第1章 再びのエリカ
1
鷹架錠次がステッキをつきながらバス停に向かって歩いていると、冴場大全の姿が見えた。丸々と太った身体はどこにいても判別できる。
大全も錠次のことに気付いたようで、ニタリとした笑いを浮かべた。
錠次が無視をして通り過ぎようとすると、大全が言った。
「よう、徘徊老人。帰り道が分からなくなったか」
「大全。また、チャックが開いてるぞ」
「え、ウソ⁉」
大全が慌ててズボンに目をやる。そのあとすぐに怒鳴り声をあげた。
「開いてないじゃないか!」
「何回やっても引っかかるな、お前は」
「このほら吹きが!」
「騙されるお前が悪い」
錠次は歩き続け、そのあとを大全がぶつぶつ言いながらついてくる。
「おい、どこに行くんだよ。気取った上着なんか着やがって」
「これはな、大全。ジャケットっていうんだ」
「それくらい知ってんだよ!」
「そうか。少し驚いた」
「うるせーな。どこに行くのかって聞いてんだよ!」
「夏音と待ち合わせをしていてな」
「え」
「これから街で買い物だ」
「………」
大全が羨ましそうな顔をする。
夏音は、錠次のたった一人の孫娘だ。今年の春、高校に進学した。
決して身びいきではなく、誰もが認める美少女だと錠次は思っている。そしてそれが心配のタネでもある。つまらない男が言い寄ってくるかも知れない。
高校生ともなると親や祖父のことは疎んじるようになるものだが、夏音は違った。両親(錠次にとっては息子夫婦)との仲は良く、祖父である錠次にもよくなついている。
今日の買い物も夏音が言い出したことだった。夏音の父親であり錠次の一人息子である俊の誕生日プレゼントを一緒に選ぼうという誘いだった。
一方の大全にも孫がいる。一人はあやめという名で女子大生。もう一人はすみれで、こちらは女子高生。すみれと夏音は幼なじみであり、同じ高校の同級生でもある。
大全は二人の孫から煙たがられており、それを嘆いている。だからこそ、孫と買い物をするという錠次のことが羨ましいのだ。
「へん、どうせあれだろ。お前が引きこもりだから、夏音ちゃんが気を遣ってくれたんだろ」
「そうかもな」
「孫に気を遣わせるとはなぁ。やれやれ、情けない奴だ」
「なんとでも言え」
バス停に着いても大全は立ち去ろうとはしなかった。坂道の途中にあるバス停からは、これから向かうJ市の街を眼下に収めることができる。内海に面した街だった。
「今日も暑いな」
錠次が目を細める。
「おれのせいじゃないけどな」
「当たり前だ。お前にそんな力があるもんか。それより大全、知ってるか?」
「なんだよ」
「年寄りは熱中症になっても気付かないらしいぞ。体温の変化が分からないんだそうだ。お前は意味もなく外をウロウロしているようだから忠告しておいてやる」
「お前に心配されたくないよ」
「お前が死んだら、すみれちゃんはうちで引き取ろうと思っている」
「させるか、バカヤロウ!」
大全がまた怒鳴ったところで、坂の上からバスがやって来た。錠次は「じゃあな」と敬老パスを読み取り機にかざしてバスに乗り込む。
大全は忌々しそうな顔でバスを見送っている。
2
駅前のバスターミナル。
行き先別に点在する発着所にはそれぞれにバスの到着を待つ行列ができていた。
その一つ「高台バスセンター方面」と記された発着所に制服姿の二人の女子高生がたたずんでいる。
一人は髪が長く、透明感のある色白の肌。涼しげな目元が印象的だ。
もう一人はショートヘアで、肌は柔らかな小麦色だ。勝ち気そうな顔をしている。
二人とも細身のスタイルの美少女で、周囲のさりげない視線を集めていた。本人たちはまるで気にしていない様子である。
「あ、来たよ」
ショートヘアの女の子――冴場すみれが言った。視線はターミナルに近づいてくるバスに向けられている。
「ちゃんと乗ってるかな」
鷹架夏音が、その涼しげな目でバスの乗客を確かめようとする。
「大丈夫でしょ」
「ま、そうだね」
やがてバスが到着し、中から乗客たちがぞろぞろと降りてきた。最後に降りてきたのが、ステッキをついた錠次だった。
「おじいちゃん!」
夏音が駈け寄る。
「夏音。待たせたみたいだな」
「それほどでもないよ。さっき来たところ」
「すみれちゃん、こんにちは」と錠次は夏音の後ろにいるすみれに会釈をする。「さっき大全に会ったよ」
「ごめんなさい。またなにか言ってきたでしょ?」
すみれが申し訳なさそうな顔をする。
「気にしてないさ。なにも言ってこなかったら、むしろそっちのほうが心配だ」
「あはは、そうかもですね」
「夏音と待ち合わせだと言ったら羨ましそうな顔をしてたよ」
「はあ、そうですか」
「すみれも大全さんとお出かけしてあげたら?」
「いやそれ絶対ないし」
すみれが首を振る。きっぱりとした口調に錠次も夏音も苦笑を漏らすしかなかった。
錠次の乗ってきたバスの行先表示器が「駅前ターミナル行き」から「高台バスセンター行き」へと変わり、乗車をうながすアナウンスが流れた。
「あ、じゃあ私、行くね。錠次さん、お買い物楽しんできて下さい!」
「ありがとう」
バスに飛び乗ったすみれに錠次と夏音は手を振り、やがて歩き出す。向かうのは駅の反対側にある百貨店だ。コンコースに通じる階段をのぼりながら錠次が言った。
「すみれちゃんは病院にでも行ってたのかな?」
「え、違うよ。どうして?」
「腕のところに小さな絆創膏が貼ってあった。あれは注射をしたからだろう」
錠次がそう言うと夏音は目を丸くしたあと、クスリと笑う。
「さすがだねー、おじいちゃん。いつでも探偵さんに復帰できるんじゃない?」
「それは無理だ。すみれちゃん風に言えば、絶対ないし、だな」
首を振って苦笑する錠次に夏音は淡い微笑で応える。
「すみれちゃん、どこか悪いのか?」
「献血してただけ。絆創膏取るの、忘れてたんだよ」
「献血?」
「うん。でもそれよりおじいちゃん、お父さんのプレゼント、考えてきてくれた?」
そう言って夏音は錠次の腕に手を通す。
「ああ、そうだな。ハンカチでいいんじゃないか」
「ハンカチね。うん、いいかもね」
「これからさらに暑くなるだろうしな。何枚あっても邪魔にはならんだろう」
「じゃ、それにしよう! 決定!」
二人はコンコースを抜け、駅に直結している百貨店へと向かう。
「ああいうところは電子マネーは使えるのかな?」
「使えるでしょ。大丈夫よ」
3
買い物を終えて百貨店を出た二人は休憩がてらお茶をすることにした。
「どこがいい?」
「どこでもいいさ」
孫の問いに祖父が答える。錠次としては夏音と一緒ならどんな店でも構わなかった。
「あ、そうだ」
思い当たる店があったのか、夏音が胸の前で手を打つ。
「前にすみれと行ったお店があるの。少し歩くけど、いい?」
「もちろん」
夏音が足を向けたのは旧繁華街だった。駅前周辺は再開発で新しい建物が目立つが、駅から少しばかり離れたその一帯は往時の面影を残している。やや寂れた印象も与えるエリアだった。
「こっちのほうにも来るのか?」
「うん、たまにね。このへん、最近はオシャレなお店が増えてきてるんだよ」
人の流れが変わり、駅周辺に集中するようになったので、ここらの賃料が下がったのだろう……と錠次は見当をつける。だから若い人たちが店を出せるようになったようだ。
新陳代謝。時代は変わり、街も変貌する。
「でも夏音。このあたりは女の子が来るような場所じゃなかったんだぞ」
「そうなの?」
夏音は小さく首を傾げる。
「昔は不良連中が集まってくる場所だった」
「不良連中」
言い方が面白かったのか夏音はクスリと笑う。
錠次はかつてこのエリアで出会った不良たちを懐かしく思い出す。彼らは今頃なにをしているだろうか……。
そんな思いに耽っていると、夏音が足を止めて「ありゃ、お休みだ」と顔をしかめた。横文字の筆記体で店名を記した看板の下には「本日休業」という札が下げられていた。
「どうしよう、おじいちゃん」
「他にも店はあるさ」
錠次は周囲を見渡す。車一台分の幅しかない通りには飲食店が軒を連ねている。夜間営業の店が多いのだろう、ほとんどがシャッターを閉ざしているが、それでも営業中の店はいくつか見られた。
錠次はふと思いつき、路地裏へと足を向ける。
「どこ行くの?」
「昔よく行っていた店がいまもあるかなと思ってな」
「へえ。どんなお店?」
「カフェバーだよ」
「え、おじいちゃん。カフェバーとか行ってたの? 意外」
「ははは、意外か」
数分ほど歩くと、店が見えてきた。「グリーンマイル」という看板が出ていて、テラス席に一組のカップル客がいるのが見えた。この暑いのにテラス席とは物好きだな、と錠次は思った。
「まだやっていたようだ」
「へえ」
「ここでいいかい?」
「うん」
ドアベルを鳴らして二人が店に入ると、中はガラガラだった。中年のウェイトレスが店の隅で所在なげに立っている。
店内にはテーブル席とカウンター席があり、テーブル席に三人組の客がいた。彼らは会話を中断し、錠次と夏音に視線を向けた。
錠次はその三人組を見て、カップル客がテラス席を選んだ理由を悟った。
「お、カワイイーじゃん」
アロハシャツを着た金髪の男が夏音を見ながら言った。
「なにあれエンコウ⁉ マジ? やばくね?」
もう一人が言う。タンクトップに、やはり金髪。
「こっちおいでよ~、とか言ったりして」
最後の一人は髪は染めてないものの、顎に無精ゲを生やしていた。
夏音は軽く眉をひそめている。怯えている様子はなかった。
「タイミングが悪かったな。出よう」
錠次が夏音の背中に手をまわし、きびすを返す。背後から声がかかった。
「待てや、爺さん」
夏音が小さく吐息を漏らした。錠次が振り向くと三人組の一人が言った。
「なに気分の悪いことしてんだよ」
そして睨みつけてくる。錠次はその目を静かに見つめ返す。
ウェイトレスが何も言わず、店の奥へと消えた。錠次は目の端でそれをとらえていた。
「おじいちゃん……」
「心配ない」
「ケガさせないでね」
「そうはならないと思うよ」
錠次が答えたとき、店の奥から巨躯の男がのっそりと出てきた。ヒヨコ柄のエプロンをかけているが、その顔は接客業らしからぬ凄みがただよっている。
「どうしました?」
男は言って三人組を見たあと、錠次と夏音に顔を向けた。その目が驚愕で開かれる。
「ホークさん……」
「久しぶりだな」
「ご無沙汰しております」
巨躯の男は膝に両手を揃え、深々と頭を下げる。それから三人組をジロリとした視線を投げる。
「お客さん、困りますよ」
「べ、別になんもしてねーけど」
「ちょっと店の裏まで来てもらいましょうか」
低い声で言って睨めつける。
「な、なんでだよ!」
「この人は私の恩人でね」と巨躯の男は錠次を手で示す。「この店で失礼があっちゃならんのですよ。絶対に」
男の目元には細い傷跡が走っていた。
三人組は言葉を失っている。自分たちが思いがけず地雷を踏んでしまったことに呆然としているようだった。
「新城」
錠次が声をかけた。
「気にしていないからいいよ」
「でもホークさん」
「それにお前、商売だってことを忘れるな。そのお兄さんたちも客だろう」
「あ、そうでした」
新城は頭を掻きながら苦笑する。その笑顔を三人組に向けると、彼らもつられて笑った。ただ、顔は引きつっている。
「だったら、お代はいりません」
「………」
「………」
「………」
新城の言葉の意味に気付いたらしく、三人組は引きつった笑顔のまま固まる。やがて無精ヒゲの男が「は、払うから」と財布を取り出し、立ち上がる。
他の二人もそれに倣った。
「お嬢さん、すみません。つまらないものをお見せしてしまいまして」
三人組が出て行ったあと、新城がペコリと頭を下げた。
「あ、大丈夫です。全然」
「それにしても」と新城は溜息をつく。「なんとまあ可愛いお嬢さんなんですか。きれいで清楚で、頭も良さそうだ」
「良さそうじゃなく、実際にいいんだ」
「また、おじいちゃん」
「ホークさん、こういうお嬢さんをこんな場所に連れてきちゃダメでしょ。昔ほどではないにせよ、さっきみたいなのはまだいるんですから」
「そうだな。気をつけるよ」
「ま、どうぞ、お掛けになって。お好きな席に」
という新城の言葉を受けて二人はカウンター席に腰をおろす。
テラス席にいたカップル客はウェイトレスにうながされて冷房の効いた店内に移ってきていた。
「新城さんは祖父とどういうお知り合いなんですか?」
オレンジジュースを前にした夏音が言う。錠次はアイスコーヒーを飲んでいた。
「昔、私がさっきの連中みたいなことをしているときに、ホークさんに叱っていただきまして」
「叱ったんですか?」
「この店はもともと喫茶店でしてね。私の親がやっていたんですが、ちょっと厄介な手合いに目をつけられて、手放さなきゃならない羽目に陥ったんですよ。そのときに動いてくれたのがホークさんです」
「気に入っていた店だからな」
「その厄介な人たちとなにかあったの?」
「まあ、ちょっとな」
「その厄介な連中を手引きしたのが私だったんですよ」
「え?」
新城は頭を掻く。
「ま、親を売ろうとしたようなもんです。それでホークさんにこっぴどく叱られまして」
「おじいちゃん、家族のことは大切にしろっていつも言うもんね」
「そうだな」
「それで私は目を覚ませと言わんばかりにゲンコツのご指導をいただき、更生したというわけです」
「ゲンコツ……。おじいちゃん、そんなことしたの?」
「あのときはすまなかった」
「いえいえ、そんな。私のような愚か者はなかなか言葉では理解できないですから」
「その厄介な人たちはどうなったんですか?」
「大全に任せた」
「え、大全さん?」
「おや、冴場刑事のこともお嬢さんはご存じで?」
「私の幼なじみのおじいさんです」
「これはこれは」
新城は大袈裟に肩をすくめる。
「名物探偵と名物刑事のお孫さんが幼なじみですか。……ん、ということはホークさんと冴場刑事はご近所で?」
「高台ニュータウンだよ」
「おや、セレブ」
「おれじゃない。息子が買ったんだ。おれは居候みたいなもんだ」
「おじいちゃん、言い方」
「うん、すまない」
夏音にたしなめられて錠次は素直に謝る。
そのやりとりを見ていた新城は「あははは」とうれしそうな笑い声をあげたあと、しみじみとした口調で言った。
「ホークさんも人の子だったんですねぇ」
会計をする際、錠次はまごついた。
「新城。電子マネーは使えないのか?」
「すみません。うち、入れてないんですよ」
「そうか」
うなずいたあと、カウンターの上に置かれた勘定書と財布の中身とを交互に見る。
「おじいちゃん、私がやろうか?」
「そうだな」
「あの、ホークさん。もし都合がつかないようなら……」
「いや、金はあるんだ。ただ、その計算がな」
「はい」
「苦手になったんだよ」
「え⁉」
驚く新城の視線から逃れるように夏音が目を伏せ、錠次の財布から硬貨を何枚か取り出す。
「歳は取りたくないもんだな」
そう言って錠次は自分の頭を指さし、苦笑いを浮かべる。
4
錠次が「鷹架探偵事務所」を畳んだのは六三歳のときだった。探偵としてあるまじき失敗をしでかしたことがその理由だ。それから六年がたつ。
きっかけはとある男性から依頼された浮気調査だった。妻の態度に不審な点があるので調べて欲しい、というありきたりと言えばありきたりな依頼だった。
すぐに錠次は人妻の素行調査を開始し、三日目の夜に男と会っている場面を目にした。人妻と相手の男はホテル街へと足を向けた。錠次はカメラを取りだし、二人の写真を収めようとシャッターを押した。
その瞬間、周囲を照らし出すまばゆい光が走った。
錠次は自分のミスに愕然とした。カメラをフラッシュモードにしていたのだ。
閃光を浴びせられた二人はその場に立ちすくんだが、やがて男のほうが錠次に駈け寄ってきて小声で鋭く言った。
「探偵さん、どういうことだよ!」
探偵と呼ばれて、そこでようやく錠次は気付いた。人妻が会っていたのは浮気相手ではなく、彼女の夫本人だということを。そして錠次の依頼人であるということを。
「………」
言葉を失っている錠次に依頼人は呆れたように言った。
「あんた、本当に探偵なのか?」
後日、着手金の返還を受け取りに来た依頼人が話したところによると、夫婦は久々に外食をする予定だったという。ホテル街に足を踏み入れたのは、予約していた店への近道だったからだ。
ともあれ、錠次にとっては痛恨のミスだった。
調査対象が男と会っているというだけで、その男のことを浮気相手だと思い込んだこと、きちんと確かめれば依頼人であることに気付いたはずだったが、思い込みで確認を怠ったこと、密かに撮影をしなければいけない状況でフラッシュを走らせてしまったこと。
探偵としてあるまじきミスを一気に重ねてしまい、錠次は引退を決意したのだった。
自身の認知機能に衰えが出始めていることに錠次は薄々と気付いていた。以前にも依頼人から首を傾げられる失敗を二度くり返していたからだ。
二度とも依頼人との待ち合わせをすっぽかしてしまう失敗だった。一度目はスケジュール帳に予定を記入するのを忘れ、二度目はスケジュール帳に予定は記入したものの、そのこと自体を失念した。
自信を失いかけていた折りに浮気調査の失敗だ。「もうダメだな」と判断した錠次は数日後に探偵事務所の看板をおろすことにしたのだった。
引退後しばらくは、それまでと同じように一人暮らしを続けていたが、じきに息子の俊が「家を建てるから一緒に住んで欲しい」と言ってきてくれた。最初は遠慮したものの「夏音のために」と言われると、申し出を断ることはできなかった。
息子の俊も、妻の静佳も仕事を持っている。帰りが遅くなることも珍しくない。当時の夏音は小学五年生。高学年にはなっているとは言え、一人で留守番をさせるのはやはり心配だった。錠次が一緒に住んでくれればその心配も解消されるというわけである。
また、新しい家に引っ越すことで転校を余儀なくされ、友達も新たに作っていかなければならない。新しい環境に慣れるまでは寂しい思いをさせてしまうだろう。
その意味でも錠次がそばにいてくれると安心だと息子夫婦は言った。そこまで言われると、固辞する理由はない。ましてや目の中に入れても痛くないほど可愛い孫のためだ。錠次は同居を決意した。
また、これは俊がハッキリと口にしたことではないが、夏音の子守りをすることで緊張感と責任感が生じ、認知機能の衰えにある程度の歯止めがかかるとも考えていたようだ。
俊は高台ニュータウンという分譲地に家を建てた。錠次が私立探偵として過ごした街を見下ろす高台の新興住宅地だ。このあたりでは高級住宅地と言われている。
当時三十代だった俊がそうしたエリアに家を建てることができたことに錠次は驚いたが「公務員はローンが通りやすいんだよ。それに利息なんてあってないようなものだし」と言われて納得した。俊と静佳は職場結婚だ。
そのような経緯によって錠次は第二の人生を過ごしている。認知機能の衰えは急激に進むことはないにせよ、ゆっくりと、しかし着実に進んでいた。
いまの錠次は細かいお金の計算ができなくなっている。見かねた俊が作ってくれたのが電子マネー専用のカードだった。
「……おじいちゃん、さっきの人たち」
横を歩いていた夏音が呆れたような声を出して足を止める。「グリーンマイル」を出て駅に向かう途中だった。
「ん?」
錠次が夏音の視線を追うと、さっきの三人組が憎々しげな顔でこちらを見ていた。どうやら待ち伏せをしていたらしい。しかしまさか手を出してくることはないだろう、と錠次は思った。こちらは老人と女子高生だ。大の男が三人がかりでどうこうするような対象ではない。……もし、男としてのプライドがあるのなら。
しかし生憎と彼らはそうしたものを持ち合わせていないようだった。立ち止まっている錠次と夏音に近づいてきて言った。
「爺さん、ボコボコにしてやんよ」
「そうか」
「こっち来いや」
タンクトップの男が錠次の腕をつかんでビルとビルの間の細い路地に入ろうとする。錠次はステッキを逆手に持ち、その先端で男の顎を突いた。
「あぐっ!」
男は顎を押さえ、ヨロヨロと後ずさる。
錠次は続けて残りの二人の鳩尾を突く。どちらも腹を押さえてうずくまった。
「今度は目を狙う」
錠次はステッキの先端を突きつけながら静かな声で言った。
その口調から本気であることを感じ取ったらしく、三人組は怯えた顔を見せた。
「一応、警告しておく。もしこの先、この子にちょっかいを出したら両目をつぶしたあと、股の間にぶらさがっているものも潰す。どんなことがあってもお前たちのことは見つけ出す」
「………」
「お前たちにとっておれは単なる年寄りにしか見えないだろうが、そうではない。忘れるな。忘れると、ひどく辛い目にあうことになる」
「……わ、分かった」
「言い方」
「分かりました」
「それならいい」
そう言って錠次は背中を向ける。念のために夏音を先に歩かせ、背後の気配に注意をした。
「おじいちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
小さく肩をすくめる祖父を見て夏音が笑う。
5
再び駅前バスターミナル。
高台バスセンター行きのバスに乗り込んだ錠次と夏音は後部座席に並んで腰をおろした。出発は数分後だ。
「いろんなことがあって面白かったねー」
夏音がスマートフォンをチェックしながら言う。
「いや、じいちゃんは反省している。夏音を危ない目に合わせてしまった」
「そんなの気にしなくていいのに」
「そういうわけにはいかないよ」
「私が気にしてないのに」
「だが、夏音。あまりあの界隈には、」
唐突に錠次の言葉が途切れる。夏音はスマートフォンから顔をあげた。
「どうしたの?」
祖父の顔を見て思わず息を呑んだ。
これまで目にしたことのない表情だった。鼓動が高くなる。なにか悪い発作でも起きたのだろうかと思った。
錠次は夏音を見ていなかった。あらぬ方向――夏音の肩越しに窓の外に目を向けている。
「お、おじいちゃん?」
夏音の問いかけには応えず、錠次はつぶやいた。
「エリカ……」
夏音は素早く振り返り、窓の外を見る。バスターミナルには多くの人が行き交い、列を作っていた。この中に「エリカ」という人がいるのだと察した夏音はスマートフォンで人々の姿を撮影した。何枚かアングルを変えて連写したあと、録画モードに切り替える。
車内アナウンスが流れ、ブザー音とともにバスの扉が閉まった。発車によって流れ始めた窓の外の風景を夏音は身体をひねりながら録画し続ける。
ターミナルが遠くなってからようやく夏音は録画をやめ、祖父を見た。
「おじいちゃん、大丈夫?」
祖父はぐったりとした様子で静かに目を閉じている。
「おじいちゃん?」
「ああ、大丈夫だ」
錠次は目を開けて孫に微笑みかける。その笑みはぎこちなかった。
「エリカさんって誰?」
「昔の知り合いだよ。よく似た人がいたんでね、驚いただけだ」
その割には驚き方が普通じゃなかった……と夏音は思った。
「私、写真撮ったよ。見てみる? 本人じゃないの?」
「……いや、いい。それより夏音、じいちゃんはちょっと疲れたみたいだ。少し眠るから、着いたら起こしてくれるか?」
「あ、うん。分かった」
夏音はうなずき、スマートフォンを鞄にしまった。祖父の顔がひどく弱々しく見えた。
6
夕食後、錠次は「今日は早めに寝ることにするよ」と早々に自室に引き上げていった。その後ろ姿を見送ったあと、静佳が娘に言った。
「おじいちゃん、何かあった?」
夕食をとっているときも錠次の様子はおかしかった。もともとそんなに喋るほうではないが、いつにも増して口数が少なかった。心ここにあらずといった様子に、静佳は違和感を覚えていた。
「実はね」
夏音は帰りのバスでの出来事を話した。ついでにカフェバーに行ったことや三人組をやっつけた話もした。静佳が眉をひそめる。
「夏音。もうその場所には行かないこと。分かった?」
「やっぱり?」
「おじいちゃんは強いんだけど、それでもお年寄りなのよ。それに、あなたは女の子」
「はーい、分かりました」と夏音は肩をすくめる。「それより、おじいちゃんどうしたんだろうね。バスに乗るまではいつも通りだったんだけど、エリカさんを見かけてから変な感じになっちゃったんだよ」
「そう」
静佳にも「エリカ」という女性に心当たりはなかった。夫なら知っているかもしれないが、まだ帰宅していなかった。最近は残業が続いていて、帰りはいつも九時過ぎだ。
「お母さんに見せて、その写真」
夏音はスマートフォンを差し出した。手に取った静佳は口をへの字にする。
「人が多すぎて分からないわね」
「だよねー。私もそう思った」
「昔の知り合いって言っても、お婆さんというわけじゃないのよね」
「だと思う。知り合いというか、似ている人だって言ってたし。若い頃の知り合いのそっくりさんという意味じゃない?」
「だったら大全さんが分かるかもね」
「あ、そっか。その手があったか!」
夏音は早速すみれにメールを送る。
「でも、昔の知り合いのそっくりさんを見たくらいで元気をなくすというのも分からないわね」
と静佳が言うと、夏音が「あっ」と声をあげる。
「どうしたの?」
「昔、おじいちゃんが好きだった人とか?」
「んー、それはあるか」
「おじいちゃんを振った人とか?」
「おじいちゃんは引きずるような人じゃないと思うけど……でも、それがしっくりくるかもね」
すみれからの返信を待つ間、二人は食後のお茶を飲みながらテレビのニュースを見る。番組では「家に居場所を持たない少女たち」というタイトルの特集を流していた。家庭環境が複雑な少女が家に居着かないケースは以前から問題視されていたが、最近では家庭環境に問題がない少女たちも行方をくらます事例が増えつつあるらしい。事件の可能性はあっても、実際に表面化するまでは警察は動こうとしないという問題提起もなされていた。
「夏音は家出なんかしないでよ」
「考えたこともなかった」
やがてスマートフォンが振動し、手にした夏音が「ふえー」と妙な声を漏らした。
「どうしたの?」
「大全さん、知ってるって、エリカさんのこと」
「それで?」
「昔のおじいちゃんの恋人。でもね、ある日突然、行方不明になったらしいよ」
「いつの話よ、それ」
「なんと四十年前」
7
翌日は土曜日で学校は休みだった。
夏音はより詳しい話を聞くために冴場家を訪れていた。自宅からは歩いて十分程度の距離だ。
大全とすみれが出迎えてくれた。
「おれの部屋に行こうぜ」
途端、すみれが顔をしかめる。
「え~~~、フツーにリビングでいいじゃん!」
「いいじゃないか。夏音ちゃんに見てもらいたいものがあるんだよ」
「ぶー。どうせトロフィーとかでしょ」
不満げな顔ですみれは言って「飲み物用意してくる」とキッチンへと消えていった。
一階の奥、庭に面した和室が大全の部屋だった。
すぐに目を引いたのがガラスケースに飾られた数々のトロフィーだ。長押には額に収められた表彰状がいくつも並んでいる。そのすべてが柔道大会での優勝や準優勝を示すものだった。
「凄いですねー」
夏音の言葉に大全はうれしそうな顔をする。
「だろ? こう見えて、大全爺さんは強いんだぜ」
「強く見えますよ、充分」
「え、そう? うれしいこと言ってくれるね、夏音ちゃん」
そこに飲み物をお盆にのせたすみれが部屋に入ってきた。足で襖を開けたので大全に叱られている。
「おれツエー大会、終わった?」
「すみれ、言い方」
夏音はたしなめるが、大全には意味が分からないようだった。すみれから飲み物を受け取った夏音は大全に向き直る。
「大全さん。エリカさんのこと、教えてもらっていいですか?」
「あ、そうだったな。うん」
うなずいて、大全は話を始める。
工藤エリカは鷹架探偵事務所近くにある診療所に勤める看護師だった。鼻筋が通った色白の美人で、白衣を着ると清楚な印象が強まった。男性患者に人気だったらしい。錠次と大全より一つ年上で、当時は二九歳。ハキハキとものを言い、キビキビと行動し、テキパキと物事を進めるタイプの女性だった。
錠次はある調査をしていたときに大怪我をし、診療所に運び込まれた。運び込んだのは大全だ。暴力団がらみの事件で錠次は警察に協力をしていたのだ。ともあれ、それが錠次とエリカの出会いとなった。
二人がどのようないきさつでつきあいだしたのかは大全は知らない。ただ、つきあっていることは本人の口から聞いた。
錠次が退院をしてからしばらくたってからのことだ。二人が肩を並べて夜の街を歩いているところに大全はバッタリと出くわしたことがあり、そのときに知った。
「なんだお前ら、くっついてたのか」
「そういうことだ」
そんな短いやりとりだった。
数ヶ月ほどして錠次が大全を酒に誘い、切り出した。
「大全。お前、仲人する気はあるか」
「めんどくせーな」
「そいつは願ったり叶ったりだ」
「ちっ。仕方ねー」
そういうこともあり、てっきりゴールインも近いと思っていた矢先、エリカが姿をくらました。
錠次は街では少しは名の知られた探偵だった。エリカとつきあっていることも知られていた。エリカの勤める診療所は繁華街にあったので水商売の連中が診察を受けに来ることも少なくなかった。情報も伝わりやすい。エリカが不意に姿を消したという情報もすぐに広がり、大全の耳にも届いた。
探偵事務所に足を運んだ大全は目を丸くした。
錠次は憔悴していた。目はくぼみ、頬はやつれ、無精ヒゲがのび、背中を丸めて一点を見ている。そんな弱々しい錠次を見るのは初めてだった。
「どうなってるんだ」
「おれが教えて欲しいくらいだ」
なんとか聞き出したところによると、エリカは週末の休みを利用して実家のあるK町に帰省したとのことだ。錠次とのことを報告するための里帰りだったらしい。
K町は同じ県内にある山あいの町で、有名な温泉地も抱える。街からは特急でおよそ二時間。エリカの実家はその温泉地に近い場所にあった。
帰省の際、エリカは急行列車を利用した。いまはもう廃止になっている長距離急行で、J市の駅の乗車時刻は朝の四時台だった。錠次は駅まで見送りに行ったので、エリカが乗車したことは間違いない。しかし以降の足取りがつかめなかった。
通常なら温泉客と同じ駅でおり、バスに乗って実家に向かうはずだ。だが、その駅で降りたのか、それとも途中下車をしたのかも分からなかった。いまのように監視カメラがどこにでもある時代ではない。もし監視カメラがあったとしても、映像が警察によって精査されることはなかっただろう。そもそも犯罪性が薄い。
成人女性が行方をくらましたからと言って、警察は犯罪に巻き込まれたとは短絡的には考えない。なんらの事情があり、本人の意思による行動だとまずは考える。
事故であれば通報が入るだろうし、事故で命を落とし、死体を隠されるといった極端なことがない限りは連絡手段は残されている。もし犯罪に巻き込まれたとしても目撃者が皆無とは考えられない。なんらかの通報はあるはずだ。それがないのだから、事件性は高くない……というのが警察の判断である。
エリカの家族は捜索願を出したものの、警察は本腰を入れて動いてはいないようだった。自らも警察組織にいる大全は自嘲気味に「ま、そうだろうな」と思った。
警察は簡単には動かない。人員には限りがあり、時間も有限だ。そのなかで優先順位をつけながら市民の安全を守っていかなければならないのである。犯罪性の低い案件はどうしても後回しにせざるを得ない。
錠次も持ち前の調査能力を駆使してエリカを探したが、手がかりはつかめなかった。エリカからの連絡は一切なかったようだ。実家に対しても錠次に対しても。
錠次が本気を出しても手がかりがつかめないのだから、おそらく犯罪性はなく、これはエリカの意思によって起こったことだろう……と大全は考えた。なんの事情があったのかは分からないが、エリカは錠次の元から去ることを決めたのだ、と。
錠次もそれを悟ったのか、やがて諦観した表情でエリカの探索を打ち切ったことを大全に告げた。
四十年前のことである。
「……なにがあったんだろうね」
すみれがぽつんと言う。
「それは分からないけどな、でももう四十年も昔のことだ。錠次が未練を残しているってことはないわな」
「だったら、どうしてあんなに落ち込んだんでしょうか、昨日エリカさんを見たあと。エリカさんというか、似た人ですけど」
夏音が言うと、大全は一瞬口ごもったものの、頬をがりがりと掻きながら言った。
「幻覚を見るようになっちまったのかって思ったんだよ、きっと」
「は? 幻覚? どういうこと?」
すみれは首を傾げるが、夏音は「ああ……」とつぶやいて唇を噛む。その表情を見てすみれもようやく気付いた。要は大全は「認知機能の衰えが進んだあげく、存在しない人物を見るようになった自分」に錠次がショックを受けていると言っているのだった。
「大全さん。私、写真と動画を撮ったんです」
夏音がスマートフォンを取り出す。
「ここにエリカさんに似た人が映っているかどうか確かめてくれますか?」
「そりゃお安いご用だけど、夏音ちゃん、いいのかい?」
「え?」
「もし映ってなかったら、錠次が幻覚を見るようになったことが決定するぜ」
「……そうですね」
夏音はうつむく。進んで認めたい事実ではないものの、目をそらすわけにはいかない事実であることも確かだ。
「でも、お願いします」
夏音はスマートフォンの写真を呼び出し、大全に見せた。
「どれどれ」
老眼鏡をかけた大全は写真を見ながら「人が多くてよくわからんな」とつぶやく。
「じいじ、こうしたら大きくなるから」
横からすみれが指をのばしてピンチアウトする。
「おお!」
感心したように驚きながらも大全はすぐにその操作を覚え、あれこれと指を動かしながら写真を見ていたが、やがて唸るように言った。
「エリカさんだ」
「え?」
「え?」
「驚いたな、こりゃ。そっくりさんなんてもんじゃないぞ」
「どの人ですか?」
夏音とすみれが大全の手元を覗き込む。
そこにはポニーテールの女性が映っていた。シンプルなストライプの入った白地のシャツにベージュのパンツ。全体的に清潔で理知的な印象を与える女性だった。そしてかなりの美人。顎に指を添え、どちらの方向へ行こうかを考えているような顔をしていた。
「動画も見てくれますか」
「見るなと言われても見るさ」
夏音が動画を再生する。女性は行くべき方向が決まったのか、歩き出していた。ちょうどそのタイミングでバスが発車し、女性と同じ方向へと進む。おかげで彼女の歩行シーンを数秒間とらえることができた。
「歩き方もエリカさんだな。あの人は歩くのが速かった。それでいて、せかせかした感じはしなかった」
大全は低い声で言った。
「しかし、こりゃどういうことだ? まさか生きていた? いや、生きていてもいいけど、歳をとってないってどういうこった……」
8
「おじいちゃん、あのね。ちょっとお願いがあるの」
ちょうど机に向かって脳トレのドリルに取り組んでいたときだった。
夏音が錠次の部屋に入ってきて言った。ドリルを閉じ、錠次は孫に向き直る。
「なんだろう。夏音のお願いなら聞かないわけにはいかないな」
「私、来週から夏休みなんだよ」
「もう夏休みか」と錠次はうなずく。「この前、入学式をしたばかりなのにな」
「それでね。えーと、私、おじいちゃんと旅行がしたいなって思って」
「………」
「……ダメ?」
「ダメなはずがない」
首を振り、錠次は含み笑いをする。
「え、なに?」
「その旅行先というのは、もしかすると温泉地かな?」
「わ! どうして分かったの?」
「じいちゃんは元・名探偵だからな」
「それは知ってるけど」
「K町の温泉に行きたいんじゃないのか?」
「すご! ホントにどうして分かったの?」
「夏音が今日、すみれちゃんの家に遊びに行ったことはお母さんから聞いてたからな。大全に話を聞きに行ったんだろう?」
「当たり」
「あのバカはなんて言ってた?」
「写真に写ってるのはエリカさん本人かと思うくらい似てるって」
「見せてもらっていいか?」
「うん」
夏音はスマートフォンを差し出す。写真と動画を見て錠次は「まったくだな」とつぶやいた。
「もしかして幻覚を見たんだと思ったの、昨日?」
「名推理だな。さすがわが孫だ」
「大全さんがそう言ってたの」
「あのバカにしては冴えてるな」
「ほんと、お互いに口が悪いよね」
夏音がクスリと笑うと、錠次は「いずれにせよ」と言いながらスマートフォンを夏音に返す。
「幻覚じゃなかったってことが分かってホッとしている。夏音のおかげだ」
「ちょっとドキドキしたけどね」
「すまなかった」
「また、そういう言い方。あ、でも、一緒に行ってくれる? K町」
「構わない。ただ、いまさら行ってどうするつもりだ?」
「大全さんが言ってた。もしかするとエリカさん、実家に戻っているかも知れないって。そしたら四十年前のことも教えてくれるかもって」
「ということは、あいつもついて来るってことか」
「あ、うん。すみれも」と夏音は少しうつむき、上目遣いで言う。「ダメだった?」
「構わないさ。大全の目的はすみれちゃんとの旅行だろ。おじいちゃんのことは口実だよ」
「それは否定できないけど……気にかけてくれているとは思うよ」
「いいさ。計画は任せていいのかな?」
「うん。大全さんがやってくれるって」
「そうか」
部屋を出て行こうとした夏音はふと立ち止まり、振り返って言った。
「あのね、おじいちゃん。こんなこと聞いてあれなんだけど……まだ、その、あの」
「もう四十年前のことだよ。お前のお父さんでさえ生まれていない」
「……だよね。うん、ごめん」
そして静かにドアを閉めて出て行った。
孫を見送ったあと「ふふ」と苦笑いを漏らした。夏音が去り際に聞こうとしたのは、まだエリカのことを思っているのかということだろう。
錠次のなかではそういう気持ちはとっくに失せている。遠い過去の出来事としてすでに終わったものであり、恋愛感情はきれいに消えていた。なにも告げずに姿を消したことに対する苦々しさも恨みもない。当時は苦しんだものだが……ときの流れは苦悩を癒やす万能薬だ。
大全の言うように、もしかするとエリカは実家に戻っているのかも知れない。いったん戻って、誰かに嫁いだのかも知れない。もし家庭を持っていたとしたら、昔の恋人がのこのこと現れても迷惑なだけだろう。
「いや、そうでもないか」
エリカのサバサバした性格からして「あら。久しぶりね。どうしてた?」くらいのことは言いそうだ。そういったことも含めてこの旅行を楽しむことにしよう、と錠次は思った。
もしエリカが生きていれば七十歳。昨日、街で見かけたあの女性とは違う姿になっているのだろうが……錠次は老婆になったエリカがイメージできなかった。
再会したいという気持ちは、まったくないとは言わないが、さほど強くもなかった。再会できてもできなくても、どちらでも構わない。感傷めいたものはなかった。
いまの錠次にとってなによりも大切な存在は夏音であり、息子夫婦であり、穏やかな日常だ。自身の衰えによって、その日常はじょじょに蝕まれていっているが、まだしばらくは持ちこたえるだろう。その時間を大切にしたかった。日常生活が送れなくなったときは施設に入れてもらうように準備も整えている。
ともあれ、錠次にとって今回の旅行は夏音と一緒に過ごせるという意味で、おおいに楽しみなものとなった。