第2章 囚われの夏音
1
K町の温泉地には大全のクルマで行くことにした。
「大丈夫か。おれは運転するつもりはないぞ」
という錠次の言葉に、大全は「おれを誰だと思ってる!」と自信満々の顔で答える。
「誰って、お前は大全だろ」
「いやまあ、そうなんだけどな」
「大全、高齢者の事故が増えているのを知らないのか?」
「そんなの、おれたちよりもっと年寄りの話だろうが」
「お前も自分で言うほど若くないんだぞ」
「ふん。いいから乗れ」
錠次は助手席に乗り、夏音とすみれが後部座席に落ち着いた。大全としては助手席にはすみれに乗って欲しかったようだが、本人が拒否したのだから仕方がない。
温泉地に着くまでの車中はほとんど夏音とすみれのお喋りで満たされていた。錠次も大全も口を挟まず、孫たちの会話に耳を傾けていた。もっとも大全は何度か会話に加わろうとしたものの、そのたびにすみれから生返事をくらわされ、しまいにはあきらめてしまったのだが。
孫たちの話の内容は祖父たちには理解できなかった。しかし楽しげに話している声を聞くだけで幸せな気持ちになるのだった。
予約をしていた旅館に着いたのは夕刻だった。エリカの実家を訪ねるには微妙な時間だ。
「急ぐこともない。明日にしようぜ」
大全の一言で一行は部屋でくつろぐことにした。
ここで部屋割りに関して一悶着があった。大全は二部屋を予約していたのだが、当然、冴場家と鷹架家でそれぞれ一室ずつを使うつもりだった。
ところが、すみれが異を唱えた。
「私、夏音と同じ部屋がいい」
「え、おい、すみれ。なに言ってんだ、そんなのおかしいだろ?」
うろたえる大全に夏音も味方をしたが、すみれは「だって夏音と泊まるなんて滅多にないし」と言い張った。
しばし押し問答が続き、やがて錠次が大全の肩を叩く。
「大全、あきらめろ」
「バカヤロウ。あきらめるとかあきらめないの話かよ!」
「宿の人も困ってる」
錠次に言われて大全が目をやると、部屋へ案内しようと待っている仲居がぎこちない笑顔を返した。
「あーもう。分かったよ!」
部屋に通されたあとも大全はぶつくさと言っていた。
「大全、いつまでぼやいてるんだ」
「うるせーな。なんでオレがお前と一緒の部屋なんだよ、まったく」
「昔はよく雑魚寝をしたじゃないか」
「思い出したくもねーや」
錠次は肩をすくめ、浴衣に着替えようと押し入れを開く。奥に将棋盤があるのを見つけて取り出した。
「大全、どうだ。久しぶりに」
すると大全は「お」とうれしそうな顔になる。
「いいのかよ、錠次。お前、おれに勝ったことは一度もないんだぜ」
「負けても悔しいと思わないからな」
「ほざいてろ」
二人は将棋盤を挟んで向かい合った。
二十年ぶりくらいか、と錠次は駒を動かしながら思った。大全が出世して現場から離れたとき、たまに署に顔を出すと将棋に誘われたものだった。実力の差が大きく、いつも負かされていたが。
パチリパチリと駒を進めていき、やがて錠次が飛車を置いて「王手だ」と言った。
「………」
大全は無言で盤面を睨んでいる。
なんの反応も示さないことに錠次は不審を覚え、改めて自分の置いた駒を見る。
なにもおかしなところはないと思ったが、やがて気づいた。
相手の王将の斜めの筋から飛車で王手をかけていた。
「ここまでにしよう。お前の勝ちだ、大全」
「相変わらずのへぼ将棋だな、お前は」
大全はぼそりとした口調で、それだけを言った。
2
食事の時間が来て、四人は広間へと足を運んだ。
「わあ、すごい!」
「美味しそうだね」
座卓の上に並んだ料理を見てすみれと夏音が歓声をあげる。
二人のうれしそうな表情に大全が「どうだ、奮発して良かっただろう」と胸をそらして言い、錠次は「お前にしては上出来だ」と返した。予約を取るときに料理をグレードアップしたのだ。
四人は食事を始める。ときおり仲居が新しい料理を持ってきたり、追加の飲み物を運んで来たりする。「あら、お孫さんとご旅行ですか? 仲がおよろしいんですね」と言われ、大全は相好を崩していた。
「ところですみれちゃん、献血しているんだって?」
錠次が言うと大全がギョロリと目を剝く。
「え、そうなのか? おれは聞いてなかったぞ。て言うか、なんでお前が知ってるんだよ!」
「この前聞いたんだよ、夏音から」
「すみれ、そうなのか?」
「献血のこと? そうだよ、してる。でも夏音もしてるよ」
「ほう」今度は錠次が驚く番だった。「そうだったのか?」
「うん。実はそうなんだ。ちょっと照れくさくて、この前は言わなかったけど」
「照れるようなことじゃないがな」
「それでも」
やりとりを聞いていた大全が銚子を傾けながら言う。
「ま、照れるのも無理はないだろ」
「どうして?」
「なにしろ立派な行為だしな」と大全が首を傾げるすみれにうなずきかける。「献血で命を救われる人間はたくさんいる。例えば、そこにいる老いぼれとかな」
「え?」
「そうなの、おじいちゃん?」
「そうだな。そういうこともあった」
錠次が刺身に箸をのばしながら答える。
「輸血するって……よっぽどの怪我じゃなかったの? あ、もしかしてエリカさんの病院のとき?」
「ま、そうだな」
「もしあのとき輸血が間に合わなかったら、夏音ちゃんも生まれてこなかったんだぜ」
「ふわあ」
夏音が奇妙な声を出す。
「こいつが杖をつくようになったのは、年取ってからそんときの古傷が疼くようになったからなんだぜ」
「杖じゃない。ステッキと言え」
「どう違うんだよ」
「杖は介護用品だろ」
「だったら合ってんじゃねーか」
子どもの言い合いのようなやりとりを止めようとしたのか、すみれが割り込む。
「じいじは、そういうことはなかったの?」
「おう。じいじはほら、強いからな」
「出た、おれツエー大会。それ、いいから」
ジト目で見られ、大全はしょぼんとした顔をする。それを横目に錠次が夏音に言う。
「おじいちゃんも献血がしたいんだが、させてもらえない」
「どうして?」
「輸血を受けた人間は献血ができないんだ」
「え、そうなの?」
「そういう決まりらしい」
十年近く前、遠い海辺の地方で大きな地震が起き、輸血用の血液が深刻なまでに不足したことがある。そのニュースを聞いた錠次は市役所に定期的に来ている献血バスへと足を運んだ。せめてもの恩返しと思ってのことだったが、そこで係の者から「輸血の経験者は献血ができないんですよ」と申し訳なさそうに告げられたのだった。
「献血がダメなら寄附でもしていくかと思ってな。市役所のなかにある募金箱に寄附をして帰って来た」
「へえ、錠次さん、偉いですね」
すみれが感心した声をあげる。
「帰り際にまた献血バスのそばを通ったら、ちょうど中に入ろうとしている奴がいたんだよ。そこの老いぼれだけどね」
「え、なに⁉︎ お前、あのときいたのか?」
「まあな」
「すみれのじいじも偉いじゃない」
夏音が言うと、すみれは軽く肩をすくめる。
「でもさっき、献血が立派な行為って言ったよね。あれって自画自賛じゃん」
「きびしーなー。とほほ」
大全が再びしょぼんとうなだれる。構うことなくすみれが夏音に顔を向けた。
「次の献血って何日頃だっけ?」
「えーと」と夏音はスマートフォンのカレンダーアプリをチェックする。「あと三日だね。三日過ぎたら大丈夫」
「どういうことだい?」
「ほら、この前お買い物したでしょ? そのとき献血したんだよ。献血って一回したら二週間待たないと次のができないの」
「ほう」
「その間に血を造るってことだな。よし、すみれ。じいじのお肉をやろう。いっぱい食べなさい」
大全がステーキ肉を箸でつかんですみれの皿にのせようとすると
「マジでキモいからやめて!」
すみれは皿を手で押さえる。大全はしょげかえる。
3
露天風呂。
夏音とすみれが並んで湯につかっている。
二人は健康的な肌を隠そうともせず、思い思いにくつろいでいた。
「大全さん、しょぼんとしていたじゃない。もう少し言い方考えてあげればいいのに」
「だって箸をつけたお肉なんて絶対無理じゃん」
「でも私、すみれはもう少し優しくしてあげたほうがいいと思うよ」
すみれはくるりと身体を反転させて足を伸ばす。引き締まったお尻がぷかりと湯の上に浮いた。
「いやまあ、私も分かってんだけどさ。でも、じいじってうるさいんだもん。フツーにうざいし」
「責任感があるからだよ」
「まあ、そうなんだろうけど……」
夏音がひょいと腰をあげて風呂のふちに座り、足だけ湯につける。すみれはザバッと身を起こして、その横に並んだ。
「私もさー、感謝はしてるんだよ。口うるさい理由も分かるしさ。でもうざいもんはうざいんだよねー」
「感謝はしてるんだ」
「だって、そうじゃん」
と拗ねたような口調ですみれが言う。
「それを言ってあげるだけで大全さん、喜ぶのに」
「いや、言わねーし」
すみれの両親は海外で暮らしている。商社勤めの父親が二年前に海外赴任を命じられたのだ。生活能力に乏しい父親を心配して母親は一緒に行くことにしたが、あやめとすみれの姉妹は「行きたくない」と拒絶をした。
当時すみれは中学二年生。翌年は受験生となる。ここで海外に行ってしまえば向こうの高校に入学することになるだろう。それは避けたかった。なんとなく怖い……というのが、その理由だ。
一方のあやめは高校三年生。大学受験を控えていることもあり、やはり海外移住には難色を示した。住み慣れた日本を離れたくないという思いもあったようだ。
未成年の姉妹を残していくことに不安はあったが、もともと冴場家には大全も同居していた。というよりも、高台ニュータウンに家を買うとき、ローンの頭金は大全の退職金から出されていた。二世帯住宅として購入したのだったが、入居して数年後、大全の妻は亡くなっている。
そういう経緯もあり、姉妹の保護者役は自然に大全が担うことになった。
大全としては大切な孫を預かったわけだから保護者として守らねばならないという責任感があった。もともと警察官だったこともあり、使命感は頑固なまでに強い。
ただ、孫たちにとってはひたすら鬱陶しいものでしかなかった。「口うるさいじいじ」というのが姉妹の祖父に対する評価である。感謝すべきことだとは分かっているが、うるさいものはうるさい。うざいものはうざいのだ。
大学生になったあやめは行動範囲と交友関係が広がり、ほとんど家にいない。いきおい、大全の使命感の矛先ははすみれに集中するのだった。
同じ頃、錠次と大全はサウナで我慢比べをしていた。
「おい、大全。そろそろ負けを認めろ」
「なに言ってやがる! おれなんてぜんぜん余裕だぜ」
「年寄りだから体温の変化が分からないんだ」
「うるせーな。だったらお前もそうじゃねーか!」
全身から汗をだらだらと流しながら錠次を睨みつける。錠次はその目を見返して笑う。
「お前、目が濁ってるぞ」
「黙れ!」
「分かったよ。またもやおれの負けだな。先に出てる」
錠次はサウナルームを出た。少し足がふらついた。かけ湯をしたあと、水風呂にゆったりと身体を沈めていると、じきに大全が出て来て、ざぶんと水風呂に飛び込んだ。
「子どもか、お前は。心臓麻痺で死ぬぞ」
「ふん。おれを誰だと思ってる」
「サウナのマナーも知らないバカだろう」
「誰がバカだ!」
「お前だよ、大全」
翌朝。
夏音とすみれは浴衣姿で温泉街を散策していた。
朝食前に軽くぶらぶらしてくると言うと、大全がついてきたそうな顔をした。しかしすみれが「二人で行ってくるから」と手で制すると、肩を落として見送っていた。
温泉街の通りにはお土産物屋や飲食店などが並んでいたが、早朝ということもあってほとんどがまだ開店していない。コンビニと温泉饅頭屋が開いているくらいだ。
しばらくいると小さな広場があり、そこで露天市が開催されていた。何組かの浴衣姿の温泉客が足を止めて物色している。
「見てみよっか」
「うん」
広場にはゴザがあちこちに敷かれ、その上に野菜や果物が並べられていた。キュウリ、ナス、トマト、ピーマン、キャベツ、スイカ、メロン、モモ、イチジク……夏の野菜や果物ばかりだ。
野良着姿のおばさんたちが温泉客の相手をしている。「露地物みたいね」と近くにいた中年女性が野菜を手にしながら言った。いずれも形は不揃いだが、いかにも栄養がたっぷり詰まっていそうなツヤをしていた。
「美味しそうだねー」
夏音がトマトの山を見ながらうれしそうな顔をする。
「夏音、トマト好きだもんね。買ってったら?」
すると、野良着姿の売り手のおばさんが「食べてみ」とトマトの山に手をのばして実をつかんだ。かたわらにあったナイフですぱりと二つに切って二人に渡す。一口かじった夏音とすみれは「おいしい!」「うんま!」と目を丸くする。
「これもう野菜じゃないよね⁉ 果物じゃん!」
「ほんと、そうだね」
「ここらはトマトが名産なんよ」
おばさんがドヤ顔で言う。
「これはいい献血ができそうだわ」
すみれが言う。
「あはは。そうかもね」
夏音が笑って、おばさんに「これ、下さい」とザルに盛られているトマトを一山買った。
4
「わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
人の良さそうな笑みを浮かべながら工藤耕太は四人に頭を下げた。エリカの実弟であり、現在は工藤家の当主となっている彼もまた老人だ。前もって連絡を入れることもせず、いきなり工藤家を訪れた一行を耕太はイヤな顔ひとつせず迎え、居間に通してくれた。
「孫たちと温泉に来たもんでね。それでふとエリカさんのことを思い出して、迷惑だと思ったが、ちょっと寄らせてもらったんだ」
大全がしれっと嘘をつく。その言葉を疑おうともせず、耕太は目を細める。
「そうですか。エリカのことを覚えていて下さったんですなあ」
「エリカさんはその後?」
「あのまんまです。生きているのやら死んでしまったのやら」
耕太は隣室の仏間に目をやる。開け放たれた襖の向こうには重厚な仏壇があり、数本の位牌が並んでいた。
顔を戻した耕太は改めて錠次に頭を下げる。
「鷹架さんにはすっかりご迷惑をおかけして」
錠次はそれを手で制する。
「耕太さんたちのほうが大変だったはずだ。お父上とお母上は……?」
「親父は十年前に、おふくろは三年前に」
「そうか……」
「おふくろは死ぬまでエリカのことを気にしていましてね。だからでしょう、亡くなる前に幻覚を見たほどです」
「幻覚⁉」
その言葉に四人がいっせいに反応する。耕太は少し驚いたようだったが、話を続ける。
「がんで入院していたんですが、ふと気配を感じて目を覚ましたら、昔のまんまのエリカがいたって言うんですよ。亡くなる数日前のことです」
「ほう」
「会話とかはしたのかい?」
「特には」と首を振る。「ただ、手を握って、ありがとうごめんねと言ったそうです。そのあとおふくろは眠ってしまったようで」
「ふーん」
「薬の副作用かなにかでしょうね。歳も歳でしたし。それでも、おふくろにしてみたらうれしかったと思います」
「……そうだろうな」
小さな沈黙がおりたあと、夏音が言った。
「お父さんのときはどうだったんですか?」
「ん?」
「十年前にお亡くなりになったとき、やっぱりエリカさんの姿を見たんでしょうか?」
「ああ、それはないですね、交通事故でそのままでしたから。走馬灯では見たかもしれませんが」
「交通事故」
「そうなんです」
だとしたら、駆けつけるヒマもなかっただろう……と夏音は思った。
バカげた想像かも知れないが、病床の母親を訪ねたのは幻覚ではなく本人だったのではないかと考えたのだ。もしそうなら、父親の臨終にも駆けつけていたはず、と思っての質問だったが、交通事故ではあらかじめ知るよしもない。
「本当になにがあったのやら」
耕太が言ったとき、廊下側の襖が開き、年老いた女性がお盆を持って入ってきた。
「妻の則子です」
「ようこそおいでくださいました」
則子は座卓の上にお盆を置き、それぞれの前にお茶を出す。
「エリカのことで来て下さったんだ」
「ああ、エリカ義姉さん」と則子はうなずいた。「もう四十年以上ですねえ」
「則子さんはエリカさんと面識はあったんだよな。当時はもう耕太さんと結婚していたっけ?」
「結婚して半年ほどたった頃ですね」
答えたあと、則子は大全の顔を見て目を少し見開いた。
「ああ、あのときの刑事さん」
「いまはもう隠居だけどな」
「じいじに会ったことがあるんですか⁉」
すみれが声をあげる。「祖父と言いいなさい、祖父と」と大全が小声で注意する。則子はクスリと笑ってうなずいた。
「何度かおいでになりました。仕事がお休みのとき、エリカ義姉さんのことをお調べになっていて」
「お前、そんなことしてたのか」
錠次が呆れた顔をする。
「いや、まあな」
目元をガリガリ掻きながら大全が言った。
「じいじもエリカさんが好きだったの?」
すみれがからかうように言うと、大全が顔を赤くして吠える。
「そんなわけあるかっ! そんときはじいじはもうばあばと結婚してたぞ」
「あー。だったら錠次さんのために? へ~~~」
すみれはさらに笑顔を広げる。
「かか勘違いするんじゃないぞ、すみれ。じいじはな」
「うわ、ツンデレ。きも!」
「すみれ、言い方」
夏音がたしなめる。
そのやりとりで、しんみりしかけていた空気が和やかなものになった。
それでいい、と錠次は思う。もう四十年前のことだ。
「いまさらだけど、なにか手がかりはなかったのかね」
大全にしてみれば照れ隠しのなにげない一言だったが、その問いは意外な答を引き出した。
「そう言えば、あれから何年もたったあと奇妙な噂が流れたことがありました」
則子が口元に手を添えて遠い目をする。
「奇妙な噂?」
「はい」
かつて、とある旅館で若い女性の変死体が発見されたという噂だった。殺人事件の可能性が高いにも関わらず、一切表沙汰にならなかった点が奇妙だという。
旅館には若い男が泊まっていた。料理自慢の宿だったが、男性客は素泊まりだったらしい。
彼は温泉街で知り合ったらしい若い女性を連れて部屋に戻った。旅館の者は見て見ない振りをした。一夜限りの遊び。時間がたてば夜中にこっそり帰っていく。温泉街では珍しくもないことだった。
翌朝、男がチェックアウトの時間になっても現れないので仲居が様子を見に行ってみると、布団の上に変死体が転がっていた。若い女性の死体だ。男は姿を消していた。
すぐに警察が呼ばれ、警察官たちが現場を調べ始めた。そうこうするうちに新しい捜査班がやって来て、先に来ていた警察官たちに交代するように命じた。その際に押し問答があったが、結局はあとから来た捜査班が現場を仕切ることになった。
やがて死体は運び出され、捜査班の責任者が旅館の主人に今回の件は口外しないようにと言い含めた。第一発見者の仲居も釘を刺されたらしい。
旅館側としては館内で殺人事件が起きたことは大きな痛手だ。警察が黙っていてくれるなら文句はない。主人は申し出を受け入れ、そこで事件は終わった。テレビにも新聞にも取り上げられることはなかった。事件は存在自体が封印された。
であるにも関わらず事件が噂として浮上したのは、数年たって当の旅館が廃業したことがきっかけだった。自棄になった旅館の主人が居酒屋で愚痴ったことで、かつての事件が明るみに出た。とは言え、その話もすぐに忘れられていったのだが、則子は覚えていた。エリカが行方不明になったことが影響していたのだろう。
旅館で死体として見つかった女性がエリカではないことは明らかだった。エリカがいなくなる前に起きた事件だったからだ。
「変死体って言ったけど、具体的にどんな殺され方をしていたんだい?」
「小さく縮んでいたそうなんですよ」
「縮んでいた? どういうことだ?」
「縮んで干からびていたと言いますか。全身の血が抜き取られていたという話です」
「………」
その後、四人はエリカの位牌が置かれた仏壇に手を合わせてから工藤家を辞した。
耕太によると、工藤家ではエリカの失踪届を出し、七年後に死亡宣告を受けたとのことだった。法律上はエリカは故人ということになる。
「おじいちゃん。エリカさんの写真と動画、見てもらわなくて良かったの?」
「そうだな。その必要はない」
「どうして?」
工藤家を辞する前に夏音はスマートフォンをとりだし、エリカそっくりの女性の写真を見せようとした。しかし錠次は静かに制したのだった。
クルマに向かいながら錠次は言った。
「あの人たちは穏やかに暮らしているからさ」
「ふーん」
夏音は少し唇をとがらせたが、すぐに笑顔になる。
「ま、おじいちゃんがそう言うなら」
周囲には農村の風景が広がっている。エリカの実家も農業を営んでいた。
「朝のトマトはうまかったな」
大全が言った。夏音にお裾分けをしてもらったのだ。
「うん。マジでうまかった」
すみれが祖父に同意する。
空には入道雲が浮かび、蝉の声が遠くから聞こえていた。
5
温泉旅行から戻って一週間後。
土曜日の午後、夏音とすみれは連れだってJ市の市街地に来ていた。目的は献血だ。
献血センターの入っているビルが見えてきたところで、すみれが立ち止まって小さく叫ぶ。
「ウソ!」
「どうしたの?」
同じく立ち止まった夏音が怪訝そうな顔を浮かべる。
「あそこにいる人、エリカさんじゃない?」
「え」
すみれの視線を追った夏音は目を丸くする。
ビルの入口付近に一人の女性が立っていた。クリーム色のサマーニットとラフなデニム。そしてポニーテール。待ち合わせでもしているのだろうか、胸の下で腕を組んでビルの入口を見ている。
女性の顔は――色が白くて鼻筋の通ったあの美しい顔立ちは、まさにエリカだった。いや、エリカそっくりの女性だった。あの日、バスターミナルにいた女性と同一人物だ。
二人の視線に気付いた様子はなかったが、女性は不意にクルリと背を向けて歩き出した。
「どうする? あとをつけてみる?」
女性を目で追いながらすみれがささやく。
「……だね」
夏音はうなずいた。
エリカによく似た女性はビルが並ぶ一方通行の道路に沿って歩道を歩いて行く。距離を取りながら夏音とすみれは後ろ姿を追う。
しばらくして、女性は不意に道の角を曲がった。ビルとビルの間の細い小路だ。
「どこ行くんだろ?」
「会社?」
そんなことを囁きあいながら同じ角を曲がると、女性の姿が消えていた。
「え、ウソ!」
すみれがつんのめるように前に出る。
細い道は続いているが、奥で行き止まりになっていた。だが、誰もいない。身を隠すような場所もなかった。
夏音は右側のビルの外壁の非常階段に目を留める。ここを駈け上がった可能性はあるが、だとしたら、足音は聞こえたはずだ。
(まさかとは思うけど)
見上げると、
「!」
目が合った。
非常階段の二階の踊り場から彼女が二人を見下ろしていた。思わず後ずさった夏音の様子に「?」と首を傾げたすみれが顔をあげる。
「ひやあっ!」
驚きのあまり腰を抜かしそうになっている。
「私になにか御用?」
ハスキーで、落ち着いた声が降りてきた。
しばしの沈黙のあと、夏音が意を決した顔で言った。
「工藤エリカさんですか?」
女性の顔に驚愕が広がり、その反応に夏音もすみれも驚いた。
「え、マジ! ほ、ほんとにエリカさん……?」
目の前にいる女性は工藤エリカにそっくりだが、だとしても四十年前の話だ。彼女が本人であるはずがない。常識的に考えられない。
であるにも関わらず、彼女は「工藤エリカ」という言葉に反応した。ということは、少なくとも工藤エリカを知っていることになる。もし、そうでなければ……本人。
「エリカさんなんですね!」とすみれが唐突に興奮する。「この子、鷹架錠次さんの孫です。覚えてますよね、錠次さんのこと。わ、私は刑事だった冴場大全の孫です」
「………」
「私たち、このまえK町に行ったんです。エリカさんの弟さんにも会ってきました!」
「………」
女性は表情を消し、二人を見下ろしている。反応のなさに苛立ったのか、すみれが両手のこぶしを振る。
「なんとか言って下さい!」
しかし彼女は無言で顔を引っ込める。すぐに階段を降りてくる音がした。
二人の前に立ち、少しだけ首を傾げながら、やはり落ち着いた声で言う。
「あなたたちは人違いをしているようね」
「そんな……。だっていま反応したじゃないですか。ビックリしていました!」
「それはそうでしょ」と軽く肩をすくめる。「だって身に覚えのない名前で呼ばれたんだから。それもいきなり」
「う」とすみれが呻く。「そ、それもそうですね」
「私は浅川という名前よ。浅川結希子。なにか事情があるみたいだけど、お役に立てることはなさそうだわ。行っていいかしら?」
「あ、はい。えーと……どうする? 夏音」
すみれが夏音を見る。夏音はじっと女性の顔を見ていたが、やがて言った。
「エリカさんじゃなかったら、鷹架錠次に会っても平気ですよね?」
「あなたのお爺さんだったかしら? なぜ私が会わなければならないの?」
「私、あなたがエリカさんのような気がするんです」
「人違いよ。いまも言ったように」
浅川結希子は夏音の目を見つめながら言う。表情から疚しさを感じている様子は伝わってこなかった。
「四十年前になにがあったんですか?」
「なんの話をしているのか分からないわ」
浅川結希子は夏音から目をそらさずに答える。
すみれは彼女が無関係だと考えたようだ。夏音の袖を引きながら小声で言った。
「夏音、やっぱり人違いだって。ウソついてる感じじゃないじゃん」
「おじいちゃんが言ってました。ウソをつくときは堂々と。相手の目をしっかり見ながらって」
「面白いお爺さんなのね」
「ウソを見抜かなければいけない仕事でしたし、ウソが必要な仕事でもありましたから」
「そう」
「会ってみたくないですか? 四十年後の鷹架錠次に」
「残念だけど」と首を振る。「遠慮しておくわ」
「もうすぐ鷹架錠次じゃなくなるんですけどね」
夏音は相手の目を見ながら言う。
「え?」
「認知機能が衰えてきています」
「……そうなの。それはお気の毒ね」
「お引き留めしてすみませんでした」
夏音はペコリと頭を下げ、すみれに「行こ」と言う。そして彼女に背中を向けた。
6
「ふう」
小さく吐息をつき、浅川結希子は二人の女子高生の背中を見送る。そしてかすかに首を振り、歩き出す。
さっきのビルに戻りたいのだが、前を行く女子高生たちの歩みは遅く、すぐに追いついてしまうことになる。また話しかけてこられるのも厄介だと思い、別の道から戻ることにした。
裏通りとも言えるその細い道には人の気配がなかった。タン、と地を蹴って走り出す。宙を飛ぶかのような軽やかな走りだった。
彼女が戻ろうとしているビルの最上階にはテナントとして献血センターが入っている。その献血センターのことを、彼女は調べていた。
開設したのは一か月半ほど前のことだ。
おおっぴらに知られたくないという思惑があったのだろう、表だった告知はなく、ひっそりとオープンを迎えたようだった。
献血という多くの人からの善意に基づく行為を必要としながらも、あまり人はに知られたくないという矛盾を抱えているのは、他でもない、その献血センターが「少女」を専門としていたからである。
十代の若い女性の血液しか受け付けない。
であるにも関わらず、騒ぎになることもなく、献血に応じる少女たちを集めることができているのはSNSに負うところが大きい。
少女たちにとって魅力的だったのは、献血をすれば報酬が支払われ、さらに知り合いを連れていくと紹介料ももらえたことだ。献血という善行を施せる一方で小遣い稼ぎにもなる。利用しない理由はなかった。
さらに、センターでは少女たちに栄養面や健康面でのアドバイスも授けていた。血液を調べることで健康状態が分かるらしい。血液は生命活動の源。その血液が汚れると、肌は衰え、若さも失ってしまう。健康的な生活を送り、栄養が偏らない食生活を過ごすことが大切だとセンターでは強調しているようだった。
少女たちは献血センターの存在をなるべく口外しないようにと言われていた。「少女専門の献血センターとなると誤解を受けやすいから」というのが、その理由だ。
誤解を受けるのがイヤだと言うならなぜ少女を専門にしているのかという疑問が生じるが、それに対しては「若い女性の血液と老婆の血液のいずれかを輸血するとしたら、つまり自分の体内に入れるとしたら、どちらを選びたいか」という問いを答としていた。
口止めはされたものの少女たちの中には、それに従わない者もいた。「献血という社会貢献をしたワタシ」を知ってほしいというささやかな承認欲求。ネット上に散らばるそんな小さな情報を根気よく集めることで浅川結希子は献血センターのあるJ市を突き止め、所在地も特定したのだった。
街に来たのが二週間前で、住所を特定するまでにまた少し時間がかかり、そのあとはビルに出入りする少女たちを監視した。可能な限り写真に記録をするようにもした。
今日は献血をした少女たちにアプローチをするつもりだった。話しかけ、センターではどのような手順で献血をするのか、そこはどんな雰囲気なのか、そしてどのような者たちが働いているのか……といったことを聞き出すつもりだったのだ。ネットの情報である程度はつかめているが、ダイレクトな言葉のほうがより深いところまで把握することができるだろうとの期待があった。
その予定を狂わせたのは、二人の女子高生だ。自分の姿を見てハッとした態度を取ったので、それに対する警戒心からビルを離れたのだったが、まさか自分のことを知っているとは思わなかった……。かなり驚いたが、いまはそのことについて考えるべきときではない。
ビルに戻った浅川結希子は周囲を見渡したあと、隣接する建物に入った。二階にカフェがあり、窓側の席から献血センターのあるビルの出入り口を監視できそうだと見当をつけたからだ。
席についた同じタイミングでさっきの二人の女子高生が姿を現し、ビルの中へと消えていった。
「やっぱり、あの子たちも……」
その可能性を考えたからこそビルの出入り口で待つのではなく、カフェに身を隠したというわけである。
紅茶を頼んだあと、そのまま待機することにした。
小一時間ほどたったとき、さっきの二人のうち一人が出てきた。スマホを操作しながら歩いて行く。髪が短いほうの女の子だ。
もう一人はどうしたのだろう……鷹架錠次の孫というあの女の子は。
同時に入ったのだから同時に出てこなければおかしい。献血が終わるまで多少の時間のずれはあるかも知れないが、それでも先に済んだほうは待つのが自然だ。
ショートヘアの子になにか急用ができた可能性も考えられたが、その割には慌てている印象もなかった。少しだけ浅川結希子の心がざわつく。
と、そのとき、遠くからヘリコプターの音が聞こえてきた。その音はだんだん大きくなる。
「またヘリコプターだ」
カフェのスタッフがつぶやいた。それを聞いた浅川結希子はスタッフを手で呼んだ。
「ヘリコプター、多いの? このへん」
「え? あ、そうですね。最近多くなりました。隣のビルの屋上に降りるんです」
答えながら目を丸くしている。なぜそんなことに興味を持つのか、といった目だ。
「ありがとう。お勘定はここに置いておくわね」
硬貨をテーブルに置き、早足に店を出る。
そしてエレベーターホールの先にある階段へ向かい、駈け上がった。その軽やかな移動は人間技とは思えないほどだった。重力を無視していると言ってもいい。
浅川結希子の心臓は普段以上に脈を打っていたが、階段を駈け上がったせいではない。イヤな予感のせいだった。
一か月半前にできた少女専門の献血センター。
最近よく来るようになったというヘリコプター。
そしてビルから出てこない鷹架錠次の孫。
もし読みがあたっているとしたら、あの少女はヘリコプターでどこかに運ばれて行くことになる。
ビルの最上階に到達した浅川結希子は屋上に出る扉をそっと開く。幸いなことに鍵はかかっていなかった。もし鍵がかかっていたら破壊するつもりだった。
姿勢を低くして屋上に出る。ヘリコプターの音が大きくなる。屋上には他に人影はなかった。
防水槽の陰から隣のビルに目をやると、眠っているのかそれとも気を失っているのか、車椅子の上でぐったりとしているあの少女がヘリコプターに乗せられようとしているところだった。
「ドクターヘリ?」
その可能性に思い当たる。ドクターヘリとは緊急を要する患者のいる場所に医師を運ぶヘリコプターのことだ。もしかすると鷹架錠次の孫は献血中に気分が悪くなり、病院に搬送されるのかも知れない。
しかし、すぐにその考えを否定する。
ドクターヘリが出動するのは医療過疎地域だったはずであり、都市部では救急車を呼ぶのが普通だ。それに、献血中に気分が悪くなった程度でドクターヘリを呼ぶというのも大袈裟な話だ。
浅川結希子はカメラで素早く写真を撮る。機体番号も収めるようにした。
やがてヘリコプターは一際高い騒音を振りまきながら浮上し、飛び立って行った。
あとに残ったのは白衣をまとった二人の男。彼らは互いに小さく首を振り、肩をすくめるようにして短い会話を交わす。そして屋上をあとにした。
彼らを見届けてからスマートフォンを取り出し、呼び出した連絡先をタップする。すぐに相手が出た。
「アップした写真のヘリ、特定して」
手短に告げた。
「分かりました」
相手も手短に答える。
浅川結希子の持つデジタルカメラは常時クラウドサーバーに接続されており、撮影した写真は即座にアップロードされる。データは「組織」のメンバーもアクセスできるようになっている。
「急いでね」
と言おうとして口をつぐむ。
わざわざそんなことを付け加える必要はなかった。彼女が電話で連絡を入れることは滅多にない。あるとすれば緊急を要する時だけだ。
案の定、通話を切るまでもなく返事が戻って来た。
「君島総合医療センターの所有ですね」
「所在地は?」
「S市です。いまチーフのいるJ市に隣接しています。マップのデータを送りました」
「ありがとう。助かったわ。あと、そのセンターの情報を集めておいて」
「了解です。メールをしておきます」
通話を終えたあと、考えを巡らせる。
鷹架錠次の孫は、君島総合医療センターという施設に運ばれたようだ。
すぐに後を追ったほうがいいとは思うものの、どの程度の関わりを持つかの判断は咄嗟にはできなかった。「突入」を実施するほどのものか、それとも「潜入」でとどめるか。
もし懸念が的中していたら突入しなければならないが、そうでない場合は面倒なことになる。「組織」の許可を得るには、根拠が薄すぎる。
先ほどの白衣の男二人の会話の意味を考える。
ヘリコプターを見送ったあと、彼らは「もったいないな」「あんなに可愛いのにな」という会話を交わした。それを読唇術で読み取ったのだが、果たしてそのやりとりが意味するところは……。
献血センターでは少女たちの血液検査を行うという。もしその際に重い病気が見つかったとしたら? 不治の病の類いであれば「こんなに早く人生が終わってしまうなんて、あんなに可愛いのにもったいないな」という言い方は不自然ではない。
しかし、そうではない別の可能性を示唆していたとしたら……。
おそらく鷹架錠次の孫は身の危険にさらされる。
浅川結希子は顎にこぶしを押し当てながら考える。
やがてスマートフォンを再び取りだし、さっきと同じ番号をタップした。相手はすぐに出る。
「鷹架錠次という人物のデータが欲しいの。住所と電話番号、それと孫娘の情報。確か、名前はナツネと言ったわ。生年月日、家族構成、どこの高校に通っているか。たぶん高校生だと思う」
話している途中からキーボードを叩く軽やかな音が聞こえてきた。不意に音が止まり、相手が言った。
「判明しました。これから送信します」
7
鷹架家の固定電話が鳴ったのは十六時を過ぎた頃だった。
受話器を取り上げたのは留守番をしていた錠次だ。
「鷹架夏音さんのご自宅でよろしかったでしょうか? こちら、はるかぜ献血センターと申します」
「………」
受話器から流れてきた声を聞いて錠次は思わず絶句した。
「もしもし? 鷹架さんのお宅ではないですか?」
「……ああ、すまない。鷹架で間違いない。献血センターとおっしゃったかな?」
「はい。鷹架夏音さんはいらっしゃいますでしょうか?」
「今日はそちらにうかがったはずだが?」
「はい、そうなんです。それで夏音さんが忘れ物をされまして。一応ご連絡をしておこうと思い、こうしてお電話を差し上げました」
「なぜかな?」
「……失礼ですが?」
「なぜ、夏音の携帯電話にではなく、自宅にかけてきたのかな?」
「ごもっともですね。夏音さんの携帯電話にもおかけしましたが、留守電になっておりまして」
「そうか。だったら自宅にかけるのも分かる」
「ありがとうございます。それではその旨、お伝えくださいませ。失礼いたします」
「私が取りに行くよ」
「……いえ、わざわざご足労いただかなくても、」
「なに、どうせヒマな身だ。あなたのお名前を聞いておこうか」
「佐藤と申します」
「佐藤さんか。覚えやすい」
「恐れ入ります」
「では、そういうことで」
錠次は受話器をいったん置き、すぐにまた持ち上げて夏音に電話をした。しかし佐藤が言ったように留守電になっている。次に冴場家に電話を入れる。
「はい、こちら冴場」
大全が現役時代のような名乗り方をする。
「おれだ。すみれちゃんは戻っているか」
「何の用だ」
「いま、エリカから電話があった」
「おい。お前、何言ってんだ? とうとう本格的に耄碌したか?」
「大全、いいから聞け。エリカは献血センターを名乗ったんだ。今日、すみれちゃんと夏音が献血をしに行っただろう?」
「ん?」
「聞いてないのか?」
「……あー、うん。そ、そうだな。聞いてないな」
大全は恥ずかしそうな声で言った。
どうやらすみれは何も告げずに外出したらしい。普段からガミガミと口うるさいからそういうことになるんだ、と思ったが、いまはそんなことを言っている場合ではない。
「この前からなぜかエリカの影がちらついている。すみれちゃんと夏音は最近、献血を始めた。両者に接点はないはずだが、いまの電話でつながった。思い過ごしかも知れないが、何かが起きようとしているのかも知れない」
「本当にエリカさんからの電話だったのか?」
「絶対とは言えない」
「………」
「大全?」
「少し考えさせろ。根拠が薄い気もするし、現実的にはあり得ない話だが……とりあえず、すみれに連絡を取ってみよう。またかける」
返事を待たずに大全はガチャリと電話を切った。
錠次はすぐに外出の支度を始める。まずはジャケットを羽織り……部屋の片隅に立て掛けているステッキの先端部分である石突きをチェックする。通常はゴムをかぶせているが、それを取り外すことにした。石突きには鋼鉄を使っている。
しばらくして電話が鳴ったので、受話器を取り上げた。
「おれだ。すみれと連絡が取れた」
大全が先ほどとは打って変わり、ひどく落ち着いた声で言った。
「そうか」
「夏音ちゃんは急用ができたとかで一足先に帰った、と献血センターの職員に言われたらしい。それですみれも一人で帰った。いまはバスでこちらに向かっているところだ。じきに着く」
夏音とすみれは連れだって献血センターへと足を運んだ。その後、夏音は急用ができたからと一足先に献血センターを後にした。急用というくらいだ、つい慌ててしまって忘れ物をすることになったのだろう。
それに気付いた献血センターの職員が夏音の携帯電話に連絡を入れたが、生憎と留守電モードになっていた。だから自宅の固定電話に連絡を入れた。
献血センターの職員が夏音の携帯の番号や自宅の電話番号を知っていたのは、最初の献血の際にカルテのようなものを作ったからだろう。万一のときに備えて連絡先を管理しておこうとするのは当然のことだ。
辻褄は合っている。不自然なところはない。
普通に考えれば、夏音は急用とやらに関わっていて、通話をするどころではない……ということなのだろう。
そう、どこにも不審な点はない。
ただ一点を除いて。
その一点とは、連絡をしてきたのがエリカだということだ。
エリカが行方をくらまして四十年がたつが、錠次はその声や話し方をハッキリと覚えていた。
常識的に考えると、佐藤と名乗った献血センターの職員の声がたまたまエリカに似ていたということになる。あるいは錠次自身の認知能力の衰えが、職員の声をエリカの声と認識させた可能性も考えられる。
しかし、そのどちらでもないという確信が錠次にはあった。あれはエリカだ。
声のトーン、間の取り方、切り返しのタイミング、会話全体のリズムは四十年前とまったく変わっていない。
おそらくエリカは油断をしたのだろう。
錠次以外の家族が電話に出ると思ったのかも知れないし、もし錠次が出たとしても四十年前の恋人の声など覚えていないと思ったに違いない。
しかし、なぜだ。
なぜいまになってエリカはコンタクトを取ってきたのか。
先週、エリカの実家を訪ねたことに関わりがあるのだろうか。
そのコンタクトにしても、直接名乗るのではなく、献血センターの職員だと偽った。
エリカが職員である可能性もなくはないが、それなら夏音やすみれが献血時に顔を合わせる機会もあっはずだ。しかし、二人の口からそんな話が出たことはない。
錠次はエリカが電話をしてきたことの意味をつかみかねた。
「おい、聞いてるのか」
知らず黙り込んでしまっていた錠次に大全が苛立った声を出す。
「ああ、すまん。大全、手間をかけたな」
電話を切ろうとすると大全が言った。
「待て。話はそれだけじゃない」
「どういうことだ?」
「二人は今日、エリカさんに会ったそうだ」
「なんだって⁉」
「献血センターの入っているビルの前でバッタリ出くわしたそうだ。話もしたらしい」
「何の話をしたんだ?」
「本当にエリカさんなのかどうかを聞いた。あっさり否定されたそうだが」
「………」
「錠次。お前の言う通り、何かが起きているのかも知れないな」
大全が珍しく真剣な口調で言った。
「ああ。何が起きているのかは見当がつかないが、妙なことが始まっているようだ」
「それで? これからどうするんだ?」
「とりあえず献血センターに行ってみることにする」
「家の前で待ってろ。クルマを出してやる」
「大全。お前を巻き込むつもりはない」
「黙れ」
素っ気ない言葉に続いて、受話器が乱暴に置かれる音がした。錠次は思わず受話器を耳から遠ざけ「バカが」とつぶやく。そのあと、外出の旨を伝えるメモを残し、家の外に出た。
数分もしないうちに大全の運転する車が目の前に停まった。助手席に乗り込むと後部座席からすみれの声がした。
「錠次さん、ごめんなさい。私が気付けば良かったんだけど……」
しゅんとした表情のすみれに首を振って答える。
「すみれちゃんのせいじゃないよ。大丈夫だ」
大全が無言でクルマを発進させ、錠次は素早くシートベルトを締めた。
「それにしても大全。すみれちゃんまで連れてくることはないだろう」
「すみれは献血センターの場所を知ってるだろ? それに、家に一人でいても悶々とするだけじゃないか。だったら一緒に来たほうがいい」
すみれには何の落ち度もないが、確かに一人で家にいたら自責の念に苦しむだけだ。それなら行動をともにしたほうが気休めにはなる。ただ、危険がともなわないとも限らなかった。
「何かあったら、命に代えてもすみれちゃんを守れよ」
「当たり前のことを言うな」
大全は鼻を鳴らして不機嫌そうに答える。後部座席ですみれが「じいじ……」と小さくつぶやいた。
「すみれちゃん。エリカに会った時のことを詳しく話してもらえるかな」
「はい」
そしてすみれは昼間に会った出来事を話し始める。
8
迂闊だった。
浅川結希子――いや、工藤エリカは思わず顔をしかめていた。手にしているスマートフォンの画面に自分の顔が映っている。すぐに目をそらした。
それにしても、と思う。
四十年以上たっているのに、錠次が自分の声を覚えているとは思わなかった。錠次の孫、夏音の話によれば認知機能の衰えを見せ始めているということだったので、なおさら自分の声だと気付くことはないだろう……そんな風にタカをくくっていた。
ところが、違った。そうではなかった。
自分の声を耳にした瞬間、錠次は察したようだった。あの一瞬の沈黙が雄弁に物語っている。
さすがは鷹架錠次ね……。
エリカは肩をすくめながら思う。知らず、微笑が浮かんでいた。
もしかすると錠次はまだ現役で探偵を続けているのかも知れない。となれば、六九歳の私立探偵だ。さすがに、昔のように無茶なことはしていないだろうが、今も現役を保っているとすれば、それはそれでたいしたものだ。孫の夏音が口にした「認知機能が衰えている」という言葉は嘘だったのかも知れない。
夏音は「ウソをつくときは堂々と。相手の目をしっかり見ながら」とも言っていた。懐かしいセリフだった。かつて錠次の口から直接聞いたことがある……。
エリカは首をかすかに振った。思わず回想に耽りそうになり、感傷を追い払う。いまはそんなことをしている場合ではない。
さっきの錠次との電話のやりとりから、夏音がヘリコプターでどこかへ(おそらくは君島総合医療センターへ)搬送されたことに関して、鷹架家に連絡が入っていないことは分かった。もし連絡があったら、錠次があんな反応を示すはずがない。
となると……事態は厄介なニュアンスを帯びてくる。おそらく夏音の身には危険が迫っている。
さらに厄介なのは、錠次がこちらに向かっていることだ。
彼が献血センターの人間と接触をすれば、エリカからの電話が嘘だということがバレる。バレるのは仕方がないとして、夏音との連絡が取れなくなったということになれば、彼は必ず本気になって調査を始める。その結果、献血センターの背後にある真実にたどり着いてしまう可能性もある。
いや、正しくは「あるかも知れない真実」だ。まだハッキリと判明したわけではない……のだが、エリカは夏音が連れ去られたことで「この献血センターは黒だ」とほぼ確信していた。
錠次が絡んでくるとなると、エリカのこれまでの隠密調査がムダになるかも知れない。いや、それ以前に、おそらくは引っかき回される。
「あの刑事が一緒ならなおさらよね」
錠次の孫娘は冴場大全の孫娘と一緒だった。確か名前は……いや、聞いていなかった。
当然のことながら、錠次は大全の孫娘に事情を聞くだろう。となると、大全が一枚噛んでくる可能性は高い。
あの二人に引っかき回されるくらいなら――。
エリカは決断する。
そしてスマートフォンで「組織」に連絡を入れる。