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「ずいぶん世話になったな…」
年齢と疲労を感じさせる嗄れた声で男は言った。
「いえ、お身体の具合はどうでしょう?」
出血を伴う外傷は無いものの手当ての際に男の気脈が弱っていることに気付いていたシオンだったが、そう聞かずにはいられなかった。
「あぁ、こうして体を起こす事はできる…」
男の言葉は、裏を返せばそれ以上のことはできないと告げていた。
「すぐ食べれる物を用意します」
男の身体を思えば当然、粥のようなものが良いのは分かるが如何せん自分も遭難の身、肉と果実しか無い有様、よく熟れた桃のような実を熱して溶かし、適度に冷まして男のもとへと運んだ。
「五日程寝てましたから肉より食べやすいと思います」
男は黙って受け取ると一口、二口と口に運んでから言った。
「この様な食べ方があるんだな…いや、なかなか美味いではないか…」
シオンとしては、苦肉の策として用意したものだったが、男は瞬く間に平らげた。
果実二つ分ほどの量を食べると満足したのか、男は「横にならせてもらう」と言って体を横たえた。
シオンは回復の邪魔にならないように「ゆっくりおやすみください」と告げて、その場を離れた。
それからは白湯と果実の羹で繋いでいた男の容体だったが、三日も過ぎると本人の希望もあって肉を食べるようになった。
肉といっても茹でて柔らかくしたものに果汁を絞ったものであり、その味からあまり口に合わないのか、食べる量が増える感じでは無かった。
それでも肉食の効果か、多少血色も良くなり、体を起こしている時間も増えてきていた。
「ここは何処なんだい?」
男の唐突な質問にシオンは答えに迷った。
やっと回復の兆しが見えてきた男に、事実を告げて絶望を与える意味があるのかと思ったのだ。
シオンが答えあぐねていると男は言った。
「ふん、どうやらツキのない状況らしいな…」
男は筵でできた天幕をみて、達観したかのような表情でそう言った。
そのためシオンは、隠しても仕方がないと事実を告げることにした。
「はい、ここが何処だか私にも分かりません…
ただ調べた結果、崖に囲まれた窪地の底のようで何処にも出口がない場所です」
「そ、そうか…」
男は息をのむとそれだけ言って目を伏せた。
「と、とりあえず食糧と水はなんとかなります…といっても果実と偶に崖を落ちてくる鹿とかだけですが…」
「ふむ…」
「あ、あと魚も…
僕は、こうして一年近く生き長らえてます…大丈夫ですよ、助かりますって!」
シオンは、男を励まそうとそう言ったのだが、一年と聞いて男はかえって顔を顰めた。
「とりあえず、この傷では何もできん…儂は寝かせてもらうよ…」
男は、そう言うとシオンに背を向けて横になった。
シオンも今はそっとしておくべきと、それ以上は言葉をかけるのをやめて、男が動けるようになった時の為にと、杖の代わりになりそうな木の枝を探しに行くことにした。
肉を食べるようになって男の体調もいくらかましな状態になった。
シオンの作った杖を使い、たどたどしいながらも自足歩行ができるようになった。
ただ男はそれでも排泄以外では野営地から離れることはなく、日がな一日、寝たり起きたりを繰り返すだけであった。
シオンも同じ様な習慣になりかけていることに焦りを覚えていたが、男の来歴も分からず拠点への移動を行って良いのかを迷っていた。
それでもこのままでは男の体はまだしも心を助けることはできないと思い、決断し、拠点へ移動することに決めた。
「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね、僕の名はシオンです。
なんとお呼びすればいいですか?」
「そうだったな、儂の名はオレンというが、まぁジジィでも爺さんでも好きに呼べばよい」
「ではオレンさんと…
それでお見受けしたところ、だいぶ身体も動くようになったみたいですので、ここから移動しようかと思いまして…」
「移動?
行く宛のない谷底と言ってなかったか?」
「はい、そうなんですが…
これより一日半くらいの場所にもう少しましな拠点がありまして…
ここでは風雨を避けるにも難儀ですので移動するべきかと…」
「一日半か…」
「いえ、今のオレンさんの足でもという意味ですから、歩き始めれば案外速いかもしれません」
「うーん、まぁ儂としてはシオンどのに任せるしかないが…」
「わかりました。明日以降の天気で出ることにしましょう」
シオンは、そうは言ったものの、拠点まで二日はみる必要があるかなと、出発の為の準備に取りかかるのだった。
結局、小雨の日を挟んで出発が遅れたが、二人は十日以上過ごした野営地を後にした。
実はシオンは循環法を駆使し、何度か拠点まで戻っていたのだが、この野営地にこんなにも長く居たのは洞窟から出て以来だったなと少しだけ懐かしく思っていた。
小雨の後の為、滑ってはいけないとシオンはオレンを支えるように歩いていた。
オレンは歩き始めに一度、「すまん…」と言ったきり無言で黙々と足を進めるだけであったが、ここ数日をみても寡黙な人だとシオンも感じていたので、無理に話しかけることはせず、ただ支えることに集中して歩いた。
小雨の影響は滑るだけでなく、所々に小さな泥濘をもたらしていた。
それは小さな泥濘だったが、杖をつく老人には難所であり、その度にシオンはオレンを背に背負った。
そうして拠点までの距離の半分も行かず夜を迎えた。




