序章
少女がベッドの上で目を覚ましたのは、喉を噛み破られる二十分前だった。
朝の光が部屋のなかに差し込んでいる。
清々しい気分とともに身体を伸ばし、すぐにシャワールームへと向かった。「朝一番でシャワーを浴びるように」とは昨夜、医師から言われたことだ。
温かいシャワーの湯が少女の肌の上で弾かれる。石けんやシャンプーがなかったので、髪の毛を濡らさないように気をつけた。
備え付けのバスローブを素肌にはおり、部屋に戻る。
窓を開けてバルコニーに出てみた。
緑の芝生が広がり、その先は森になっている。のどかな鳥の鳴き声が聞こえた。
しっとりとした少女の肌の上を風が優しく通り抜けていく。
「びっくりしただろうな」
両親のことを考えて、ついクスッと笑う。怒られることはないと思うが、心配させたことについては申し訳ない気持ちだった。
少女がいまいる場所は病室だ。
昨日の夕方、献血センターから緊急搬送されたと聞かされた。献血をしている途中で意識を失ったとのことだった。
少女には途中までの記憶しかなく、気づくと病室のベッドにいた。
夜になっていた。すぐに医師がやって来た。
薄いフレームのメガネをかけた医師は簡単な検診を済ませたあとに説明をしてくれた。
献血中に貧血を起こしたこと、心配するほどではないこと、念のための入院であること、家族には連絡したこと、面会時間が過ぎているので翌日来てもらうようにしたこと……。シャワーのことを言われたのもこのときだった。
その後、夕食が出された。
じゅうじゅうと鉄板の上で音をたてている特大ステーキ。そしてボウルいっぱいの新鮮なサラダ。見るからに美味しそうだったが、実際に口にするとそれ以上だった。
食後はすぐに眠った。病室にはテレビもなく、少女の持ち物はスマートフォンも含めて献血センターで預かっているとのことだった。
少女はぐっすりと眠り、そして先ほど、これ以上はないほどの清々しい気分で朝を迎えたというわけである。
部屋のドアがノックされ、返事をする前に男が入ってきた。
昨夜の医師とは違う人物で、Tシャツにデニムとラフな恰好だ。腕が太く、胸板が厚い。本来なら警戒すべきはずだが、少女は笑顔を浮かべたまま男を迎える。彼のたたえている笑顔に、ついつられたかたちだ。ドキッとするほど整った顔立ちをしていた。
「おはよう! ゆうべはよく眠れた?」
気さくな声に少女は素直にうなずく。
「はい、おかげさまで」
「それは良かった」
男が近づいてきて、自分の胸に手を当て軽く頭を下げる。
「僕の名前は岩志木幻弥」
「あ、はい。私の名前は、」
「いいよ」
岩志木が首を振って言葉を遮る。
「え?」
「君の名前には興味がない」
少女は傷つく。気分が一瞬で台無しになった。
だが、直後、彼女は人生そのものが台無しになることを知らされる。
「僕は吸血鬼なんだ。だから興味があるのは、君の血液」
「はい?」
戸惑う少女の肩をつかみ、岩志木は喉元に歯を立てる。
激痛が身体を貫いた。しかし叫ぶことはできなかった。抵抗することもできない。岩志木の力は圧倒的だった。
薄れゆく意識のなかで少女が聞いたのは「ごくごくごく」という血を飲む音だ。
一滴たりとも残すつもりはない、という強い意志を感じさせる、それは轟音だった。