63
魔獣が笑ったように見えた。それはこれでお前をいつでも殺せるぞと嘲笑うかのようであった。
事実、魔獣の膝がシオンの脚を捕らえていて逃げられない状態だった。
だが、不思議なことにシオンが重さを感じることはなかった。
それらは一瞬だったのか、それともそれなりの間だったのか、シオンの顔を満足気に見下ろしていた魔獣が再び咆哮をあげて牙を剥いた。
シオンは、まるでスローモーションのように魔獣の牙が自分の首筋を狙って迫るのを見ていた。
まさに噛みつかれると思った瞬間、動けないながらも後ずさろうと伸ばした手が何か硬いものを掴んだ。
シオンの脳裏に、僅かながらの反撃の思いが湧いた。
循環法を駆使して、目にも留まらぬ速さで掴んだそれを魔獣に突き立てた。
刹那、一人と一匹の間を不思議な静寂が包んだ。
が、その束の間の静寂も魔獣によって破られた。
魔獣は轟音を立てシオンの脇へと倒れていったのだった。
寸前、深紅の瞳がシオンを見据えていたが、シオンはその瞳の奥に憎悪の炎が見えた気がした。
這々の体で這いずりながら魔獣と距離を取ったシオンは、自分の手の中を見た。
シオンの手の中にあったのは、陽光に照らされ輝く、白くて大きな牙であった。
それは魔獣自身が咆哮とともにシオンへ吐きつけた牙であり、先程シオンの腕を傷つけた攻撃の正体であった。
漸く息の整ったシオンが、魔獣の様子を確認すると、魔獣は完全に死に絶えていた。
シオンは気になることがあって、真っ先に自分が与えた傷を確認した。
「やっぱりだ!」
シオンが気になった事、それは今も手にある牙での一撃のその手応えであった。
過去に行った検証で、循環法を使う際に循環速度を上げていくと、通常よりも攻撃の威力が上がることは分かっていた。
あの瞬間、シオンは命懸けの心情の中で普段にも増して循環法を駆使したことは間違いなかった。
そうとしても、改めて魔獣の傷を見てみると魔獣の分厚い皮と脂肪を物ともせず、その深さはシオンの手首が埋まるほどまで深く穿つかれていた。
シオンはもう一度、あの瞬間を思い返していた。
あの瞬間、掴んだ物(今となっては魔獣の折れた牙だと知っているが)は、確かに半端な刃物よりも鋭利であったが、業物と比べれば、くらぶるまでもない程度である。
例え循環法で強化された腕での振りだしたとしても分厚い魔獣の皮を手首まで突き刺すことなど不可能であろう。
だが、シオンはそれを成した。
それがどれほど異常なのかは、自分が一番分かっているからこそ、検証の必要性を感じていたのだ。
そうして細かく思い出す内に、一つ思い当たったのは、死に物狂いで突きを出した際、まさに突きこむ瞬間、その手に握っていたはずの魔獣の牙の存在を認識できなくなった事だった。
魔獣の牙が、まるで自分の手の一部かのような繋がりを感じたのだ。
それは魔獣が轟音を立てて倒れた後、暫くして無意識に溜めていた息を吐き出すまで続いていたのだ。
シオンの脳裏に何故か、「書」の絵、あの魔力が纏われた剣の絵が浮かび上がった。
だが、検証もそこまでであった。
酷く疲れたシオンは、いつの間にか眠りについていたのだった。
あれから数日、シオンの環境は様々に変化していた。
変化の中でもここ数日、食卓に肉が上っていることがシオンには一番の喜びであった。
元々、街でも魔獣の肉はよく食べられていたのだが、大型の魔獣の肉は高級食材であり、シオンの口に入ることは無かった。
魔獣の肉ともなると何やら忌避する者もいるのだが、さして普通の動物の肉との違いなど無く、それどころか魔力の影響なのか、同系統ならば魔獣の肉の方が柔らかくて美味いと言われているのである。
シオンも食するのは初めてだったが、ただ焼いただけの肉がこれほど美味いと思うのもまた初めてだった。
ただ、三メートル級の魔獣の肉を数日で食べきれるはずもなく、干したり、燻製を作ったりと忙しく、あの日思いついた検証は途中のまま止まっていた。
魔獣の恩恵は、その毛皮もそうであった。
地熱により温暖とはいえ、谷底のこの地は常に無風ということも無く、時折、外から風が入り込むことがある。
日中であれば気にもならないが、夜間眠りにつく頃に吹かれれば、やはり肌寒さを感じるものなのだった。
皮を剥ぎ、なめすのは一苦労だったが、背中の一枚革で作った上っ張りをシオンはいたく気に入っていた。
そんなことに三日を使ったシオンだったが、検証を忘れたわけではなかった。
がしかし、改めて始めた検証はいきなり暗礁に乗り上げた。
当然できるであろうと思っていた魔獣の牙への魔力コーティングが、どうにもこうにも上手く行かなかったのである。
魔獣の口に残っていたもう一本の牙でも試したのだが、うんともすんとも言わないのである。
散々頭を悩ませた結果、結局のところ絵は絵でしかないと割り切り、違うアプローチを試すことにした。
あの時シオンは、牙を魔力コーティングしようなどと考える事も時間も無かった。
あの時考えていたのは、ただ速く、ただ速く魔力循環をすることだけであった。
それを思い出したシオンは、牙を魔力で包むのではなく、魔力を通すイメージを持ちながら循環法を使う事にしたのだ。
早速試したのだが、その結果は何とも言えないものとなった。
魔力で包むのとは違い、確かに牙に魔力が入って行く感じがしたのだが、なにかが
詰まっているかの如く、入り口付近をなぞるだけで奥へと進める事が出来なかったのだ。
それはどれだけ循環法の速度を速めても変わらなかった。
年内の更新は本日までとなります。
次回の更新は、1/6 を予定しております。
来年もよろしくお願いします。




