38
霊峰・白掌山は五つの峰の連なる連峰である。
一つ一つの峰に名は付いてはおらず、総称として白掌山と呼ばれているのである。
しかし、それはエストの街に住む者や旅人達の話であり、山に住まう者達は当然ながら峰ごとを差すための呼び名をつけているのである。
ただその名は、街に近い一番低い峰から、親、人、中、薬、小、と掌に準えた簡単なものとなっている。
ロウ達の草庵は、人峰の中腹よりやや先にあり、草庵の他には小川に掛けた小さな水車小屋と段々畑に果樹が数本あるだけである。
本来の白掌山派の本拠といえるのは中峰にある、始祖・キッド卿の建てた伽藍なのだが、水を汲み畑を耕す様な生活には不適合な場所であったので、まだ幼なかったスゥの為にある程度、一般的な生活のできる今の場所にロウが草庵を作ったのである。
白掌山は、人が住まう場所ではないと言われているが、実はそれは誤りで薬峰にも小さいながら集落がある。
ただその事は、ロウもスゥもシオンに詳しく話す気が無いようだったので、シオンも深く聞くことはなかった。
今、シオンは自分の足で草庵を出て、人峰の頂きから中峰を見上げていた。
シオンの足元には、白の由来である万年雪が広がっているのだが、魔力循環のおかげか、寒さは然程感じなかった。
「シオン、やっぱり此処にいたのね!」
スゥは雪の残る岩山を、シオンを探して登ってきたようだった。
その足取りはシオンよりも軽やかで、残雪が氷と化した岩肌も物ともせずに駆け寄り、シオンの側に立った。
その姿は、スゥの魔力循環の腕の鮮やかさを表していた。
「やぁスゥ、黙って出てきてゴメン
ほら彼処に見える伽藍を見るのが僕は好きなんだ」
「ううん、別にいいの…
でも治ったとはいえ、山に慣れているとはいえないでしょ? シオンは…」
「そんなことないよ、もう一年にもなるじゃないか!
危ない場所、危険な動植物、全部覚えたよ」
未だ、山の素人扱いするスゥにシオンは笑いながら反論した。
シオンが杖無く自分の足で歩けるようになった、あの日から一年が過ぎようとしていた。
初めの三ヶ月間は草庵の周りをリハビリを兼ねての散歩しかしなかったが、半年が経った頃、ロウとスゥに連れられて登った人峰からの景色に、シオンは惚れ込んでしまったのだった。
それからは、何かと忙しいロウとスゥには知らせもせずに、独りで何度か登ったが、その度に毒草に被れ、蛇に噛まれ、騒ぎを起こしたのだった。
幸い、その時の蛇は毒の無い蛇であり、小さな傷で話が済んだが、山には毒蛇もいるので危険である。
山に住む二人は、そんな処置にも慣れていて、どちらも大した問題にならなかったが、「噛まれたのが毒蛇だったりすれば大変な事になる」、「草庵から出るなら声を掛けろ」とスゥに怒られたのだった。
「あれから教わった魔力循環の応用で毒も怖く無くなったし、もう独りでも大丈夫だよ!」
「そんな事を言って、この前も遭難しかけたじゃない!」
人峰から見る伽藍に当たる夕日の荘厳さに見惚れていたシオンは、当然ながらその後にくる闇を失念していた。
間の悪さは重なるもので新月近くの夜空は辺りを照らすことも無く、スゥの迎えが遅ければ、準備無くどこかで野宿する羽目になっていただろう。
「暗くなっても帰ってこないから心配したんだからね!」
この件の折、シオンは初めてスゥの目が見えていないことを知った。
暗闇の中、スゥに手を引かれて草庵に戻った後、「冷えたでしょう」とスゥが温かいお茶を淹れてくれた。
冷えた身体を温めた後、おかわりを貰おうとカップを机に戻したが、スゥが温かいのをと席を外してから、シオンはカップの持ち手が気になり、何気無くカップの位置と向きを変えた。
ポットを持って戻ったスゥは、何事もないかのように、シオンが最初にカップを置いた場所にお茶を注いだのだ。
もちろんそこに受けるカップは無く、ジャバジャバと机を濡らしたのだった。
寝たきりで世話になっていた時は、自分の身体の辛さに加え、部屋の暗さとスゥの自然な動きに気にすることがなかった。
一緒に外に出るようになると、確かにスゥは強い日光が苦手と鼻の頭から上を布で隠していた。
それでも不自由さを感じさせない自然な振る舞いにシオンは一切、気付かなかったのだ。
話を聞くと、赤子の頃に何かがあったようで、当たり前ながらスゥ本人は覚えておらず、ロウがその事を語りがたらないため、スゥも詳しくは知らずに育ったとの事だった。
ただ、まるっきり見えていないわけでは無いようで、光を感じることはできるとスゥは胸を張っていた。
どちらにせよ、あちこちに雪、氷の残る岩山を自分よりも巧みに走るスゥに何も言うことは無かったのだ。
「それより何か話があったんじゃないのかい?」
シオンの問いに「そうだった」とスゥは慌てて返した。
「師匠が、出掛けるからシオンも呼んでこいって!」
「ロウ先生が?
えっ、じゃあ早く下りなくちゃ駄目じゃないか!」
結局、門派への入門は許されなかったシオンであったが、その医術の心得に救われたことからロウを先生と呼ぶことにしていた。
二人は競うように岩山を駆け下り始めた。
その姿は、もし旅人か狩人が見ていたら猿の類と見間違うほどの速さであった。




