エレベーター 下り
鉛色の雲が今にも落ちてきそうな空だ。十二階建てのマンションの上を掠めるように流れている。
オレは押しつぶされそうな息苦しさを感じ、制服のネクタイを少し緩めた。明るいのか暗いのかわからない。雨が降るのだろうか。薄ぼんやりした光はもがいているようで、どちらに転んでも可笑しくはない。
「まだ四時か」
オレは時計を見た。
普段は部活でこんな時間に帰ることはないのだが、今日は試験一週間前だ。息苦しさは天気のせいだけでもないのかも知れない。
「あー、今度悪かったら部活停止だよ。そりゃ、万年補欠だから誰も困らないけれどさ」
オレの高校では成績によってクラブ活動を制限されるという暗黙のルールがある。所属しているサッカー部もそれに従って赤点三教科が二回続けば休部扱いになる。
オレの名前は羽鳥真治、二年生。今回の期末試験が正念場だ。中間はなんと九教科中、五教科追試だった。
「やっぱり英語がネックだよねー」
大声で独りごとをマンションの天井に向かって放ってみる。
早く帰って一応勉強でもしてみるか。そう思ってエレベーターのボタンを押した。オレの家は七階。いつもならすぐ横の階段を使っているが、その元気もない。
「ネットもゲームもあとあと。根性入れればなんとかなるっ!」
力を入れて叫んでいると、エレベーターが音もなく前に滑り下りてきた。
うちのエレベーターはセキュリティー重視のために扉に大きな防犯窓が付いており、中に乗っている人の上半身が見える。今回は小学生らしい少女がいた。いや、もしかしたら保育園かも知れない。
オレは出入口の前で少女が出てくるのを待つ。しかし彼女は奥の隅に立ち、一向に降りる気配がなかった。
身長も低いし、俯いているし、で表情はわからない。赤いワンピースの裾が青白いLEDライトの中で揺れていた。
「あ、降りないの?」
ややあってオレは聞いた。
すると少女はいやいやをするように小さく首を振る。
たぶんボタンを押し間違えたのだな、と解釈してオレは無言で乗り込んだ。まあ、仕方ないか、子供だし。
「――で、君は何階?」
オレは自分の降りる七階のボタンを押し、ついでだから少女に尋ねた。
「…………」
返事はない。
まあ、最近の子は知らない人と会話しないし、彼女もそう両親に教えられているのだろう。じろじろ見るのもよくないかも、と背中を向け、それ以上は聞かなかった。
しかし黙っているだけというのもなんとなく落ち着かない。せめて顔見知りであれば笑って挨拶するのにと思う。見知らぬ相手と密封された空間にいるというのは、なんとなく気づまりだ。
意識したわけでもないのに向けている背中が重い。
「コ、コホン」
オレは思わず咳払いをした。
一メートルほど後ろにただ立っているだけの少女に圧倒されている?
(はあ、なに意識してんだ、オレ)
相手はまだ年端もいかない子供だ。
オレはエレベーターの窓に目をやった。上る速度に合せて外の風景が途切れ途切れに見える。うどん屋の屋根、向かいのマンション、そして遠くの山並みが少しずつ見えてきた。
〈そろそろかな……〉
オレはカバンを握り締め、降りる用意をする。
しかしいつまでたっても目的の七階には着かなかった。
箱はどんどん上がってゆくのに時間は経っていくのに。
〈な、なんで?〉
故障か。いや、ちゃんと動いている。
しっかりしろ。なにかあったら外部連絡ボタンもある。大丈夫だ。子供も乗っているんだし、オレが取り乱していてどうする?
わかっているが、背中に冷たい汗が流れた。
「お兄ちゃん……」
その時、声がした。
か細い、すすり泣くような声だった。しかも語尾には今のオレを笑うような響きを持っている。
真後ろだ。
それもすぐ、触れられるほど近い。
振り向いたわけでもないのにオレにはそれがわかった。腰に彼女の前髪が掛かる。
さらりとしたやや茶色がかった髪。
その下にはやけに白い肌が、血の気のない薄い唇が、ある。
この場合、平気だよと優しく言ってやるのが筋だろう。しかしオレは声が出なかった。心臓が大きく脈打つ。
〈…………〉
細く引きつりながら、オレは浅い呼吸をする。
少女の沈黙が怖かった。
エレベーターが停まらないことよりも突然の金縛りよりも沈黙が怖かった。永遠という言葉がわかった気がする。外は夕方の時間が流れているのにここにはない。
見慣れた風景。上がり続けるエレベーター。
オレは肩を揺らし、空気をもっと取り込もうとした。そうすれば楽になれる。もう少し自分を取り戻せる。
しかし駄目だった。
鼻からも口からも入ってこない。水の中でもがいているようだ。
(頼む、たのむ停まってくれ)
オレは全身汗まみれになりながらようやく動いた左手で七階のボタンを連打した。
扉、扉だ、とにかく扉! 七階!
(開け、あけっ)
もう何度押したかわからない。焦り、狂いそうだ。親指がつぶれても構わない。体重をかけ、全力で押して、押した。初めて真剣に祈ったかも知れない。神でも仏でも良かった、この状況を救ってくれるならば。停まれ、とまれ、停まれっ。そして酸欠で意識が闇に吸い込まれそうになる瞬間、扉が開いた。
「――が、がはっ」
エレベーターから転がるように出た瞬間、オレはつぶれた肺に押し込むように空気を吸った。
「ゴボッ、ゴホホッ」
咳き込むが関係ない。四つんばいになりながら震え、外気を取り込んだ。
こんなにも酸素がありがたいなんて思ったこと、なかった。
気がつくとエレベーターはなく少女もいない。
それからどうやって家に辿り着いたのかはわからない。廊下をふらつきながら歩いたのだろう。母の「おかえりぃ」という間延びした声で現実に引き戻された。
「早かったわね。ああ、もうすぐテストだっけ」
母は台所で新聞を読んでいた。
「……うん」
「ん、なんか顔色悪いわね」
「風邪、かも」
「えー、こんな時期に?」
本当のことは言えなかった。口にしても信じてもらえないだろう。自分でも悪夢のような気がするのだから。
「真治ったら、試験間際になると体調が悪くなるんだから。今回も風邪のせいで頭が回りませんでしたってことにしたいんだ」
「まさか……」
オレは真顔で答えた。まだ肩に何かが残っているようで重い。冷たい汗が全身に張り付いている。
「違う」
「な、ならいいけど」
「大丈夫」
「あ、そ、そう。一応薬飲んで寝なさい。本当なら慶司君のこととか言いたいところだけど」
「ありがと」
慶司というのは同じ階に住んでいる同い年の奴だ。向こうは公立のトップ高。オレは二流の私立。学校が違うから顔はめったに合さない。でも母親同士は近いこともあってしょっちゅうしゃべっているらしい。いつもテストや勉強のことで比べられているが、今日は本当に具合悪く見えたらしい。
「ありがと、ありがとね、母さん」
オレが何度も礼を口にすると、母は戸惑ったように首を傾げた。
(――疲れた)
そのまま部屋へとなだれ込んだが、眠ることは出来なかった。
オレは一心不乱に勉強した。
たぶん傍からみれば部活がかかっているから熱心に取り組んでいる、と見えただろう。休み時間も暗記に専念した。友達は「根性入れてるじゃん、さすが崖っぷち」と明るく笑っていた。
しかし本当のオレはただ現実逃避をしたかったにすぎない。それにはノートを目で追っているのが一番簡単だったのだ。まだ後ろに前髪の感触が残っている。
頭に詰め込んだらきっと記憶は追い出せる。オレはそう信じてテスト勉強に専念した。
二回、吐いた。
そして幸か不幸かオレは苦手な英語以外をクリアし、部活を続けられることになった。
「取りあえず良かったじゃない」
母は微笑んだ。
だがちっとも良くはなかった。部活に出てもいいのにオレは極端にやる気をなくしていた。サッカーをして帰ると夜は七時を過ぎる。遅くなった時間にマンションに入る勇気がないのだ。あのエレベーター横の階段を使うのも寒気がする。オレってヘタレだと思うが本能がレッドーカードを出しているのだから仕方がない。
まだ、いる。
そして今度は停まる保障はない。
馬鹿みたいな予感がオレを苦しめる。
「真治、またサッカー休んだの」
母はあきれていた。
「どうしてよ。あんなに熱心だったのに」
「別に」
「性格も明るいだけが取りえだったのに変よ」
「風邪」
「もう十日以上になるじゃない。なにかあったの? 私に言い難かったら、お父さんに相談しなさい」
「別にいいよ」
正直、ウザいと思った。心配なのはわかるけれどどうしようもない。たぶん時間が解決してくれるだろう。そう、時間がかかるのだ、忘れるには。元もと霊感なんてないのだし、気のせいだと笑い飛ばせる時が来るに違いない。
オレは制服を脱ぎ、いつものトレーナーに着替えた。
「真治、ちょっと付き合いなさい」
「え、今?」
「そうよ。頼んでいた空気清浄機が届いたってさっき電話があったの」
「持ってきてもらえばいいのに」
「いいじゃない。お駄賃にあんたの欲しがっていたDVDを買ってあげる」
本当は外に出たくなかった。
しかし母の気持ちもわかる。気分転換に連れ出そうとしているんだ。それにテストの成績が良かったという要素が加わっているのだろう、プレゼントなんて誕生日しか貰えない。
「…………」
「迷っているなんて真治らしくない。それに重いものを持つのは男の仕事でしょう。さ、早く」
母はオレの背中を押した。
「いや、迷ってなんか」
「じゃあ、お団子でもつけるか」
「ガキじゃねーよ」
母はニコニコと天真爛漫に笑っている。
(まあ、いいか。二人だし)
閉じ篭りが精神状態に良くないのはわかっていた。オレだって早く日常生活に戻りたい。それにお駄賃+αは結構魅力だった。
乗らなければ良いんだ。なんだかそんな気がした。
しかし母はいつの間にかエレベーターの前に行くと下りのボタンを押していた。
「ち、ちょっ、オレは階段で行くし」
オレは拒んだ。
「なに言ってるの」
「エレベーター使うと身体が鈍るし」
「いいじゃない、もう来るわ」
母はついでだからとオレの腕を掴んで離さなかった。こうなると説明する言葉がない。子供が怖い。狭い所が嫌。どれもオレらしくない。もう駄々っ子のように首を振るだけだ。ヤバい、と思った瞬間、エレベーターは降りてきた。どうやらすぐ上の階に停まっていたらしい。
「――あ、奥さんっ」
扉が開くと同時にお腹を抱えた女性が倒れ伏しているのが目に入った。
オレは驚きですべてが飛んだ。
「大丈夫、多田さん。ちょっと真治、降ろすの手伝って」
「わかってるっ」
母の声が早いか、オレは動いていた。彼女とは時々すれ違っているので顔は知っている。何ヶ月かわからないが、お腹の大きな妊婦だ。
身体を抱きかかえ、なんとか床に座らせる。
「なんだか立ちくらみがして……」
「貧血かしら。動かない方がいいわ。お家に誰かいる?」
「いえ」
母は多田さんの背中をさすっていた。多田さんは頭を押さえ、苦しそうだ。
「あ。水でも持ってこようか」
オレも何かできないかと彼女の顔を覗き込んだ。
「――チッ」
その時、舌打ちのような音が聞こえた。
驚いて音がした方を振り返る。と、あの少女がエレベーターの奥に立っていた。
俯いている。
赤いワンピースはそのままだ。
いつからそこにいたのか、あるいは最初から乗っていたのかわからない。両手をだらりと垂らし、自分の靴を見ている。
「……う」
動揺することはない。たまたまだ。この子は階上の住人で居合わせたことは偶然に決まっている。妊婦がうずくまったところでどうのこうのできる年齢ではない。
頭ではわかっているのにオレは固まった。今にもこちらの方に向かって歩いて来るのではないかと怯えた。
しかし少女は動かない。
下を向いたまま、こちらを見ようともしない。
「邪魔をされた」
そして扉が閉まる瞬間に、オレは確かに細い声を聞いた。
ふと足元に目をやると断崖絶壁。そこをつま先立ちで歩いている。オレの心境はまさにそれだった。気がつかなきゃいいものに気がついてしまった。周囲は暗い闇だ。誰も助けてはくれない。もう、後戻りはできない。かと言って進むことも立ち止まることも無理だ。途方にくれるしかない。
マンションに住んでいる以上、エレベーターは避けては通れない道だった。そこは安全で落ち着く我が家へと続く道だった。階段を使ってもすぐ横にエレベーターがある限り、安心はできない。
オレは学校への登下校にも神経が尖ることになった。もちろんこんな状態でサッカーは無理だ。試験明けてから一度も出ていない。
「なあ、真治、お前どうして部活に出て来ないの?」
痺れをきらした仲間がオレに声を掛けてきた。
「今さらガリ勉に転向?」
「まさか」
オレは苦笑いをするしかなかった。
「先生も気にしてたぜ」
「補欠なのに?」
「馬鹿いうなよ。真治はムードメーカーだしな。いないと盛り上がらないよ。三年は受験だし、オレ達二年で頑張らないと」
「万年補欠っていうけど、今度の紅白戦でレギュラーを入れ替えるらしいぜ」
いつものオレなら目を輝かせて身を乗り出すだろう。しかし〈いつもの〉ってなんだろう。今日は昨日の続きで、今日は明日へと変る。〈いつもの〉の言葉がいつも続くとは限らないのだ。
「な、真治。休んでいる理由あんの?」
「俺達に相談できないようなことなのか」
「いや」
「じゃあ言えよ。楽になるだろ」
「それは――」
オレは口を開きかけてやめた。
やっぱり駄目だ。エレベーターの女の子がコワくて夜遅く近づけないなんて笑い話だ。それも怖がっているのはオレの一方的で、なにかされたわけでもない。立っている。ただそれだけのことだ。謎めいたセリフも聞き間違いだったかも知れない。呼吸ができないなんて単に事故だとパニっくってるオレが悪いだけかもしれないし。妊婦は偶然。あの子はただの住人。
……結局、オレの闇は簡単に説明できないということだ。
「ちょっと親の具合が悪くて、さ。早めに帰って用事しなきゃいけないだけ」
「え、入院でもしたのか?」
「そこまで酷くない」
友人はみんな信じたようだった。こういう時に正直者は疑われない。オレは日頃の行いが良かったということか。
「んじゃ、仕方ないか」
「先生には言っといてやるよ」
みんなスマン。いつか元気になったら話すよ。オレは背中に語りかけた。今はただ日常が日常として感じられないから無理だが、早くその日がくればいい。ボールを追って夢中で走り回れる日が。
こんな不安定なこと考えるのなんてたくさんだ。
「あ、あのさ。ところでみんな付いて歩く影法師に疑問を持ったことはない?」
オレは気づくと自分でも驚くような問いかけをしていた。
「はあ?」
「いや、だからさ、だから、たとえばの話だよ。影法師なんて普段は気にしないよな。それがいて当たり前なんだから。でも昨日の影法師と今日が同じって保障はないんだぜ。ちっとも当たり前じゃない。闇はどこにでも潜んでて、だな。簡単に顔を出すんだよ。そしたらもう戻れなくて」
「真治?」
「オレにもよくわかんねーよ。なんでだろ。こんな質問、するつもりじゃなかったのに」
オレは病んでいるんだな、と思った。
そういえば最近眠りが浅い。耳元で囁かれている気がする。
「お前、しばらく休んでろよ」
「ん……ああ、すまない。そうさせてもらう」
オレは額に手をあて溜め息をついた。
嘘から出たマコトというものは本当にあるようで、家に帰ったオレの机に一枚の紙切れが乗っていた。
『真治へ
おばあちゃんが倒れたらしいの。詳しくわかったら連絡するね。今日は帰れないかも知れないからお父さんの分とお弁当買っておいて』
ちくりと良心が痛んだ。
オレが嘘をついたのはおばあちゃんではないけれど。
「お弁当を買え、か」
新しい千円札が二枚置かれている。これで買えということだろう。
オレは暗くならないうちに買おうとそれを持って家を飛び出した。もちろんエレベーターは使わない。全力疾走で階段を下りるだけだ。
マンションの前まで出ると久しぶりに慶司とばったり出会った。
「真治じゃないか」
「おう」
珍しく慶司が先に声を掛けてきた。
「あれ、お前、家に戻らないの?」
慶司は制服のままマンションを素通りしようとしている。
「僕、塾なんだ」
黒い縁のメガネを上げながら真治は答えた。
「駅前のね。新しくできた個別塾に替えたんだよ」
「オレ買い物。母親に頼まれちゃって」
「ふぅ~ん」
小学生時代はよく遊んだが、今では思い出にすぎない。ひょろりと背が高く、いつも眉間に皺を寄せているような慶司とは話題が合わないのだ。
「君さ、なんかマザコンっぽいね」
「オレが?」
「まだお使いしているなんてさ」
「親孝行だろ」
「本当の親孝行って良い成績をとり良い大学に行く。つまり心配かけないことだよ」
上から目線で説教をくらっている気分になった。駅前のコンビニだから方向は一緒だから仕方がないけれど、並んで歩くのがなんだか苦痛だ。
「それもそうだけど」
「勉強は三年になってからでは遅いよ、難関と呼ばれる大学はさ。国立を目指すのだったら二年でも遅いけどね」
「はいはい」
どこで道が違ってしまったのだろうと思う。昔は公園で一緒に鉄棒を練習したのに会話が続かない。
「あのさ、慶司」
「なに?」
「ううん、別に」
歩いていると交差点の前まで来た。目の前の信号は赤だ。
「羽鳥君、羽鳥真治君」
待っていると横から駆けて来る姿があった。多田さんだ。
「あ、どうもこんにちは」
「いい所で会ったわ。お礼が言いたかったの」
彼女はこの前とは違い、元気そうに笑っている。買い物の帰りだろうか、両手に袋をさげていた。
「あの後、念のために病院に行って点滴をしてもらったわ。そしたら驚くほど体調が回復してね。赤ちゃんにも影響ないって。お母さんにお礼を言わなきゃ」
「良かったですね」
多田さんは大きなお腹を擦り、頭を下げている。
無駄にお節介の母も、たま役に立つんだとなんだか嬉しかった。
「じゃあ、また改めてお礼に伺うわ」
「はい」
オレ達が話していると信号はいつの間にか青になっていた。
慶司は何ごともなかったように渡っている。
〈ち、まったく。ちょっとの話くらい待ってくれてもいいのに〉
オレは腹の中で毒づいたが、親友でもないので無理からぬことかも知れない。
「おい、慶司。まって……」
オレは多田さんに一礼し、彼を追って行こうとした。
しかし声は途中で誰かの叫びに消された。
黒のワンボックスカーが勢いも衰えぬまま、突っ込んで来た。
前を行く慶司が一瞬見えなくなる。
次の瞬間、弧を描き、先ほどまで彼が履いていた靴が飛ぶ。
け。
い。
じ。
鈍い音だった。
固いアスファルトにぶつかり、大きくバウンドする。糸の切れたマリオネットが空中に放り出され、捨て置かれたようだった。鞄から荷物が飛び出し、オレの足元に筆箱が転がって来た。
〈――え?〉
色々な叫び声が交錯する。
何だ。
何があったのだ。
「慶司ーーっっ!」
オレは気がつくとありったけの大声で叫んでいた。
なんでだよ、なんでだよ。
ワンボックスカーの運転手は携帯を耳に押し当てたまま、痙攣を起こしたように震えている。
「慶司、慶司っ、慶司っ!」
オレは名前を呼んで駆けつけたが、周囲の人に抑えられた。
「友達かい、落ち着きなさい」
「今、救急車を呼んだから」
「家族に連絡してあげて」
通行人らしい人が口々にオレに言う。
足がガタガタ震えた。
目の前でまさかこんなことが起きるなんて。車にはねられるなんて。まさか。
遠目に見た慶司は横たわり動かない。メガネのレンズに亀裂が走り、欠け落ちているようだ。
「けいじーっ」
オレが正気に戻ったのは救急車が到着してからだった。その間はどのくらいだったのかわからない。救命士が手際よく担架の上で身体を固定していく。その冷静な行動を見て我に返った。
「えー、君は友人だそうだけど名前と住所は知っているかい」
救命士がオレに聞いて来た。
「は、はい」
「このまま病院に搬送にするんだけれど」
「わかっています。親に連絡すればいいんですね。家はすぐ近くなんで」
電話番号もアドレスも知らないが、ご近所であることは確かだ。
オレの幼馴染だ。
「じゃ、我々は急ぐんでよろしく頼む」
「はいっ」
そのセリフが終わらないうちにオレは走り出した。
ここからなら五分程度しかかからない。たぶん母親は専業だろう、家にいるにちがいない。
〈おばさん、慶司が大変なんです〉
ゆるい登りの坂になっているが、オレは全力疾走した。
自動ドアが開くと飛び込むように駆け込んだ。
目の前にエレベーターと階段がある。
どちらが早いかというと右のエレベーターだ。しかしオレはこの期に及んで躊躇した。
馬鹿、大変なんだぞ慶司は。
階段を選ぼうとしている自分に驚く。
そんな場合じゃないのに。
「――え」
躊躇していると、呼んでもいないのにエレベーターがするりと下りてきた。
扉が沈黙の中で開く。
「……け、けい?」
声にならなかった。
空気の出入りする音がオレの口からする。
それもそのはず、さっき運ばれた慶司がそのエレベーターの中にいた。
いたのだ。
目はうつろで焦点が定まっていない。割れたメガネはそのままに片方の耳からずれている。
〈み、耳〉
最後に見た時と違っていたのは両耳から血が流れ出していたところだった。
どろどろと膿のような赤が太い流れをつくり首筋へと伝っている。そしてその首筋から漏れ出たものは肩に大きくシミをつくり手首に伝わる。
エレベーターにぽたりぽたりと血だまりが広がっていた。
「う、あ」
頭が真っ白になる。
これも夢だ、夢なんだとオレは叫びたい。
悪夢だと叫びたい。
ああ、でも横で少女がうつむいている。唇から嘲るような笑い声がする。
少女は慶司の袖口をつん、と引っ張った。
「――運が、良かったな」
少女はゆっくりと顔を上げた。
そしてオレににっこりと微笑みかける。唇の両端は綺麗にあがり、見とれてしまうほどだ。
オレは少女を見つめ、痙攣のように身を震わせた。
ない。
あるべきものが。
目の部分には腐った肉色の空洞が虚しく広がっている。
ぽっかりとした眼窩は何も映さない。
赤黒く干からびたモノが辛うじて目頭から覗いていた。
少女は慶司を背に一歩進む。ちょうどエレベーターの中央だ。
オレは合うこともない視線に射すくめられた。
「……フン」
少女は鼻を鳴らした。
凍えそうな風がエレベーターから吹いている。
背骨に突き刺さるような風だ。
もう駄目かも知れない。
勝ち目はない。
闇に飲み込まれる。
あきらめたその瞬間、また来た時と同じように突然扉が閉まった。
するするとエレベーターは下に降りてゆく。
最後に慶司は何か言いたそうに口を開けた。しかしそこから出たのは折れた歯と真紅の泡だけだった。ごぼりと溢れた泡が言葉の代わりに流れ出す。泣いているような、笑っているような顔をしていた。
オレはそこに呆然と座り込み、少女達が完全に見えなくなっても動けずにいた。
運が良かった、そうかも知れない。今日はたまたま良かったのだ。明日はそうなのだろうか。それとも。
「う、わあぁぁぁぁぁっっ」
オレは叫んだ。
このマンションに地下は、ない。
読んでいただきありがとうございました。
恐怖というのはきわめて個人的なことだと思います。
完全な「作り話」でどれだけそれに近づけるか考えてみました。
なお、うちのマンションはよく六階で停まります。
一階に着いた時に「お先にどうぞ」とつぶやいてから降ります。
後から着いてこられたら困りますから。