岩志木は頭を押さえながら、よろよろと立ち上がるところだった。大全は室内にあった椅子を岩志木の後頭部に叩きつけたらしい。

「この吸血鬼めが!」

 大全が白衣の襟をつかみ、背負い投げを決めた。派手な音をたてて岩志木が床に叩きつけられる。見事な技だったが、岩志木がダメージを受けることはない。エリカは気力を振り絞って立ち上がり、大全に言った。

「ゼン君、ありがとう。でも逃げて」

「おいおい、そりゃねーだろ。いまの見てなかったのかよ」

「お見事だったよ、ご老人」

 岩志木が床に大の字になったまま笑う。

「てめぇ」

 大全が絞め技をかけようと岩志木の首に腕をまわす。直後、ゴリッという音がして、大全が肩を押さえながら転がる。必死に痛みをこらえている顔だった。呻き声が漏れている。

 岩志木が立ち上がり、大全の身体をつかみあげて放り投げた。派手な音をたてて窓ガラスが砕け散り、大全の身体が破片の上に落ちた。

 エリカが岩志木につかみかかる。するりとかわされ、背中を強く押された。エリカは生体の横たわるベッドに頭から突っ込んだ。

 目を覚ましていた生体は、ぼんやりと室内の出来事を眺めていた。エリカに激突されて顔をしかめたが、それ以上の反応は示さなかった。

 急いで身を起こし、振り返る。

 岩志木は姿を消していた。錠次たちを追いかけて行ったに違いない。急いで外に出る。

 バルコニーには大全が横たわっていた。

「ゼン君」

 抱え起こそうとするエリカに大全は振る。

「オレはいい。錠次を」

「分かった。ごめんね」

 ここで大全の介抱に時間を費やすことに意味はない。二人ともそれが分かっていた。

 エリカはバルコニーの柵を跳び越えた。素早く位置関係を頭に描く。

 錠次は駐車場へ向かったはずだ。ここは研究棟の裏手。駐車場は反対側にある。

 となると、最短でたどり着くのは……。エリカは左右を見る。建物の角が近い方向は、左。ヘリポートのあった側だ。

 左にある角を曲がり、建物沿いを進めば駐車場に着く。エリカは地面を蹴る。


13


「すみません、ミネラルウォーターがなくなっちゃって。水道の水ですけど」

 すみれが申し訳なさそうな声で差し出したコップを隊員は弱々しい笑顔で受けとる。

「ありがとう。充分です」

 そしてごくりと飲み干した。

 すみれは空になったコップを受けとり、すぐに蛇口へと取って返す。コップを洗い、水を注ぎ、別の隊員へと差し出した。

「ジム」には隊員たちがそれぞれぐったりとした姿で体力の回復を待っていた。横たわっている者もいれば、身を起こして座り混んでいる者もいる。まだ立ち上がれる者はいないようだった。ケガをして血を流している隊員も数名いた。

 すみれはその十名の隊員たちのケアを行っていた。大全が命じたことだ。

 密閉ドアを開けたあと、すみれは「ジム」の室温が異常な高温になっていることに気づき、コントロールパネルを確認した。温度を調節するツマミを見つけ、適温にまで下げる。室温を示すデジタル数字が「300」から急激に下がっていった。

 大全は手近な隊員からこちらの部屋へ引きずり出そうとしていたが、すぐにその手を止めて戻ってきた。

「どうしたの、じいじ?」

「冷蔵庫を……あった!」

 大全が小走りに向かった先には大型の冷蔵庫があった。上の扉を開けた大全が「げっ」と叫んだのは、中に大量の輸血用パックが入っていたからだ。すぐに扉を閉じ、下の扉に手をかける。

「よし、あった!」

 中に入っていた数本のペットボトルを両手で抱えて手近な机の上にどさりと置いた。すべてミネラルウォーターだった。

「すみれ、あの人たちにこれを飲ませろ。足りなかったら普通の水でいい。無理にこっちの部屋に連れてこなくてもいい。温度は下がってるし、大丈夫だ」

「わかった」

「じいじは吸血鬼を追っかける。たぶん夏音ちゃんを狙ってるはずだ」

「うん」

「それで、えーと、お前を置いていくのは辛いんだが、ここにいる人たちが」

「行ってあげて」

 すみれは祖父の言葉を遮って言う。

「いいのか? というか、怒らないのか?」

「怒るわけないよ。夏音を守ってあげて」

「お、おう」

 大全がうなずき、なおも何かを言おうとしたが、その背中をすみれが押す。

「じいじは強い。早く行ってあげて」

「任せろ!」

 大全は胸をドンと叩き(昭和の仕草だ、とすみれは思った)、部屋を飛び出して行った。

 そしていま、すみれは隊員たちにペットボトルを与え、足りない分は水道水でカバーしている。

「ん?」

 隊員以外に簡易ベッドに横たわっている横たわっている人がいることに気づき、すみれは声をかける。

「あの、大丈夫ですか?」

 返事がないので毛布をめくると、首の折れ曲がった初老の男性が濁った目で見返してきた。喉元までせりあがってきた悲鳴と吐き気をこらえ、すぐに毛布を戻す。

「……あたしだって、強いんだぜ」

 自分の胸をドンと叩き、すみれは救急箱を探し始める。


14


 どうやら見当違いの方向に来てしまったようだ。

 すでにそれなりの距離を進んだが、駐車場が見えてこない。

 研究棟の裏手から出た錠次と夏音はいま、別の建物の裏側に来ている。平屋建ての研究棟とは違い、こちらは五階建てだ。規則的に並ぶ窓の多くに明かりがついていることから判断して、おそらくは入院病棟だろう。

 この中に逃げ込むのはどうだろうと考え、すぐに首を振る。入院病棟なら身を隠す場所もたくさんあるだろう。しかし吸血鬼が追跡してきたら、患者たちを巻き込んでしまう。どれだけの被害者が出るか分からない。夏音を守ることは最優先事項だが、無関係な人たちを巻き添えにすることはギリギリまで避けたかった。

 錠次は吸血鬼がダメージを負わずに現れたことに強い警戒心を抱いていた。エリカの部下たちの手から無傷で逃れ、しかも追跡させてもいないことに重苦しい恐怖を感じる。まさに化け物だ。そんな化け物を病に苦しんでいる人たちに近づけられるはずもない。

 入院病棟の端まで来た。ここで曲がったほうがいいのか、それともさらに真っ直ぐに進んだほうがいいのか……錠次は迷った。

「おじいちゃん、どうしたの?」

 夏音が言ったとき、遠くでガラスの割れる音がした。夏音の目が揺れる。

「こっちだ」

 錠次は建物の角を曲がった。いまのガラスの音がどのような状況で発生したのかは分からないが、最悪の事態を想定しておいたほうがいい。真っ直ぐに進むと、追いかけて来た吸血鬼の目に止まりやすい。ほんのわずかな間でも、視界から外れる位置にいたほうがいい。

 二人は足早に進んで行く。本当は走ることができればいいのだが、錠次には体力的にも筋力的にも無理だった。かと言って、夏音だけを先に行かせるには不安が大きすぎる。つくづく「老い」というものの厄介さを痛感する。

「おじいちゃん、どこに行こうとしてるの?」

「駐車場だよ」

「クルマで来たの?」

「大全のな。すみれちゃんも一緒だ」

「……なにがあったか聞いていい?」

 孫のおずおずとした言い方に錠次は思わず笑い声を漏らす。

「ははは。もちろん、いいに決まっている」

「だって、エリカさん、昔の彼女だったんでしょ。だから」

 夏音は少し頬をふくらませる。

「分かってるよ。笑ったりしてすまなかった。夏音は優しい子だ」

「なんか照れる」

 はにかんだ顔を見せる夏音を見て、錠次は幸せな気持ちになる。切羽詰まった状況であるにも関わらず「孫の笑顔ほど貴いものはない」としみじみと思った。これまで何万回もそう思ってきたことだが。

「その前に夏音、言っておくことがある」

「うん」

「駐車場には特別な形をした車両が二台ある。並んで駐まっているからすぐに分かる。大全のクルマも横につけている」

「うん」

「場所は駐車場の一番はしだ。道路に近いところだ」

「その車両に乗って帰るの?」

「そこに大全とすみれちゃんが乗っている。もし、おじいちゃんとはぐれたら、一人で向かってくれ」

「はぐれたりしないよ?」

 すみれは不安そうな声を出す。

「万一そうなったら、という話だ。そのときはおじいちゃんを探さずに、その車両に向かうこと。いいな?」

「……うん、分かった」

「いい子だ」

 棟と棟をつなぐ渡り廊下に差しかかったとき、ガラスが砕ける音と男の怒号が聞こえた。

 二人は思わず足を止める。


15


 研究棟の外に出た岩志木はすぐに入院病棟の通用口に向かった。研究棟と入院病が渡り廊下で結ばれていることは知っていた。特に急ぎ足になることもなく、ゆったりと進みながら岩志木は考える。

 あの少女は……美味しい血液を全身に巡らせている少女は、きっと入院病棟に逃げ込んだはずだ。あそこには部屋がたくさんあり、身を隠す場所に困らない。それに、大勢の人間がいるところで騒動を起こせば、混乱が生じて追跡の手もかわしやすくなる……と、あの老人は考えたはずだ。

 少女と一緒に逃げたあの老人はおそらく祖父だろう。なによりも孫が大切なはずだから、なりふり構わず他の人間たちを巻き添えにして孫を守ろうとするに違いない。こちらもそれは一向に構わない。いくらでも巻き添えにしてやろう。

 通用口の扉は閉まっていた。脇にある守衛室の小窓から制服姿の男が怪訝な顔で岩志木を見ている。

「ここに女の子とお年寄りが来たと思うんだけど」

 気さくに話しかける岩志木に守衛はぞんざいな口調で言った。

「あんた誰ですか?」

 守衛の目には岩志木が不審人物として映っていた。白衣を着ているので病院の関係者である可能性は否定できないものの、その白衣はかなり汚れている。血もついているようだ。顔にも見覚えがない。関係者だとしても真っ当な人間ではないように思えた。

「僕は岩志木幻弥という者だよ」

「岩志木? 聞いたことがないんだけど、どこの人?」

「ああ、話が長引きそうだね」

 岩志木と名乗った男はそう言ったあと、通用口の扉をいきなり蹴った。一瞬にしてガラスのドアが粉々に砕け散る。守衛は思わず怒号を放っていた。

「なにすんだ、お前!」

 それに構わず、岩志木は入院病棟に足を踏み入れる。そこは通路になっていて、ずっと先には診療棟につながる渡り廊下の出入り口が見えた。

 騒ぎを聞きつけて奥から数人の看護師が走ってきた。岩志木の姿を見て立ち止まり、首を傾げる。岩志木は声をかけた。

「ここに女の子とお年寄りが来たと思うんだけど、見なかったかな?」

 その岩志木の目がふと、向かい側の出入り口の扉の外にいる者をとらえる。顔を半分だけ出してこちらをうかがっていたようだ。

「あ、見つけた」

 あの少女と老人だった。


16


「いない」

 特殊車両が待機している場所まで戻ったエリカは錠次と夏音の姿が見当たらないことに戸惑いを覚えた。

 どうする? ここで待つ? それとも引き返す? 途中で行き違いになったら? 

 岩志木の狙いは夏音ちゃんだ。なんとしても見つけなければ。でも、どこに? 

 素早く頭の中に棟の位置関係とルートを描く。研究棟から出てからエリカは左回りのルートを選んだが、錠次たちは反対側に進んだのだろう。なぜ? どうして最短距離を選ばなかった? 夏音の声が蘇る。「もうすぐ鷹架錠次じゃなくなるんですけどね」。そういうことね。

 エリカは建物へと向き直る。入院病棟と診療棟、そのどちらかの近くにいるはず。建物の中に入ることはない。一般人を巻き込むことはない。そこは信じたい。

 そのとき、ガラスの砕ける音が遠くで聞こえた。

 エリカは再び地面を蹴る。


17


 ニタリと笑って錠次と夏音のほうへと歩き出す岩志木の後頭部が重い音をたてる。不意打ちをくらい、思わず膝をついた。続けて数度、頭を殴られ背中や脇腹にも痛みが走る。

 看護師たちが悲鳴をあげた。一人が「守衛さん、やめて。やり過ぎ!」と叫んでいる。

 どうやら襲ってきたのは、さっきの制服姿の男らしい。身体に伝わる感触から警棒のようなものを使っているようだ。

 岩志木はくずおれて横倒しになる。痛みが全身を覆う。じきに消えるとは言え、辛いものは辛かった。

「これでしばらく動けねーだろ、このクソが」

 せせら笑う声が頭上から降りかかる。

「いま、ロープを取って来るからな。おとなしく待ってろ」

 両手の拳を左右に短く引っ張る動作とともにそう言って、制服姿の男は守衛室に小走りで戻っていく。彼は合法的に暴力がふるえたことを喜んでいるようだった。

 その様子を外から見ていた錠次は、判断ミスを犯す。

 ここですぐに移動を再開すれば良かったのだが、そのまま様子をうかがい続けたのだった。守衛の声は聞こえなかったものの、どうやら岩志木は身柄を拘束されようとしているらしい。ぐったりして動かない岩志木を見て錠次は安堵感を覚えていた。「ここで終わった」と思い込んだ。十人の隊員たちとエリカを振り切り、自分たちを追いかけて来た岩志木がたった一人の守衛につかまることが果たしてあり得るのか……という疑問が生じる前に、目の前の光景に安心してしまっていた。

「おじいちゃん、行こ」

 夏音が不安そうな声を出し、袖を引く。

「急ぐことはないさ。あいつはもう立てないみたいだ」

 錠次は現役時代に暴行を受けた人間を何人も見ている。さっきのように警棒で乱打された人間がまともに起き上がることはまずないと考えていい。身体中の痛みが戦意を喪失させ、戦意どころか心すら折る。

 そう思いながらなおも見ていると、守衛がロープを持って戻ってきた。

 追加とばかりに岩志木の背中を蹴り、身体にロープを巻き付けようとする。その手がいきなり、あり得ない方向に曲がった。守衛の悲鳴が錠次と夏音のところにも聞こえてきた。

「おじいちゃん、逃げなきゃ」

 夏音の判断は早く、強く引っ張られてようやく錠次は事態が急変したことを把握する。

 孫とともに急ぎ足になりながら、危機を認知できなくなっていることへの絶望感と自己嫌悪に包まれていた。飛車と角を間違えるどころの話ではない。

 夏音は錠次に負担をかけないよう気を配りながら、しかし可能な限り急いでいる。もし自分がいなければ、もっと早く走って逃げることができるはずだ。

「夏音。ここからは一人で行きなさい。さっきの、」

「ダメ、そんなことできない」

「いいから行くんだ」

「一生後悔するから絶対イヤ!」

 夏音が叫び、錠次の腕をさらに力を込めてつかんで前へ進む。

 前へ、少しでも前へ、と。

 錠次は考える。よくまわらない頭で考える。

 いまのこの状況から受けるストレス、精神的・肉体的な疲れ、そして自己嫌悪、絶望感。それらが脳に重い負担となってのしかかっている。この数時間で老化が急速に進んだ感があった。

 ただ、それでも、ここで夏音と押し問答を続けることが時間の浪費になることくらいは判断できた。それも、致命的な浪費となることくらいは。

 いまのおれにできることは、倒れることなく前に進むことだけだ。夏音の足手まといにならないように。

 背後でガラスの砕ける音がした。その音を聞くのは、今日だけでもう三度目だ。

 いや、四度目か、と錠次は思い直す。最初は、あの献血センターの扉を破ったときだ。すでにその出来事が遠い日のことのように思えた。しかしまだ三時間程度しかたっていないのだ。

 こんなにも長い一日を経験するのは、初めてかも知れない。

 振り向いた先には岩志木がいた。真っ直ぐこちらに向かってくる。急ぐでもなく、普通の足どりで。

 その歩き方から邪悪な自信が伝わってきた。すでに夏音を手中に収めたつもりになっているようだ。錠次は死を覚悟し、ステッキを握る手に力を込める。


18


「いてててて」

 腰を押さえながら大全は立ち上がった。

 パラパラとガラスの破片が服から落ちる。手で払うと刺さるかも知れないので、身体を揺すって、残りの破片を振り落とす。

「えれーバカ力なんだな、吸血鬼ってヤツは」

 手足を動かし、大きな負傷は受けていないことを確かめる。吸血鬼にひねられた腕は折れてはいなかった。さっきは肩が脱臼しかかったが、なんとか動かせる。腰にも鈍い痛みはあるものの、歩けないほどではない。

 ガラスをじゃりじゃりと踏みながらバルコニーから芝生と出る。

 先ほどガラスが割れる音がしたほうへと進んで行く。


19


 ふわっと頭上を何かが通り抜けた気配がした。

 次の瞬間には岩志木が目の前に立っていた。

 夏音の身体が硬直する。錠次はステッキを構えて前に出た。

「こんにちは。僕の名前は岩志木幻弥。吸血鬼なんだ」

 岩志木は錠次の肩越しに夏音を見ながら自己紹介をした。

「君の血液を少し飲ませてもらった。とても、とっても美味しかったよ。君はじつに新鮮な肉体の持ち主なんだね」

「黙れ」

 錠次は岩志木の顔にステッキの先端を突きつける。動じることなく岩志木が言う。

「あなたは、その子のお爺さん? 大切に育ててるんだね。血液の状態は家庭環境に影響を受けるからね。おっと」

 眼球をめがけて突き出したステッキを素早くよけて岩志木が後退する。

「危ないなあ。でも、いまも言ったけど、僕は吸血鬼なんだ。どれだけ傷を負わせたとしても、すぐに治っちゃうんだよ」

 錠次は再び岩志木の目を狙って鋭くステッキを突き出す。だが、やはりよけられる。

 岩志木の目をじっと見る。そらさないように自分に強いた。夏音もそうであってくれと願った。

「分からない人だね。ムダなんだって」

「だったら、なぜよける? 治るにしても痛みは感じるんだろ」

「ま、そうなんだけどね」

「だったら、そのぶん動きも鈍くなる。そうじゃないの?」

 岩志木の背後で声がし、直後、その首に腕がまわされる。

「ジョー君、やって!」

 錠次は素早くステッキを突く。今度は岩志木の気をそらす必要がない。背後に忍び寄っていたエリカの気配を悟られないようにわざと外さなくてもいい。

 二度、ステッキを繰り出した。

「ぎゃあ!」

 岩志木の両目から鮮血が吹き出した。夏音が口を押さえる。

「夏音ちゃん、逃げて!」

 エリカが暴れ出す岩志木にしがみつきながら叫ぶ。

「逃げません! おじいちゃんを、」

「ジョー君を後悔させないで!」

「え⁉」

「早くっ!」

「夏音を守れないというのは、ひどく辛いことなんだよ」

 錠次が岩志木から目を離さずに言う。声が弱々しい。夏音はすぐに決心した。

「私、行く」

「いい子だ」

 目を向けると、すでに夏音は走り出していた。さすがだ、と錠次は思う。そうと決めたら一秒もムダにしない。

 錠次はステッキでエリカに加勢する。脇腹を打ち、鳩尾を突き、こめかみを叩く。死ぬことはないので、一切の手加減を加えない。したたかにぶちのめす。岩志木は確実にダメージを受けているようで、動きが次第に鈍くなる。

 そこにドタドタと足音をたててやって来たのが大全だ。手にロープを持っている。守衛が持ち出したもののようだ。入院病棟を経由してきたのだろう。

「エリカさん、そのまま押さえておいてくれ」

 大全は息を荒くしながら吸血鬼に近づき、手早く縛り上げた。岩志木はもはや抵抗をする気もないようだった。大全とエリカは岩志木を常夜灯のポールの下まで運び、ロープの端を結びつけた。これで逃げられない。

「やれやれだな」

「まったくだ」

 岩志木から数メートル距離を置いて大全がへたり込み、錠次もその横に腰をおろす。

「ありがとう。助かった」

 そう言ってエリカがスマートフォンを取り出し、通話を始めた。部下たちに連絡を取っているのだろう。

「すみれちゃんはどうした?」

「エリカさんの部下たちの面倒を見ている」

「どういうことだ?」

 大全が話した。

「なるほどな」

 錠次はうなずく。岩志木は十人もの隊員たちを倒したわけではなかったのだ。いくら吸血鬼とは言え、そこまで超人的な力はないらしい。そう、実際に老人二人と若い女性を相手に敗北しているのだから。もっとも、老人にせよ女性にせよ少しばかり常人とは異なってはいるのだが……。

 岩志木は常夜灯のポールにもたれ、空を見上げていた。ロープを解こうともがく気もないようだった。

 その岩志木が声をかけてきた。

「さっきの女の子のお爺さん、まだそこにいるのかな?」

「ここにいる」

 錠次が応える。

「少し話がしたいんだけど、いい?」

「いいだろう」

 錠次が立ち上がろうとすると、大全が袖を引っ張った。

「おい、やめておけよ」

「向こうは手を出せない」

「でもよ……」

 心配そうな顔の大全の肩を叩き、錠次は岩志木の近くに立つ。

「話というのは?」

「まあ、そこに座ってよ」

 岩志木は両目を閉じたまま言った。その周囲は赤くまだらになっている。まだ回復はしていないようだ。

 錠次は少しの距離を置いて座り込む。正直、立っているのは辛かった。エリカが通話をしながらこちらに視線を向けている。「大丈夫だ」という意味を込めて、錠次はうなずきかける。そして岩志木に向き直って言った。

「それで?」

「あなたのお孫さん。夏音ちゃんって言うんだね」

「それがどうした」

「さっきも言ったけど、大切に育てられてるんだね、夏音ちゃん。あなたもそうだけど、ご両親も立派なんだろうね。それを伝えたかったんだ」

「吸血鬼に褒められると複雑な気分だな」

「そうかも知れないけど、でもホント、素晴らしい血液だったよ、夏音ちゃん」

「そのへんでやめておけ」

「どうして?」

「孫を食糧扱いされて喜ぶと思うか?」

「あなたの名前、聞いてもいい?」

「教えたくないな」

「じゃ、ジョー君でいいや」

 さっきエリカが言った言葉を覚えていたらしい。

「ジョー君は夏音ちゃんのことが大切なんだよね」

「当たり前だ」

「孫は目の中に入れても痛くないって言うじゃない? あれホント?」

「本当だ」

「へえ、やっぱそうなんだ」

「岩志木。お前に家族はいないのか?」

 ふと思いついて錠次は言った。エリカがかつて普通の人間であったように、岩志木もまた人間だった時代があるはずだ。

「あー、家族ねぇ」

 と岩志木は血でふさがった目を錠次に向ける。まぶたがピクピクと震えていた。治りかけているということなのだろうか。

「そうだね。家族とは、よく星を見上げてたよ。そうだ、ジョー君、いまどんな星が出ているか、教えてくれる?」

「星のことなど分からないがな」

 言いつつ、錠次は夜空を見上げる。そこにはたくさんの星が小さく輝いていた。

「三つ横に並んだ星ってない?」

 オリオン座のことだろうか? しかしオリオン座は冬の星座だったはずだ。その程度の知識はあった。錠次はなおも夜空に目を凝らす。


 そして……。

 その直後に起こったことは、誰にも止めることができなかった。


20


 大全はこの日から数えて十二年後に病気で死亡する。

 入院先のベッドで、夜中に「すまん、錠次。あのとき、おれがロープを……」と涙まじりに寝言で言うことが多かった。

 その頃にはすみれも結婚をし、大全にはひ孫もできていた。そのひ孫のすくすくとした成長を見ながら涙ぐむことも少なくなかった。

「おればっかりが……錠次には……」

 一方のエリカは「組織」の一員として仕事を続けた。大全の葬儀にはエリカも参列し、すみれとの再会も果たしている。

 大全の葬儀の席に、錠次と夏音の姿はなかった。

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