第3章 暗闇の岩志木
1
「ムダに長生きしてしまったのかも知れないな……」
錠次はシートに背中を預けたまま、そんなことを思っていた。自分がいまだ生きていることへの嫌悪感が芽生えている。
クルマは静かに進む。元警察官である大全は運転が慎重だった。
その大全も後部座席のすみれも先ほどから無言を保っている。エリカと遭遇した時の話を聞き出したあと、錠次が「少し考えたい」と言ったので気を遣ってくれているのだ。
錠次は状況を整理しようとしていた。
夏音はいまどういう状態にあるのか、なぜエリカが関わっているのか、さっきの電話の意図するところは何なのか……。
しかし考えはまとまらなかった。夏音のことを心配するあまり、とてもではないが冷静を保ってはいられなかった。まともな思考ができない状態だ。
痛い思いをしていないだろうか。
怖い思いをしていないだろうか。
不安に包まれていないだろうか。
泣いていたりしないだろうか……。
夏音がそういう状況に陥っていることを想像するだけで錠次は全身に鳥肌が立つ思いがする。夏音に危害を加える者がいれば、どんな相手であっても許すつもりはなかった。
いまの錠次にとって許せない相手は、他ならぬ自分だった。
あの時、あんなにうろたえなければ……。
あんなみっともない姿を夏音に見せなければ……。
半月前、エリカによく似た女性を見た時の自身のぶざまさを錠次は呪っている。あの時、軽く肩をすくめながら何でもない調子でこう言えば良かったのだ。
「ほう。世の中にはそっくりさんが三人いるとは言うが、本当にそうだな。あそこの女性を見てごらん。じいちゃんが若かった頃の知り合いによく似ている」
それができなかったのは――心のどこかにまだエリカへの未練が残っていたからだろうか。それとも、おのれの認知機能の衰えに対して腹をくくりきれていなかったせいか。
いずれにせよ、自身の醜態が夏音の心配を招き、エリカへの関心へと向かわせた。その関心がK町への旅行となり、今日のエリカへの直接的なコンタクトにつながった。さらに、いまの連絡が取れない状態に……。
まだ夏音の身に何かが起きたと決まったわけではないが、もし万一のことがあったら、おのれのふがいなさと罪悪感で生きていられないだろう……とも思った。
心配のし過ぎなのかも知れない。客観的に考えればそうだろう。さっき考えたように、夏音は本当に何か急用ができただけなのかも知れない。今頃はもしかすると呑気な顔をして帰宅しているのかも知れない。
しかし錠次は工藤則子が口にした話を思い出していた。旅館で変死を遂げていた若い女性――全身の血を浮かれて小さく縮んだ状態で発見されたという女性の話を。
四十年前の姿をいまにとどめているエリカの非現実性と変死を遂げたその女性のことをあわせて考えると、胸騒ぎを抑えることはできなかった。胸の奥に冷たい霜がびっしりと生えたような感覚だった。
「すみれ。その献血センターとエリカさんはなにか関係がありそうなのか?」
大全が沈黙を破った。バックミラーで孫を見たあと、ちらりと錠次に視線を投げる。そしてすぐにまた前を見る。
「うーん、どうかな……わからない」
すみれは唸ったあと答えた。
「献血センターでエリカさんを見かけたことはなかったし、ビルの前で見たのも初めて。てか、そもそも私がエリカさんに会うこと自体、初めてだから」
「それもそうか」
そう言ったあと大全はすみれと同じように「うーん……」と唸る。
「何がどうなってるのか、さっぱり分からんな」
クルマは高台ニュータウンの坂を下り終え、市街地へつながる国道を走っている。夕刻ということもあって渋滞が始まっていた。
錠次は隣の車線を走るクルマをぼんやりと見る。若い男が運転をしながらスマートフォンを操作していた。
この男は、危険な行為に見合うだけの情報を得ているのだろうか……と錠次は思った。もしそうだとしたら、それはどのような情報なのだろう?
いまの錠次にとって危険を冒してでも知りたいのは夏音がどこにいるのかという情報だ。ぶじなのかどうかを知りたい。痛切に。それを教えてやると言われたら、目を閉じて運転してもいいくらいだった。
しかし、それは叶わない。苛立ちが考えを乱れさせてもいる。暗い考えに向かわせてしまっている。
エリカと出会うきっかけとなったあの大怪我の時、献血を受けなければ自分の命はなかった。その方が良かったのかも知れない。そうすれば俊が生まれることはなく、夏音が生まれることもなかった。いまのこんな事態が生じることもなかったのだ。
さらに言えば認知機能の衰えから湧き出る絶望感と戦うこともなかった。自分の心が打ちのめされそうになっていることを家族たちに伏せていることも含めて。
「死ねば良かったんだな、おれは……」
内心で錠次はつぶやく。あの時、死んでいればエリカとの関係が生じることもなかったのだ。
錠次は静かに吐息をつき、目を閉じる。俊の幼い頃の姿がまぶたの裏に蘇った。仕事が忙しくて、あまり一緒に過ごすことはできなかったが、それでも可愛い一人息子だった。ひねくれず、素直に育ってくれた。
錠次がいまも覚えているのは、毎朝の音読だ。小学校の課題だった。俊は朝食の前に教科書を開き、そこに載っている短いお話を声に出して読んだものだった。
その中で錠次が特に印象に残っているのは、空襲で命を落とす小さな女の子の話だった。題名も話の細部も忘れてしまったが、息子がたどたどしい口調で読むその話にふと胸を打たれたのだった。女の子が死んだ場所はいまは公園になっていて、たくさんの子どもたちが遊んでいる……というくだりを聞いた時、なぜか目頭が熱くなった。
夏音は俊に輪をかけて可愛かった。子どもより孫が可愛いとは言うが、まさにその通りだった。女の子だから特にそうだということもあるかも知れない。
かつて俊にそう言った時は苦笑されたが、あいつもやがて孫を持ったら共感してくれるに違いない。もっとも、その頃にはもう自分はこの世にはいないだろうが……。
錠次がそんなことを思っていると、後部座席のすみれが大全に言った。
「ねえ、じいじ。さっき、命に代えても私を守るのは当たり前のことって言ったじゃん」
「ああ、言ったな」
「カッコつけすぎ」
「だはっ!」
大全が間の抜けた声を漏らす。
「いやまあ、じいじもそう思ったんだけどな。だははははっ!」
今度は照れ笑いをする。
「でも、じいじ」
「ん?」
「私だけじゃなくて夏音のことも守ってあげてね。じいじは強いんだから」
真剣な口調ですみれが言う。
「ふん。それは、そっちの老いぼれの役目だ。もちろんサポートはするけどな」
大全は素っ気ない口調で言う。
「そうだな」と錠次は応える。「確かにその通りだ」
錠次はおのれの愚かさ加減に気付いていた。
自分は死んでいた方が良かったと思うのは、俊や夏音が生まれてこなくても構わなかったということに等しい。二人の生への否定につながる。
死んでいた方が良かったというのなら、いま死のう。現実から逃げるためにではなく、あの子たちを守るために。
「すみれちゃん」
錠次は後部座席の方に首を傾ける。
「あ、はい」
「なぜ、すみれちゃんと夏音は献血をしようと思ったのかな?」
「そういや聞いてなかったな。どういう経緯で献血をすることになったんだ? お前から誘ったのか? それとも夏音ちゃんが言い出したのか?」
「あ。えーと、それは……」
なぜかすみれが言いよどむ。言いにくい事情があるようだ。大全も同じだったらしく、少し厳しめの声を出す。
「すみれ。言いなさい。怒らないから」
「いや、えー、怒られるようなことでもないんだけど……」
「だったら言えばいいだろう」
「それが……夏音から内緒にしておいてって言われててさ」
「内緒? なぜ内緒なんだ?」
「それを言ったら内緒じゃなくなるじゃん!」
大全とすみれのやりとりを聞きながら、錠次は夏音が献血のことを内緒にした理由について考えていた。疚しいことをするような子ではないので、危惧する必要はないが……。
「すみれちゃん。いまは状況が状況だ。無理矢理言わされたということにしておけばいい。話してくれないか」
「あ、はい……」
「そうだぞ、すみれ。これは夏音ちゃんのためでもある」
「わかったよ。……あのね、一回献血すると、お金がもらえるんだ」
すみれが小さな声で言い、それに対して大全が大きな声を出す。
「なんだと⁉ 血を売ってたのか?」
その声に驚いたすみれが抗議の声をあげる。
「もう、じいじ! 怒らないって言ったじゃん!」
「いや違う違う。怒ったわけじゃなくて、驚いただけだ」
「怒っているようにしか聞こえなかったけど」
怒りたくもなるだろう……と錠次は思う。
献血というのは善意から生まれる行為だ。病気に苦しんでいる人のために、少しでも役に立ちたいという思いが根底にある。だからこそ錠次は夏音が献血をしていたことを知ってうれしく思ったのだった。さすが、我が孫。優しい心の持ち主だ、と。
しかし実際はそうではなく、お金を得ることを目的とした行為だったようだ。もちろんお金が目的であっても、献血という行為そのものは意義のあることだ。だから目くじらを立てるようなことでもないだろう。
だが……やはりそれでもわだかまりを覚えざるを得ないのは事実だった。怒りたくなるというよりも、むしろ失望に近い気持ちだった。
「それで、すみれ。一回献血したらいくらもらえるんだ?」
「五千円」
「ご、五千円⁉ そりゃえらく太っ腹だな」
と大全が呆れたような声を出す。
「太っ腹うんぬんより、そもそも売血は禁じられていたんじゃないか?」
と錠次は古い記憶を引っ張り出す。
輸血した人間は献血できないということを知った時、ついでに献血についてざっと調べたことがあったのだ。探偵という職業では雑多な知識がふとした折りに役立つことがある。
「そうなのか? 昔の学生は金に困ると血を売っていたという話を読んだことがあるぞ」
「昭和の話だな、それは」
「まあ、そうだ」
「ちょっと調べてみるね」
車内がぼんやりと明るくなった。すみれがスマートフォンで検索を始めたようだ。
「あ、あった。これだね」
そう言ったあと、説明を始める。
「えーと、なんかね。もともとは日本赤十字社というところが無償で献血をしてもらっていたんだけど、そのあとに商業血液銀行というところができて、血液を買うようになったんだって。それでたくさんの人が血を売るようになって献血する人が激減したみたい」
「そりゃ、タダで血を提供するより金をもらった方がいいからな」
「でも、それで仕事をしなくなる人も増えたようよ。血液を売ってお金をもらう方が楽だから」
「まあ、そうなるな。ふん、あとの話は見えてきたな。しょっちゅう血を売る奴が出てきたんだろ?」
「正解。毎週のように血液を売る人が出るようになって、中には一か月に七十回以上も売血した人がいたらしいよ」
「七十回? 一日に二回以上じゃないか。確か献血ってのは一度したら二週間はあいだを置かなければいけないとか言ってなかったか」
「そうね。そうしないと健康状態が損なわれるって献血センターの人も言ってた」
「七十回というのもしかし、極端な話だな」
「そういう人の血液って黄色くなるんだって」
すみれが意外なことを言い出す。
「血が黄色? どういうことだ?」
「あいだを置かずに血を抜いたら赤血球が回復できなくて、黄色の血漿が目立つようになるからって書いてる」
「気持ち悪いな、黄色い血なんて」
「そうだね」と寒気を感じたような声を出す。「ともかく、そういうこともあって血を売ることは禁じられるようになったみたい」
車内が暗くなる。スマートフォンの画面を閉じたようだ。
「禁じられている売血を、その献血センターはおこなっているということになるな。おい、錠次。話が怪しくなってきたぞ」
「……そうだな」
「ごめんね、じいじ。私たち、知らなかったの」
「まあ、それはいい。それよりすみれ、どうしてその献血センターのことを知ったんだ?」
「LINEで流れてきた。献血したら、お金をくれるところがあるって」
「怪しいと思わなかったのか?」
「思った。だから最初はスルーしてたんだけど、だんだん行ってみたという人が増えていって、それで、そんなに怪しくなさそうだったんで私たちもしてみることにしたの」
「夏音から言い出したのではないかな?」
錠次が指摘すると、すみれが言いにくそうに「うん」と答えた。
「そうか……」
「おい、錠次。お前、まさか夏音ちゃんを責めてるんじゃないだろうな」
大全がそれこそ責めるような口調で言う。
錠次は大全に顔を向け、横顔を睨みつけながら答える。
「バカなことを言うな」
大全はちらりと横目で錠次を見返し、鼻を鳴らした。
「どうだかな。お前は嘘をつくとき、目をそらそうとしないからな。あえて視線を合わせてくる」
「知った風な口を利くな。前を見て運転しろ」
「言われるまでもねーよ」
二人のトゲトゲしいやりとりに、すみれが「あ、あの、錠次さん……」とあたふたとした口調で割り込んでくる。
「どうした、すみれちゃん?」
錠次は口調を和らげて応える。
「あのね、夏音はね、錠次さんのためにお金を貯めようと思ってたんだよ」
「……どういうことかな?」
すみれは再びためらう。大きく息を吸い、それを吐き出してから思い切ったように言った。
「もし将来、錠次さんが施設に入るようなことになったら、できるだけいいところに入ってもらいたいって夏音は思ってるの。ほら、ニュースなんかでいろいろと施設で問題が起きるとか言われてるでしょ? 虐待とか。お金があったら、そういうところじゃなくて、ちゃんと行き届いた世話をしてくれるところに入れるからって、夏音。だから、献血するだけでお金がもらえるんなら……その、あの……ごめんなさい」
夏音の言葉は最後には小声になった。
「すみれちゃんが謝ることはないさ」
「そうだぞ、すみれ」
「大全。お前が謝れ」
「なんでだよ⁉」
大全が目を剝く。
「じゃあ、おれが謝ろう。すみれちゃん、悪かった。言いにくいことを言わせてしまって。すまない」
「あ、いや、そんな……」
すみれがわたわたとした調子で応える。錠次が気分を害していないことに安心しているようでもあった。
なるほど、確かに言いにくいことだな……と錠次は思っていた。
認知機能の衰えというのはデリケートな問題であり、口にするにはやはり抵抗があるのだろう。まわりにとっては腫れ物にさわるような思いなのかも知れない。
ともあれ、錠次は夏音が献血をしていた理由を知り、安堵感を覚えていた。遊ぶ金欲しさに……ということではなかったらしい。自分のことを心配してくれている優しさがうれしかったが、一方で心配させていることへの罪悪感もないではなかった。
やがてクルマは市街地に入る。すみれが献血センターのあるビルへの方向を示した。
2
コインパーキングにクルマを駐めた三人は献血センターの入っているビルへと向かう。時刻は十七時を過ぎていた。陽はまだ高い。
「さっきの七十回の話じゃないが、献血に金を払ってたら、しょっちゅうやって来る連中も出てくるんじゃないか?」
大全がせかせかした足取りで進みながらすみれを振り向く。すみれは首を振る。
「それはない。そのへんはちゃんと管理していて、最低でも二週間はたたないと受け付けてもらえないから」
「ごねるような奴もいそうだけどな」
「そんな子いないと思う」
「女の子にはいないだろうけどな。男なら話はまた別だろう」
「あれ? 言ってなかった? この献血センターって女子しか受け付けないんだよ」
「なに⁉」
大全が目をギョロつかせる。錠次も思わず足を止めた。
「本当か、すみれちゃん」
「……なんか二人とも顔が怖いんですけど」
「急ごう」
錠次のステッキの音が高く響いた。
「そうだな」
大全も足を早める。
「どうしたの? じいじも錠次さんも」
すみれが二人の後を小走りになって追いかける。顔色を変えた錠次と大全の様子に戸惑っているようだった。
「すみれ。女の子だけの血を集めるってのは、どこか不自然だろ?」
早足ではあるが、息を切らすこともなく大全は背後の孫に話しかける。
「え、そうかな? だって献血センターの人が言ってたよ。あなたの身体に他人の血を入れるとしたら、若い女の子の血がいいか、お婆さんの血がいいか。どっちが身体に良さそうかって」
「気分的には若い女の子の血を選びたくなるわな」
「そうだよね。だから、そんなに変だとは思わなかったんだけど……」
すみれはまだ戸惑いの表情を浮かべている。そんな孫に大全が諭すように言った。
「エリカさんの実家に行った時、あそこのおばさんが妙な話をしただろ? どこかの旅館で若い女が変死体で見つかったって」
「うん、覚えてる」
「全身の血が抜かれたみたいだって言ってたよな?」
「言ってた。でも、それと何の関係があるの? まさか、血がなくなるまで献血させられるってこと……? やだ、キモい」
「それをこれから突き止める」
錠次が背中越しに言う。
「あ、はい」
「ただ、すみれちゃん。血液は輸血に使うだけじゃない。食糧にもなる」
「しょ、食糧?」
錠次の言葉に理解が追いつかない孫に大全がズバリと口にする。
「吸血鬼だよ」
「はい? 吸血鬼?」
「バカげた話だけどな」
「元警察官がそんな話、信じるの?」
「逆なんだけどな。元警察官だから信じるんだ」
「え?」
「まあ、いい。いまは急ごう」
錠次には大全の言いたいことが理解できた。
吸血鬼という非科学的・非現実的な存在を警察官が認めるはずがない。吸血鬼にかかわらず、非科学的なことを認めてしまえば真っ当な捜査ができなくなる。例えば、もし容疑者にアリバイがあったら、それを突き崩すための捜査が必要だ。もしそこで「容疑者は瞬間移動ができた」という言い分が通用するのなら、警察が怪しいと思った人間は誰もが逮捕され得る。魔女狩りと同じで、人権無視の行為となる。そのため警察官はあくまでも現実に即した合理的な判断と行動を選択しなければならないのだ。
しかし、だからこそ。
現実的であり合理的であろうとするからこそ、その領域で収まらない事実に直面することもあるのだ。「超常現象だと結論する前に、通常の現象だと説明できないかを調査しなければならないんだ」とはシャーロック・ホームズの言葉だが、それは警察官であれ探偵であれ自明の理としてとらえている。
だが、通常の現象である可能性をとことん追求し、それらがすべて袋小路に行き当たってしまうこともあるのだ。
非科学的であり非現実的な存在を認めざるを得ない状況との遭遇。「どう考えても、これは瞬間移動だな」とつぶやかざるを得ない状況。
自身で遭遇はしなくても、署内の噂が耳に入ることもあるという。飲み会の席で先輩たちから「ここだけの話だけどな」と怪談よろしく語られることもあるそうだ。
死体安置室から声が聞こえてきた……といった逃げ場のある怪談(何かの聞き間違いだろうと合理的な解釈の余地がある)などではなく、死体安置室から出てきた、遺体として処理された人間が「すみません、帰っていいですか?」と受付に現れるという類いの話だ。もちろんそんなことは表沙汰にはできないので厳重に隠匿される。
そうした超常現象を扱う専門の「組織」が警察庁には存在するという都市伝説めいた話を錠次は耳にしたことがあるが、あながち頭から否定できるものでもないと考えている。
ともあれ、いま大全が口にした「吸血鬼」という言葉は、先ほどから錠次の胸の中に生まれていた考えと合致していた。
あくまでもフィクションの世界の話ではあるが、吸血鬼は不老不死の存在だったはずだ。胸に杭を打ち込まれたりもしているようなので不死かどうかは定かではないにせよ、歳を取らない存在であるとは言えるだろう。
四十年前から姿が変わっていないというエリカのことを考えると、どうしても「吸血鬼になってしまったのではないか」との思いがよぎってしまうのだった。
いかに非現実的なことであろうと、実際に起きているのであれば、現実として受け入れるべきだ。受け入れて、対応する。
当然のことながら合理的な解釈ができる余地は残っている。高度な整形技術、瓜二つの人間、才能のある役者。吸血鬼と同じくらいに非現実的な話だが、クローン人間……。そういう可能性も含めて、献血センターに行けばなんらかの手がかりがつかめるに違いない。
やがてビルに着き、三人はエレベーターに乗り込んだ。
上昇するエレベーターの中では誰も話さなかった。錠次と大全は静かにたたずんでいたが、すみれはそわそわと落ち着きがなかった。
エレベーターから降りて、フロアの奥へと向かう。献血センターはすでに業務時間を終えていた。ガラスのドアには「本日の受付は終了しました」という札がかかっていた。当然のことながらロックもされており、照明も落とされていた。人の気配もない。
錠次はポケットからハンカチを取りだしてすみれに言った。
「すみれちゃん。悪いけど、トイレに行って、これを濡らしてきてくれないかな」
「ハンカチ? あ、はい。分かりました」
首を傾げながらも素直にハンカチを受け取り、洗面所へと歩いて行く。その後ろ姿が消えてから錠次は大全に言った。
「大全。ここから先は法に触れることになる。お前達はもう帰れ」
「それはありがたい申し出だな」
「助かったよ。お前に礼を言うのは癪だからすみれちゃんにあとで言うことにしよう」
「ふざけやがって」と舌打ちをしたあと言う。「錠次。おれはすみれが可愛くてな」
「知ってるさ」
「すみれはおれのことをあまり好いてはないみたいだけどな」
「ガミガミ言うからだ。うるさがられているだけだろう」
「いずれにせよ、そういうのは耐えられるんだ。でもな」
「なんだ」
「孫に軽蔑されるのは我慢ならん」
「………」
「お前のためじゃない。おれのためだ。だから悪いが、帰るわけにはいかねーんだ」
一拍の間を置いて錠次が言った。
「バカだな、お前は」
「お互いさまだ」
「分かった。じゃ、今度一杯奢れよ」
「なんでだよ⁉」
そこにすみれが戻って来た。
「どうしたの? なに揉めてるの?」
「いや、なんでもないぞ。いつものことだ」
「だったらいいけど。錠次さん、はいこれ」
「ありがとう」
錠次はすみれから受け取った濡れハンカチを献血センターのドアにぺたりと貼る。そしてステッキの先端で鋭く突いた。鈍い音をたててガラスが割れる。
「わお!」
すみれが目を丸くする。
大全が素早くガラスの割れ目から手を入れ、ロックを外す。そしてドアを開いて中に入った。その後を、錠次とすみれが素早く追う。
「事務所からだな」
「ああ」
錠次と大全は短く言葉を交わし、受付カウンターの横にあるドアを開いた。すみれはそこには入ったことがなかったが、献血センターの職員たちがデスクワークをするオフィスのようだった。
三人は中に入り、ドアを閉じる。室内の電気をつけたあと、錠次と大全は書類用のロッカーを手分けして調べ始めた。錠次がドアのガラスを破ってから一分もたっていない。その素早く的確な動きにすみれはただただ目を見張るだけだ。
献血をした者の情報は紙のカルテとして整理されていた。いまのこの時代だから電子化されていてもおかしくはなかったが、もしかすると万一のために紙のカルテと電子カルテの両方を使用しているのかも知れない。
夏音のカルテを見つけたのは錠次だった。
「あった」
「なんて書いてある?」
大全が横からのぞきこむが、すぐに首を振る。
「老眼鏡を忘れてきた」
錠次は大全に構わず読み進める。夏音に関する基本的な情報が記載されていたが、特に怪しい点はなかった。名前、住所、、携帯と実家それぞれの電話番号、生年月日、学校名、血液型、身長や体重などの他に睡眠時間、食生活に関する情報も簡単に添えられている。第三者には見せたくない個人情報だが、それでも献血をする上では最低限のプライバシーにとどめられていると言っていいだろう。
そう思いながらカルテを裏返した錠次は、そこで眉をひそめる。裏面には「移送」という赤い印が押されていた。
「移送?」
「移送って、どういうことだ?」
「どこかの病院に運ばれたのかも知れない」
言いながら錠次は悪い胸騒ぎを覚える。
採血中に何かトラブルがあり、病院へ搬送せざるを得ない事態になったのではないか……という可能性に思い至ったからだ。胸の奥がまた冷たくなってくる。
もし、そういう事態が起きたとしたら、家族に連絡をしてこないのは明らかにおかしい。成人ならともかく、夏音は未成年なのだ。家族に連絡をしないということはあり得ない。
そのあり得なさは不吉な想像を生み出す。夏音に関して組織ぐるみの隠蔽が行われているという可能性……。
まだ遅いとはいえない時間帯に業務を終了しているのも、夏音に関する「事後処理」に職員たちが追われているからかも知れない……と、そこまで考えて錠次のカルテを持つ手が震えだした。足から力が抜けそうになる。
思わず近くのデスクに手をついた。すみれが慌てて身体を支えてくれる。
「すまない、すみれちゃん」
「大丈夫? 錠次さん?」
そんな二人を眉をひそめて見ていた大全だったが、急に「そうか!」と叫んで、手近にあるデスクの固定電話に顔を近づける。老眼で文字を追いにくいのだろう、前後に顔を動かしながらクリップで電話に取り付けられている小さなカードを見る。そして言った。
「あった! きっとこれだ」
「じいじ、どうしたの?」
「短縮ダイヤルだ。移送先の病院が登録されているかも知れないと思ったんだが、それらしいものがあった。『医療センター』って書いてある。試しにかけてみるか」
なるほど、その手があったか……と錠次は感心していた。
オフィスで使われる電話はビジネスフォンと呼ばれる。外部との通話を行う外線とオフィス内の電話をつなぐ内線を共有できる電話だ。こうしたビジネスフォンでは短縮した電話番号を登録しているケースが多い。特に、よく電話をかける外部先に関しては。大全が老眼を駆使して読み取ったカードには、その短縮番号がずらりと並んでいた。
おそらく大全は特定の移送先があると踏んだのだろう。おおっぴらにはできない患者を受け入れる闇医者のようなところがあり、電話番号を短縮化して登録している、と……。
「待て。電話をかけてもいいが、ここの電話からだとまずいだろう」
「ん? ああ、向こうに分かるかも知れないってことか」
「そうだ」
携帯電話では当然の機能となっている着信表示。もし、その医療センターの電話に着信表示機能がついていたら、献血センターからの電話だということは一目で分かる。献血センターからの電話だと思って受話器を取り上げた相手は、大全のダミ声を聞いて不審に思うだろう。ヘタに警戒される事態は避けたかった。
「電話番号だけチェックしてくれ。それをもとに、その医療センターがどこにあるのかを調べよう」
錠次がそう言った直後、背後から声がかけられた。
「その必要はないわ」
振り向くまでもなく、錠次にはその声の主が誰なのかが分かった。だから無言で静かに振り返った。しかし、他の二人は違った。
「エ、エリカさんか⁉」
素っ頓狂な声をあげたのは大全だ。
「あわわ、さっきの……」
すみれは呆然とした声を出す。
オフィスの入口には、胸の下で腕を組んだエリカが立っていた。
錠次とエリカは無言で視線を交わす。
彼女の目には、おれがどう映っているのだろう……と、こんな状況ではあるが、錠次は苦笑交じりにそんなことを考えてしまっていた。
ずいぶんと、しょぼくれた老人に見えることだろうな……。
それに引き換え、エリカは変わらない。すべてにおいて当時のままだ。
しばしの沈黙のあと、先に口を切ったのはエリカだった。
「電話をしてから一時間でここにたどり着くんだもんね。相変わらずね、ジョー君」
「じょ、ジョー君⁉」
すみれが目を丸くする。
「ゼン君も久しぶり」
「ぜぜぜ、ゼン君? え、じいじ、ゼン君って呼ばれてたの?」
「ん、まあな」
照れくさそうに大全が頭を掻いた。
錠次はエリカをまっすぐに見つめる。
「説明するつもりがあるから姿を見せたと考えていいんだろうな」
「そのつもりよ」とエリカはうなずいたあと、問いかける。「クルマで来たの?」
「そうだ」
「じゃあ移動しながら聞いてもらうわ。行きましょう」
そう言ってくるりと踵を返した。
3
「四十年前、私は吸血鬼に襲われた」
大全が運転するクルマの後部座席でエリカはそう切り出した。その隣に座っているのは錠次だ。かつて恋人だったから、という理由ではない。まだエリカに気を許しているわけではないので、彼女の隣にすみれを座らせるわけにはいかなかった。
そのすみれがエリカの言葉に反応して言った。
「吸血鬼……。やっぱりそうだったんだ」
「やっぱり? 予測はついていたって言うこと?」
「はい。さっき、ゼン君がそう言ってました」
「だぁ~! ゼン君はやめろ、すみれ」
大全が顔を赤くしてわめく。
「話を続けてくれ。吸血鬼という非現実的な存在については、あり得ることとして受け入れている」
錠次は冷静な口調で言う。こういう場面にありがちな「吸血鬼だと? そんなバカなことがあってたまるか。本当のことを言え」といった不毛なやりとりを始めるつもりはなかった。
「話が早くて助かるわ」
エリカは錠次の心中を察したのか、満足げに微笑む。
クルマは北を目指していた。カーナビゲーションには君島総合医療センターの住所が打ち込まれている。錠次たちの住むJ市からはクルマで二時間弱かかる。
それだけの時間があれば、エリカの説明を聞くには充分だろう。しかし、夏音の身に危険が迫っていることを考えると、二時間はあまりに長い。
先ほどクルマに乗り込んだ時に、その危惧を口にした錠次にエリカは「朝までは大丈夫」と言った。理由については自身の身に起きたことも含めて話すと言い、その話が始まったところである。
「吸血鬼というのは、特定の病原体を持つ者の名称なの。病原体にはウィルスや細菌、それと真菌といったものがあるけど、吸血鬼の場合はウィルス。人間の細胞の中に侵入して増殖する」
「コロナやインフルエンザと一緒だな」
「そう。ノロウィルスやヘルペスウィルスというのもあるわね」
「それで、吸血鬼ウィルスに感染するとどうなるんだ?」
「テロメアが短くならなくなる」
「テロメア?」
エリカが口にした聞き慣れない言葉に錠次は眉をひそめる。
「老化に関係する細胞の構造体の一つ。人体は細胞分裂をくり返している。古い細胞は死んで新しい細胞が生まれる。そのことで若さが保たれるわけだけど、でも、そこには限度があるの」
「いつまでも若いわけじゃないからな」
錠次は我が身を思いながら言う。
「そう。誰もが若いままではいられない。いずれ歳を重ね、老いていく」
エリカは淡々とした口調で言う。
「その例外が吸血鬼で、テロメアとやらが短くならないことに関係しているということか」
「テロメアは『命の回数券』と呼ばれているの。細胞分裂が起きるたびにテロメアは短くなっていく。やがて限度まで達したら、それ以上は細胞分裂は行われなくなる」
「老化が始まるということか。テロメアが短くならなければ老化も始まらない。回数券ではなく無期限の定期券を手に入れるようなものだな」
「そういうこと。命のフリーパスね。途中下車はできないけど」
「なるほど」
「吸血鬼はテロメアを消耗させないウィルスを保有している。保有しているからこそ吸血鬼になったんだけどね。だからいつまでも若いの」
そこで大全が口を挟む。
「エリカさんはそのウィルスを保有しているってことだな。おれや錠次のテロメアはずいぶんとすり減ってしまったようだが」
呑気な口調だが、そういう言い方でもしなければ空気が重苦しくなると大全は判断したのだろう。「途中下車のできないフリーパス」を押し付けられた者の苦悶や絶望は錠次にも大全にも分からない。常人にはうかがいしれない煩悶があったはずだ。だから深刻な顔をしても、そこには嘘が混じってしまう。
「そう。だから私は四十年前のままなの。永遠のアラサーね」
肩をすくめたあと、錠次の顔を見る。
「一つ聞いていい? さっき、ゼン君のお孫さんから聞いたんだけど、私の実家に行ったらしいわね。どうして?」
「あ、それは……」
うろたえるすみれをかばう形で錠次が言う。
「君を見かけたからだ。半月ほど前、駅前のバスターミナルで」
するとエリカは納得したようにうなずく。
「ちょうどこの街に到着した頃ね」
「たまたま孫と買い物に来ていてね」
「でも、それでどうして実家に行くの? まさか私が戻ってるとでも?」
「その可能性も考えた。ただし、その場合はテロメアを消耗した状態の君を想像していたんだけどな」
「あはは」
エリカがじつに愉快だとでもいうような笑い声をあげる。
「それは、期待に添えなくて申し訳ないわね」
「まったく、そうだな」
錠次は肩をすくめる。
「耕太は元気だった?」
「元気だったよ。その奥さんが妙な話をしてくれた」
「則子さん? 妙な話って?」
「君が姿を消す前に、若い女性が変死体で見つかったという話だ」
そこで大全が口を挟む。
「なんでも、全身の血液を抜かれていたそうだぜ」
エリカは小さな吐息をついたあとに言った。
「松木さん、バラしちゃったのね。口止めされていたのに」
「その松木さんというのは、つぶれた旅館の経営者かな」
「そう。ま、昔の話だし、いまさら言っても仕方ないけど」
「なぜ、君が知ってる?」
「その旅館で殺された――亡くなった女性のおかげで私が救われたの。……救われたという言葉が妥当かどうかは微妙だけど」
「フリーパスか」
それには応えず、エリカは話を続ける。
「被害者の名前は朝熊香織さん。当時、二十一歳。大学生で、K町温泉には住み込みのアルバイトをしていたの。あの日はアルバイトが休みで、温泉街のゲームセンターで吸血鬼にナンパされた」
「………」
錠次が返答に窮したのは「吸血鬼」という言葉と「ナンパ」という言葉の組み合わせに戸惑ったからだ。大全も同じ違和感を覚えているらしく、何も言ってこなかった。
代わりにすみれが言った。
「ほえ~。吸血鬼って、ナンパしたりするんですか?」
エリカが答える。
「そうよ。お腹が減ったらね」
「はい? お腹、ですか?」
「吸血鬼にとってナンパというのは食糧調達のことなの」
「………」
今度はすみれが黙り込む。
「朝熊香織さんの変死体が発見された部屋には若い男性が泊まっていたという話だった。料理自慢の旅館なのに、素泊まりで」
「いくら料理自慢でも、食べられないなら意味がない。吸血鬼になると普通の食事には興味がなくなる」
「逆に不審がられるんじゃないかね?」
と大全。
「旅館の人にはね。でも、ナンパされた相手は、そんなことは気にしない」
「それもそうか」
「そしてその吸血鬼は、ナンパした朝熊香織を部屋に連れ込んで、その夜に血を吸ったというわけか」
「夜じゃない。吸ったのは、明け方」
「明け方? それはさっきの、夏音が朝まではぶじだという話と関係があるのか?」
「おおいにあるわ。というのもね、吸血鬼は朝に血を吸うの」
「……それは、なぜだ?」
錠次は戸惑いの口調をにじませながらそう言った。吸血鬼といわれて思い描く情景は薄暗い闇だ。そこで若い女性の肩をつかみ、首筋に歯を立てる……。
朝に血を吸うというのは、従来の吸血鬼のイメージにそぐわなかった。どこか健康的な印象がつきまとう。たちの悪い冗談のようにも思えた。
大全も同じ印象を受けたのか、戸惑いがちに言う。
「あー、エリカさん。おれは年寄りだから、テレビの健康番組とか割と良く見るんだけどな。例えば、起きがけに常温の水を飲んだら身体が自然に目覚めるとか、朝に食べるフルーツは黄金の価値があるとか、まあそういった類いの話をよく見聞きする。それはそれで納得できるんだが……吸血鬼となると、そういうのはそぐわない気がするぜ」
すみれもそれに同意する。
「私もそう思います。吸血鬼が健康的なことをするって違和感」
孫の同意に大全はうれしそうに「だよな」と言った。
「それに吸血鬼ってやつは太陽の光を浴びたら灰になるんじゃなかったか?」
「なかには日光に弱い者もいるみたい。体質の変化でアレルギー反応を起こす。でも、そうでない者もいる。私がそうだし、私を襲った男もそう」
「……そういうもんか」
「ゼン君のお孫さん、名前、なんて言ったっけ?」
「え、あ。すみれです。冴場すみれと言います」
「そう、すみれちゃんね。可愛い名前」
「だろ?」
大全が得意げな声を出す。お前が名付けたわけじゃなかったはずだ、と錠次は思うが口には出さない。
「すみれちゃん。献血センターで生活習慣についてのレクチャー、受けなかった?」
「あ。それ受けました。栄養とか運動とか」
「早寝早起きとか?」
というエリカの言葉にすみれは黙り込む。
「………」
孫のその反応に大全が眉をひそめる。
「どうした、すみれ」
すみれは声を震わせながら言う。
「意味、分かった」
そして身体をひねって、後部座席のエリカを見ながら言う。
「そういうことだったんですね。いま分かりました。キモいし……怖すぎる」
「おいおい、どうしたんだよ」
大全が心配そうな声を出す。
「なるほど、そういうことか」
錠次もうなずいた。すみれのいまの反応で、エリカの言いたいことが分かった気がした。
「なんだよ、錠次までかよ! おれにも分かるように説明しろよ!」
拗ねたように声を荒げる大全にすみれが言う。
「じいじ、さっき言ってたじゃん。血液は食糧だって。吸血鬼にとって」
「お、おう」
「私たちが行っていた献血センターは、食糧を調達するところだったんだよ。そのためにお金を払って女の子を集めていたんだよ。それで、少しでも食糧を美味しくするために私達に健康になるように指導していたんだよ。健康な血液は健康な毎日からとか言いながら。ジャンクフードは食べてはいけない、甘いものはなるべく控えたほうがいい、栄養のバランスを考えなきゃダメ、運動もしっかり、遅くまで起きていると肌が衰える、とかそんなこと」
すみれは早口でまくしたてる。それに対して大全は気圧されたように答えた。
「まあ、間違ってはいないんだけどな」
すみれは大きく溜息をついた。
「でも、それは私たちの健康を考えてのことじゃなかった。健康な血を誰かに輸血するためでもなかった。あの献血センターの人たちにとって私たちは――」
「なんだ? 私たちは、どうした?」
すみれは苦いものでも口に含んだかのように顔をしかめて言った。
「家畜扱いされていたんだよ」
車内が静まり返り、やがて沈黙を埋めるようにカーナビの声が「次の信号を左折です」と告げた。大全がウィンカーを出して車線を変更する。
「話を戻すと」
エリカが口を開いた。
「人間は眠っている間に昼間の疲労を取り去ろうとするの。ゼン君も健康番組を見ているなら、成長ホルモンという言葉は知ってるでしょ?」
「成長ホルモン。えーと、身体を成長させるホルモンだよな」
知らないことが明らかな返答だった。
「子どもにとっては成長をうながすホルモンだけど、成人にとっては代謝を活発にして筋肉や皮膚や骨を良質に保つ働きをするホルモン。この成長ホルモンが分泌されるのが睡眠時。だから夜はちゃんと寝ないと、人は老化が加速する」
「早寝早起きがいいというのは、そういうことか。夜に身体が修復されて、朝はぴかぴかになって目覚めるということかい?」
「その理解で充分だわ。当然、血液もぴかぴかになる」
それを受けて錠次が言う。
「だから朝に血を吸うのか」
「朝熊香織さんがそうだった。……そして私も」
と、エリカが静かな口調で言う。
「私との最後の日、ジョー君は覚えている?」
「八月二十五日。四時台の急行列車だったな。あの列車はずいぶん前に廃止されたはずだ」
「昭和は遠くなりにけり」
「だな。夜行列車はほとんど消えているからな」
錠次は肩をすくめる思いで言う。列車の旅に特に思い入れがあるわけではなかったが、それでも長距離を移動する際には列車の方が何かとメリットが大きいとは思っていた。クルマに比べて事故の心配がいらない。歳を取ると、なおさらその思いが強くなる。
「K町温泉の駅に着いたのが五時前。そこから私はバスに乗るつもりだった。三十分ほど時間があったから、軽くそのへんを散策してみようと思った。地元の温泉は知ってるようで知らない場所だったから。土地鑑を養っておくのは、何かの役に立つかも知れないと思って」
「………」
雑多な知識はふとした折りに役立つことがある。錠次はかつてエリカにそんなことを言った気がする。もしかすると、エリカはその言葉を覚えていたのかも知れない。
「その散策の途中で私は吸血鬼と遭遇した」
4
温泉街の外れに急な石段を登る神社がある。
神社の存在は知っていたが、参拝をしたことはなかった。エリカは神仏には興味がなく、これがいつものことであれば前を素通りしたことだろう。しかし、この時は錠次との結婚を決めていた。そこでふと、神社にお参りをして無事に縁が結ばれますようにと祈ってみようと思ったのだ。
普段は不信心なのに、こういう時にだけ神頼みをしようという心がけが良くなかったのだろう……と、後にエリカは自虐的に苦笑をすることになる。
吸血鬼はこの神社にいた。
長く急な石段を登り切ったエリカは、そのまま境内をまっすぐに歩き、社殿の前に立った。
社殿はそこそこに立派で、扉はぴたりと閉じられていた。エリカは小銭を取り出し、それを賽銭箱にソッと入れた。鈴を鳴らし、パンパンと手を鳴らして、そのまま軽く頭を下げる。
錠次との縁談がうまく運びますようにと祈ったあと頭をあげると、扉の前に黒ずくめの服を着た若い男が立っていた。
「!」
男は弱々しい笑顔を浮かべながらエリカを見ている。
「……誰?」
エリカの問いに男は疲労のにじんだ声で答える。
「僕の名前は岩志木幻弥」
「そんなところで何をしてたの?」
「隠れていたんだ。変な奴らが追ってくるから」
「……あなた、何かしたの?」
エリカは気丈な性格だった。それはもともと備えていた性格ではなく、看護師としての仕事を通じて養われたものだ。日常的に血を見ていることもあるし、診療所に訪れる患者に粗暴な人間が少なからずいることにも関わりがある。メンタルは自然に鍛えられていた。
だから目の前のこの不審者に対しても怯えることなく強気な態度で臨むことができたのだった。
「何も悪いことはしていないよ」
岩志木と名乗った男は肩をすくめる。
「ただ、僕は生きようとしているだけだ」
「みんなそうよ」
「悪いことじゃないよね?」
「基本的には」
答えながらエリカは警戒心のこもった目で岩志木を見る。どこか常人らしくない雰囲気を彼は醸し出していた。そもそも神社の社殿に身を潜めていたことが常人の振るまいとは思えないのだが、もっと別な意味での不気味な雰囲気があった。
「理解してくれてうれしいよ。じゃ、君の血液をもらうね」
「え?」
「僕は吸血鬼なんだよ」
そう言った次の瞬間、岩志木は社殿の階段を蹴るようにして飛びかかってきた。エリカをつかもうとするが、その手をパンと払ってエリカは身を翻した。
「吸血鬼」という言葉に頭が混乱していたが、身をすくませることはなかった。これも看護師の仕事を通して身につけた習性と言っていい。
目を背けたくなるような重症を負って運ばれてきた患者に対して、実際に目を背けていいては看護師としての役割を果たすことはできない。感情を押し殺して身体を動かすしかないのだ。
エリカは石段に向かって走る。とにかく、このいかれた男から逃げなければ。
背後からタッタッタという軽やかな足音がして、ふと消えた。エリカは頭上に風圧を感じた。
次の瞬間には目の前に岩志木が立っていた。両手を広げて。
その胸に飛び込む恰好になったエリカだったが、瞬時に判断を下して――ここで速度を落とすと、つかまる――加速した。そして、頭から岩志木にぶつかっていった。
「おお⁉」
岩志木が驚いたような声を出す。まさかエリカが勢いをつけてぶつかってくるとは思わなかったようだ。
二人はもつれあうようにして転倒した。
素早く体勢を立て直して起き上がったエリカだったが、離れようとした足首を岩志木がつかんだ。
「このっ!」
咄嗟にエリカはもう一方の足を後ろに向けて蹴り放つ。
「ぎゃっ!」
岩志木が叫んだ。狙いを定めて蹴ったわけではなかったが、効果のある打撃にはなったようだ。足首をつかんでいた岩志木の手がゆるむ。
エリカは再び走り出した。
石段はもう目の前だ。急に駆け下りるとバランスを崩して転落する可能性がある。手すりにつかまりながら、なるべく速く駆け下りなければ。もし、可能なら、岩志木を石段から突き落とせればいいんだけど……。
エリカが石段の手すりをつかんだ瞬間、岩志木の腕が首にまわされた。ぐい、と岩志木の胸に引き寄せられる。耳元で岩志木がささやいた。
「すごいね、君は。こんな風にきちんと抵抗をする女性に出会ったのは初めてだよ」
「放しなさい」
「これまでの女性はすべて大きな声をあげるだけで逃げようとはしなかった。抵抗をしたとしても意味なくもがいたり全然ダメージのない攻撃をするだけだった。その点、君は」
エリカは反動をつけて後頭部で岩志木に頭痛をくらわす。一瞬だけ手が緩んだが、すぐにまた力がこめられる。岩志木は「ふふ」と笑ったあとに言った。
「さぞかし、栄養もたっぷりなんだろうな、君の血液は」
そしてエリカの首筋に食らいついた。血がほとばしる。
激痛が全身を貫いた。
この男、本当に血を吸っている。本物の吸血鬼なのか、それともなんらかの疾患を抱えているのか。確か「吸血鬼病」と言われる病気が……。
意識が薄れゆくなかでエリカはそんなことを考えていた。そのうち過去の情景が次々に現れ出す。「ああ、これが走馬灯ってやつね」と、そう思った瞬間に錠次の姿が浮かび上がる。
彼ならこういう時、最後まであきらめることはないだろう。過去の情景を見ながら失われゆく生を惜しむこともない。必死で抵抗するはずだ。
でも、どうすれば?
痛みは遠のいていたが、それは死が近づいているからだろうとエリカは思った。
だったら。
石段から転がり落ちても、痛みは感じないかも知れない。十中八九、全身を骨折して重傷を負うだろうが――いや、それ以上の確率で死んでしまうだろうが、せめてこの頭のおかしな男を道連れにしてやる。これ以上の被害者を出さないためにも。
エリカはそう思い、岩志木の腕をつかんで石段から宙へと足を踏み出した。
「な!」
岩志木が声を発する。
驚いた? この腕は離してあげないから。
不敵に笑った。
次の瞬間、エリカと岩志木は急な長い石段を転げ落ちていった。
激しい衝撃が、エリカの全身を包み込む。
5
目が覚めたとき、エリカが真っ先に気づいたのは、自分が全裸だということだった。
ベッドの上に、毛布をかけられることもなく、剥き出しの裸体で横たわっていた。
ベッドは硬く、シーツはさらりと乾いていた。それでいて肌寒さを感じないのは、室内の温度が適切に管理されているからだろう。
エリカがいる場所は、一方がガラス張りの壁になっている集中治療室だった。白い壁と天井。室内のあちこちに生体情報モニタや心電計、脳波計、パルスオキシメータなどの機器がある。自身が勤めているクリニックの設備よりずっと高価な機器であることが一目で分かった。ベッド脇には点滴装置も置かれていたが、使われてはいなかった。
ガラス張りの壁の向こうには白衣姿の男が三名いた。彼らは無表情にエリカを見つめている。白髪まじりの初老の男と、彼よりもう少し若い男が二人。彼らの視線を無視してエリカは自身の身体をチェックしていく。
腕、足、胴、背中。外傷は見当たらず、内出血もないようだ。
ゆっくりと手足を動かしてみたが痛みは走らなかった。
おそるおそる首筋に手をあてる。なめらかな感触が手に伝わってきた。次に顔に手をあてるが、やはり違和感はない。
「お目覚めのようですね、工藤エリカさん」
天井のスピーカーから声が流れてきた。初老の男がスタンドマイクに顔を寄せていた。エリカは片手をあげて応えるだけにとどめ、衣服を探す。
点滴装置とは反対側のベッドの足もとに籐かごがあり、きれいに折り畳まれた患者着が入っていた。手に取り、袖を通す。絹製なのかと思えるほど肌ざわりが良かった。素肌を覆ったあと、エリカはガラスの向こうの男たちに話しかける。
「今日は何月何日?」
「八月二十六日です」
「西暦は?」
「一九**年」
「なるほど」
エリカはベッドに腰をおろす。力が抜けてつい座ってしまったのだが、できるだけ動揺は表に出さないようにした。
胸には絶望感が広がっている。これから自分の身の上に起きることは容易に推測できた。その推測は絶望感以外のなにものも生み出さなかった。
絶望感の根拠は、身体の状態に異状がないことだ。それはつまり、異常事態であることを意味する。
「工藤エリカさん、いまは突然のことでいろいろと困惑されていると思います。そのことに関して若干の説明をさせていただきたいのですが」
「その前に、確認しておきたいことがあるの。いいかしら?」
エリカの言葉に白衣姿の男たちは顔を見合わせたが、やがて初老の男が言った。
「……どうぞ」
「私には結婚を約束した人がいる。その人に会える?」
「……残念ながら」
そう言った男は、ガラス張りの壁の向こうで申し訳なさそうに首を振る。エリカは自分の首筋に手をやり、小さく溜息をついたあと言った。
「もう一つ、質問。私は生体実験の対象になるの?」
その言葉に白衣の三人があからさまにたじろぐのが分かった。マイクがオフになる短い音がスピーカーから流れ、男たちが話し合っている様子がエリカの瞳に映る。どうやらエリカの質問は的を射ていたようだ。
エリカは腕に爪を立ててみる。軽い痛みが走る。おそらくあの白衣姿の男たちは、この数万倍もの痛みを与えてくるのだろう。
話し合いがまとまったのか、初老の男がマイクに顔を近づけて言った。
「なぜ、そのような質問をされるのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
「神社で会った岩志木という男のことを覚えているから。彼の言ったこと、したこと、私のしたこと」
「すみません。具体的に教えていただけますか?」
「彼は自分のことを吸血鬼と言った。私の頭の上を飛び越えた。血を吸った。これが彼の言ったこととしたこと」
「あなたがしたこととは?」
「彼を道連れにして神社の石段から転がり落ちた」
「なんですって! あれは故意だったんですか? 事故ではなく?」
その質問内容から考えて、ある程度の経緯は把握しているようだ。
「そうよ。彼が本当に吸血鬼かどうかはともかくとして、そのままにしておくとまた他の人を襲うでしょ? それ以上の犠牲者を出さないために彼にも痛い目に合ってもらおうと思ったの」
「………」
無表情だった男たちの顔が少し和らぐのをエリカは認めた。彼らは警察の関係者なのだろうか……。
「とにかく、私は首に噛みつかれて血を吸われた。長い石段を転落した。生きていられるはずがないし、生きていたとしても無傷のはずがない。だけど、この身体には傷一つついていないし痛みもない。いたって健康。なぜ?」
エリカは両腕を広げて首を傾げる。その拍子に患者着の合わせ目から乳房のふくらみが見えたらしく、男たちは目をそらす。なにをいまさら、と笑いそうになったが、しかし、いい徴候だとも思う。生体実験の対象としてではなく、人間として見るようになったと言えるからだ。
「それでいて、日にちは一日しかたっていない。そこから考えられることは、私が吸血鬼になったということ。そしていま、病院のような場所にいることから考えて、吸血鬼になりたての人間として研究材料の対象になっているらしいことが推測できる」
「最初に日付を確認したのは、それを考えていたからですか?」
「まさか。真っ先に考えたのは婚約者のこと。もしかすると長期間昏睡していたのかと思ったから。心配させるのがイヤだったの。逆に日付を聞いて自分が異常な状態にあるって分かったのよ」
「なるほど」
初老の男はうなずき、再びマイクをオフにする。そして三者協議。やがてまたマイクに向き直る。
「工藤エリカさん、次の質問には気を悪くされると思いますが、どうかご容赦ください」
「なんなりと」
「いまのお話であなたが聡明な方だということが分かりました。その頭の回転の速さは以前からのものですか、それとも……」
言いよどむ男の顔に思わずエリカは声を上げて笑う。
「大丈夫、そんなことで気を悪くしないわ。みなさんが言いたいのは、吸血鬼化した影響で、そんなに頭がまわるようになったのかどうかってことでしょ?」
「……おっしゃる通りです」
「自分では分からない。ただ、私自身は変わったという自覚はない。以前から気を回しすぎる性格だったとは言える」
状況を冷静に判断して推測をするという姿勢は錠次の影響も大きかったが、それは口には出さなかった。
その後、いくつかのやりとりが交わされて、最後に初老の男が言った。
「工藤エリカさん、あなたを生体実験の対象にすることはありません。ご安心ください。ただ、本当に申し訳ないのですが、こうした事情なので、あなたを元の生活に戻すわけにはまいりません」
「……誰にも言わないと誓うけど」
「それでも」
初老の男は申し訳なさそうに、しかしキッパリと言った。
「そう……」
エリカは目を閉じる。いろんな思いが胸をよぎったが、もちろん口にすることはない。泣き叫ぶことも声を荒げることもしたくなかった。
手のひらにふと痛みを感じたので広げてみると、血がうっすらとにじんでいた。その傷は見ているうちに消えてなくなる。血を拭うと、そこにはなめらかな手のひらがあるだけだ。
「工藤さん」
初老の男が言った。
「なにかしら」
「その代わりと言ってはなんですが、あなたには新しい身分を提供いたします」
「新しい身分?」
「国家公務員としての身分です。あなたの一生を保障します」
6
「国が絡んでやがるのか!」
エリカがそこまで話すと、大全が唸った。エンジン音が大きくなり、車体がガクンと揺れる。錠次は落ち着いた口調で尋ねた。
「それは特殊な機関なのか。たとえば、吸血鬼狩りを目的とするような」
「そうね。そう思ってもらうのがいい」
「おいおい、なんだか含みのある言い方じゃないか、エリカさん。ひょっとして、これ以上のことを知ると消されるってやつかい?」
「え、マジ⁉」
大全の言葉にすみれが怯えた声を出す。
「まさか、国がそんなことするわけない。ゼン君、ドラマの見過ぎよ」
「いやでもさ、国家的なインボーってやつじゃないのか?」
「違うわよ。知ってもどうにもならないってだけ。それに、私が所属する組織の存在はなるべく表に出したくないの」
「もし、いまのエリカさんの話を誰かに言ったら、どうなるんですか?」
「どうにもならない。できれば控えておいてもらいたいけど、口外したとしても誰も信じないでしょ、こんなバカげた話。違う?」
「それもそうですね」
確かにそうだ、と錠次も思う。いまのこの状況だからエリカの話を受け入れることができるが、そうでなければあまりに荒唐無稽すぎて苦笑まじりに聞き流していただろう。
「もう一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「どうしてエリカさんだけが吸血鬼になったんですか? ナンパされた女の人は亡くなったのに」
「朝熊香織さんは全身の血を吸い取られた。私はわずかだった。その際にウィルスが体内に侵入した。もしすべての血を失っていたら、ウィルスの作用を受ける間もなく死んでいた。そういうことよ」
「そっか。そういう仕組みなんですね」
エリカが錠次を見る。
「この話をしたのは、私自身の個人的な感傷もある。四十年前、黙って姿を消したことを謝りたかった。再会できるとは思わなかったけど、こうして会ったのだから、事情を説明しておくべきだと思った。でもそれ以上に、これは国が絡んでいることだから、私たちに任せてほしいという意味もある」
「事情は分かった。話してくれてありがとう。もちろん謝る必要はない」
「そう言ってくれると思った」
「ただ、国のことはどうでもいい。夏音はおれが守るよ」
「そう言うとも思った」
エリカは吐息をつく。
「夏音が献血をするようになったのは、おれのためなんだよ。安心できる施設におれが入れるようにお金を貯めていたそうだ」
「……そう。分かった。でも無理はしないで」
「無理がきく歳でもないさ」
そのあとエリカは岩志木に関して補足的な説明をする。
岩志木が「組織」から確保されることになったのは、朝熊香織の事件を起こしたからだった。それによって吸血鬼の捕獲部隊がK町に送り込まれ、一帯を捜索していたのである。何度かつかまりそうになりながらも岩志木はそのたびに逃れ、神社の社に身を潜めた。そして空腹を覚えているときに現れたのがエリカだったというわけである。
エリカとともに組織の研究所に運び込まれた岩志木は、その後四十年近く拘束されていた。当初は組織の研究部門の者たちから生体実験の対象として扱われており、岩志木も協力的だったのだが(実験には多少の苦痛はともなうものの、自身の生体の仕組みに対する関心がそれを耐えさせたらしい)、やがてその役目を放棄した。
彼は与えられる食事に不満を覚え、協力を拒否したのだ。
岩志木の食事とは「血液」だ。彼はそれを人間から直接摂取することを求めた。しかしそんなことが許されるはずもなく、研究者たちが与えたのは輸血用の血液だった。吸血鬼にとってそれは、一流の寿司職人が出す握り立ての寿司と常温で放置していたスーパーのパック寿司くらいの違いがあるらしい。うんざりした岩志木はハンガーストライキに入り、活動を停止した。
吸血鬼は不老不死なので食糧をとらなくても死ぬことはない。全身の活動を最低限に抑ることで冬眠のような状態になり、そのまま時を過ごす。岩志木は動きを止めることで抗議の意を示したのだった。
いっそのこと、岩志木を殺処分したほうがいいのではないかとの意見もあがったが、吸血鬼という貴重な存在を失うことに抵抗を覚える研究者のほうが多かった。吸血鬼を世に放てば百害あって一利なしだが、管理下に置いている限りは、有用な生体となる。
実は不死者を殺す方法はいくつも検討され、それを試すことに関心をもつ者も少なくはなかった。しかし結局のところ岩志木は「長期保存」されることになった。棺の中に収められ、地下の一室に運び込まれたあと、外側から厳重にロックがなされた。
そして、そのまま放置された。彼の存在を知る者は次第に少なくなり(関係した研究者たちはみんな定年退職していった)、岩志木に会ったことのある者はエリカ以外にはいなくなっていた。そのエリカもたまに思い出すくらいだった。岩志木が長期保存されていると聞いていたので心配はなかった。
岩志木の存在を再発見したのは、一人のハッカーだった。彼は国のシステムにこっそりと侵入し、そして「組織」のデータベースに行き当たった。そこで岩志木に関する研究資料をたまたま見つけたのだった。彼がその情報をブラックマーケットに売り出すと、買い手が現れた。買い手は明らかにはなっていないが、一カ月後、岩志木は地下の部屋から姿を消したのだった。
岩志木が納まっていた棺には干からびた若い女性の死体が入っていた。廊下にただよってきた腐臭によって、ようやく岩志木の逃亡に気づいたという有り様だった。
すぐに監視カメラがチェックされ、清掃員のふりをした男女二名が岩志木のいた部屋に侵入したことが分かった。ロックが簡単に解錠されたことも画像で確認された。四十年前のセキュリティなので鍵はかかっていないも同然だったようだ。
若い女は食糧として連れてこられたと推測された。おそらく本人に自覚はなかっただろうが……。もう一人の清掃員は男だった。男と岩志木は清掃員の姿で研究所を出て行った。その後の行方は杳として知れない。
岩志木の再確保のために「組織」は動き出した。チームが結成され、リーダーに任命されたのがエリカだ。
エリカたちは若い女性が変死体で見つかった事件の有無から調べ始めた。調査を進めるなかで家出をする少女たちが増えている事実が視野に入ってきた。家庭環境に問題のある少女たちが大半で、岩志木との関連性は低いと思われたが、さらに調査を進めるうちに少女専門の献血センターがあることを知った。「はるかぜ献血センター」という名称のその施設は日本赤十字社による運営ではなく、少女たちに金を払って血液を集めていることも分かった。
怪しいとしか言いようがなかったが、それでも岩志木との関連性が確認できない限りは手を出すことはできなかった。摘発することは可能であるものの、それはエリカたちの仕事ではない。むしろ、摘発することで、もしかすると存在するかも知れない岩志木とのつながりが断たれる可能性も考えられた。そのため、エリカたちははるかぜ献血センターを監視下に置いたのだった。
はるかぜ献血センターは関東地方の複数の都市にあり、半年程度で閉鎖し、別のまちに開設するといったことを繰り返していた。同じ地域で運営し続けることに警戒しているようだった。
そして一か月半ほど前にJ市に新たなセンターが開設した。
J市はかつてエリカが住んでいた街だ。その懐かしさもあり、つい現場の調査役を買って出た。錠次と遭遇する可能性を考えなかったわけではないが、四十年の歳月が油断を招いた。当時と容姿が変わっていないエリカを見て、まさか本人とは思わないだろう。
だが、そうではなかった。
錠次や大全を巻き込むことは本意ではなかったが、こうなってしまったからには仕方がない。錠次の孫が危険にさらされているとあってはなおさらだった。そしていまに至るというわけである。
別の方向から考えれば、夏音がさらわれたことがきっかけではるかぜ献血センターの正体を暴くことができる。摘発するには充分な証拠も入手しているし、それ以前に保護者の許可なく未成年である夏音を医療機関に搬送している。誘拐事件とすることもできるだろう。その意味では錠次たちが事件解決の立役者と言ってもいい。
エリカがそれを口にすると錠次は首を振る。
「君が姿を現してくれたからだ」
「そうかしら。あなたたちだけでも辿り着けたと思うけど」
「いずれにせよ、本番はこれからだ」
「もうすぐ着くぜ!」
大全が鼻息を荒くして告げた。