ヅラのような本体「ボクの身体を知りませんか?」
朝は無機質なビル群。
夜は窓の明かりが並ぶモザイク模様。
電車の外を飛ぶように流れるそれらは毎日毎日変化もなく、はっとさせる美しさも、想いを馳せるような面白味の有るものでもなく、ただの背景だった。
満員電車はスマホを触るのも一苦労。たまに隣のおじさんが矢鱈と幅を利かせぐりぐりと圧してくることもある。その重みに体だけでなく心も押し潰されそうになり、会社での疲れが帰りの電車内で更に増していく。
そんな疲弊を積み重ねたいつもの電車から降りて、マンションへの帰り道を歩いていた時に私はそれと出会ったのだ。
私のコツコツという足音が反響して二人ぶんの足音に思えるほど静かな住宅街。
薄暗い路地を照らす街灯の下、白く丸い光の中にポツンとある黒いそれの織り成すコントラストは最も高いと言って良い。
まるでブラックホールのように私はフラフラとそれに吸い寄せられる。
いや、今のは比喩だ。ブラックホールのようだからじゃない。遠目からはそれは、黒い長毛種の犬か猫に見えていた。疲れきっていた私は……私の脳は、そのモフモフ加減から愛らしいものを勝手に想像し、そしてその想像がもたらす引力に引き寄せられた。
近づくとそれは私が勝手に考えたものとは程遠く、明らかに四肢を持たぬ得体の知れない存在だった。
そうと判った時点で回れ右をして走って逃げるべきだったが、その得体の知れぬ存在をなんとか自分の知識にある「地球上の生物」の中に当て嵌めカテゴライズしよう、と私の脳が勝手にフル回転してしまい逃げ遅れてしまったのだ。
固まる私にそれは声をかけてくる。
「ボクの身体を知りませんか?」
彼(?)はアニメキャラのような、ちょっと昔に人気だった子役のような、とにかく鼻にかかった高い声で日本語を流暢に喋った。
「ちょっとはぐれちゃって。こんなの初めてで困ってたんですよ」
「な、な、な」
漸く私の脳ミソが「こいつは地球上の生物じゃない」と決定付けた。私が知る一番近いものに例えるなら、こいつは……ヅラだ。喋る鬘である。
「多分近くにいると思うので、探すのに協力してくれませんか? 勿論お礼は致します」
喋るヅラは前向き(?)に傾いた。え、これペコっておじぎしてるの? やたらと丁寧な態度じゃない? そんなツッコミが頭の中で生まれた時、それまで私の体を縛っていた恐怖がさらりと溶けて消え失せたものだから、私はつい曖昧に相槌をうってしまった。
「あ、はぁ……」
「よかった! 出会えたのが貴女のような親切な方で。あ、申し遅れました。ボクはバッハと言います」
ちゃらりー! ちゃらりらりぃーらー♪(※トッカータとフーガ ニ短調)
……はっ、思わず脳内に音楽が流れてしまった。まあ、目の前にいるのはバッハというよりもベートーベンみたいな髪型(?)だけれど。
「貴女のお名前は?」
「あ、篠原 優海です……」
「優海さん、素敵なお名前ですね。貴女にピッタリです」
甲高い可愛い声で丁寧なお世辞を言われるとムズムズする。いや、そもそもバッハの存在自体が謎すぎてムズムズどころの話じゃないんだけど。私が戸惑っているとバッハはこっちの足元に近寄ってきた。……正確にはにじりよる、って感じ。なんだかその動きは見ていてゾワッとする。
「ヨイショ。ヨイショ。はー、ボク単体だと動くの苦手なんです。お手数ですが拾っていただけませんか?」
「あ……はい」
彼(?)に触るのは恐ろしい気がしたが、触ってみるとやっぱりほんのりと生温かいだけで普通のヅラの感触だった。私はバッハを拾いあげ、掌の上に乗せる。
「優海さんの手の上、良い乗り心地です」
「そ、そう?」
「うーんボク、スピリチュアルなものはあまり信じないんですが、優海さんの気が良いのかもしれませんね」
「あ、ありがとう(?)」
謎の生物に気を褒められて戸惑う私。というか、スピリチュアルなものはあまり信じないって、あなたの存在意義は!?
「じゃあ行きましょう。多分あっちの方向です」
私の困惑をよそに、バッハの髪の毛の一本がピーンと方角を指す。私は手にバッハを乗せたまま、そちらに歩きだした。
しかし「ボクの身体を知りませんか」ってどういう事なんだろう。冷静に考えると意味不明だし怖い。
モヤモヤしたままバッハの指示に従って少し行くと、ちょっと大きめの公園に出た。
「あ、あの……私この辺で帰っても?」
やはり女の身で夜の真っ暗な公園に入るのは怖い。しかしバッハはすがるような情けない声を出す。
「お願いです! もう少しで身体に会えそうなんです!」
「で、でも夜の公園って物騒だし、変質者とかもいそうだし」
「……? 変質者、ですか……」
バッハは何故か含みのあるような言い方をした。あれ、もしかして私、バッハに誤解を与えるようなことを言った?
「いや、あなたがそうと言う訳じ「大丈夫です! いざとなったらボクが守りますから」
「えっ」
「えっ」
「「……」」
互いの言葉の意外性に同時に「えっ」という言葉が出て同時に私たちは押し黙る。
「優海さん、今、何か言いかけましたか……?」
「う、ううん、なんでもない! それより、バッハこそ何て言ったの?」
「変質者から貴女を守りますと言ったんですよ! あ、もしかして疑ってますか?」
いやいやいや、疑うもなにも。移動するのもやっとなヅラ生物がどうやって私の身を守るのか。
「ううーん……」
でも何となく、ここでバッハを見捨てて帰るのも気持ち悪い。親切心からというよりも……彼を見捨てたら祟られるというか、バチが当たりそうな気がするんだもの。
「あの、怪しい雰囲気とか、変な人とかいたら速攻で逃げて帰りますからね?」
「は、はい! ありがとうございます!」
私は恐る恐る公園に入る。やっぱり怖い。
この怖い、という感情は青みがかった黒い闇と、針を落としてもわかりそうなほど静まり返った環境と、黒々とそびえ立つ公園の木々が今にも動き出しそうな雰囲気から私が感じたもので、不思議と手の上に存在する謎の生物にはもうそんなものは湧かなかった。
何故だろう。生暖かいから? 可愛い声だから? 口調だけは矢鱈と丁寧だから?
頭の中でそんな疑問をくるくると回しながら、バッハが「こっちです」と指し示す方向に進んでいく。そのまま、茂みに沿ってくるりとカーブした道を曲がった瞬間に足が見えた。
そう、足。茂みの隙間から靴を履いた人間の足首が一揃いでにょきっと生えている。
「ひっ、きゃああああ!!」
叫ぶ私に、バッハが冷静に声をかけてくる。
「優海さん、落ち着いて。これがボクの身体ですよ」
「か、身体? だってこれ……どう見ても」
どう見ても人間の足だ。マネキンとか人形じゃない。これが身体って……バッハはホントにヅラってこと!?
「うーん、言い方が悪かったですかね。でも身体としか言えないんですよ」
と、突如後ろから男性の大声がした。
「篠原さん!!」
私が振り向いて声の主を確認するよりも早く、手の上のバッハが動く。シュルルッ! という音を立ててバッハの毛が何本も長く伸び、声を出した人物めがけて飛んで行くと幾重にも絡み付いた。
「うわっ!! な……ぐぅっ!」
あっという間に声の主は毛でぐるぐる巻きにされて黒い人型になり、最早誰だか判別できない。ギリギリと締め上げたのか、それとも窒息したのか、すぐに人型は膝をつきバタリと倒れてしまった。
「ちょ、バッハ、何やってるの!?」
「何って。約束したでしょう? 貴女を変質者から守って差し上げたんですよ」
「えええ!? でも、だって、今私の名前を……」
「変質者が知り合いでないなんて誰が言ったんです?」
そう言いながらバッハは絡み付けていた毛を一斉に引き上げる。倒れた人物の顔があらわになり、私はその人を公園の灯りの下で確認して驚いた。
「あっ、佐藤さん……?」
その正体は同僚の男性、佐藤さんだった。ヤバい。本当に知り合いじゃないの!
「どうするの!? 変質者と間違えて気絶させちゃうなんて!!」
「だから、間違いじゃなくて変質者ですよ。優海さんやっぱり気づいてなかったんですね。この人、ずっと貴女をつけてきていたんですよ」
「……え?」
「貴女と出会った時から、ずっとこの人の気配が後ろにありました。ストーカーってやつですね。貴女がさっき叫んだから慌てて出てきたんでしょうけど、そうじゃなかったら家までコッソリついていくつもりだったんでしょう」
「いや、そんな」
否定しながらも、さっきバッハに出会う前、住宅街に響く足音が二つに聞こえていた事を思い出す。背中に寒いものが通った気がした。
「え、え、でも、何かの間違いじゃ。たまたま近所に住んでるとか」
「たまたま近所に住んでるなら、何故家に帰らず公園までついてくるんでしょう? 貴女の名前を呼んだってことは明らかに貴女と認識している訳ですよね。やましい事が無ければもっと早く声をかけている筈です」
「それは……」
きわめて非常識な存在であるバッハにごくごく常識的な正論を言われぐうの音も出なくなった。そう。本当は私にもわかっている。バッハの言う事を……自分がストーカーに付きまとわれてるなんて事を信じたくないから反論していると。
だけど。やっぱり信じたくはないでしょう? だって佐藤さんって職場では目立たない、ホントに普通の人だったんだもの。こんな事をしているなんて思えない。
「もう。意外と優海さんって優柔不断なんですね。じゃあ証拠を探しましょう」
バッハはそういうと再びシュルルと毛を伸ばした。その一房が倒れている佐藤さんのポケットに入り込み、出てきた時には彼のスマホを器用に掴んでいる。
「えーっと、指紋認証があればいいんですけど」
そういってスマホを佐藤さんの指にあてがった。
「あ、ロック解除されたんじゃないですか? 見てくださいよ」
バッハはわたしの目の前でスマホを操作して見せる。髪の毛の束ってスマホ操作できるんだ……。と、どうでもいいことを現実逃避のように考えていた私の目に画像フォルダ内の写真が飛び込んできた。
私、私、私……。
フォルダの中は私の写真で埋め尽くされている。それも、どの画像も目線はこっちを向いていない。つまり隠し撮り、盗撮って事だ。私の背筋は今度こそ、気のせいでなくばっちり冷たくなった。
「い、嫌あッ……」
「ね? やっぱりストーカーですよ」
「そのくらいにしてやれ、毛羽毛現の。そのおなご、怯えているぞ」
バッハとはまた違う、三味線のような甲高い女性の声が夜の公園に響く。
振り向くと誰もいない。……いや、一匹の大きな三毛猫がいる。暗い中でも目立つほど美しい毛並みと黄緑の瞳。天を指す尾が二本に分かれてゆらゆらと揺れて……ええっと、猫又ってやつ!?
「あっ、ミケさんじゃないですか! なんでこんなところに?」
「なんでも何も。この公園はワシの縄張りさね。大体、お前の身体をここに隠してやったのは誰だと思っている?」
「えっ? ああ、なんでこの茂みにあるのかと思ったら!」
「あんな図体が道の真ん中で寝転がってたら騒ぎになるだろう? ここまで引っ張ってきてやったんだぞ。ああ、肩がこったわ」
ミケさんはそう言いながら右前足で肩のあたりをつるりと撫でる。バッハは私の手の上でぺこりとお辞儀をした。
「ありがとうございました!」
「礼は言葉よりもモノで表せ。高級な猫缶が5つもあればよかろう」
「わかりました! あとでコンビニで買ってきますね。優海さん、ボクをそこの茂みへ連れて行ってください」
「あ、うん」
足がにょっきり出ている茂みを回り込んで進むと、倒れている人がいた。背の高い男性で頭がツルツルだ。でも目を閉じている顔は彫りが深くて整っていそう。よく見ると、服があちこち破けている。ミケさんが引きずったから? でもそれにしては破れ方がめちゃくちゃな気がする。
私がそんなことを考えている間に、バッハは手から飛び降りてその人の頭の上に鎮座した。すると。
「うう~ん」
ぱちりと男性の目が開いた。口から飛び出した声はさっきのバッハの可愛らしい声とは全く違う、大人の男性のものだった。
「うわあ、身体があちこち痛んでますねぇ。あ、優海さん、ありがとうございました。おかげで身体を取り戻せましたよ」
起き上がり、にっこりと微笑む男性。さっき寝ている時にそうかなと思ったが起きて喋るとかなりのイケメンだ。ベートーベンみたいだと思った髪型も、あちこち破れた服もイケメンだとそういうファッションのようにしっくりくるから不思議なものだ。
私はドギマギする。彼がイケメンだからじゃない。きっと……きっと、目の前で無茶苦茶で非常識で信じられない事が起きているからだ。
「さて、どうしましょうかねぇ。あんまり警察のご厄介にはなりたくないんですが……」
「え、警察?」
「ボク、この通り人間のふりをしているだけなんで、警察に身元確認されると厳しいんですよね」
「な、なんで警察に?」
男性……つまりバッハはてへぺろ☆って感じの顔をした。
「いやぁ、ボク、さっきボーっと歩いてたら車にはねられちゃったんですよ。それで身体もボクもポーンって投げ出されちゃって、はぐれちゃったって訳なんです」
「え、ええええ!?」
服があちこち破れてたのは、そういうこと!? 唖然とする私の足元でミケさんが喋る。
「車の主は一瞬止まったが、誰も目撃者が居ないと思ったか救助もせずにすぐ行ってしまったぞ。轢き逃げってやつだな。まったく最近の人間は嘆かわしい」
「まあボクが相手で良かったですよね。ホントの人間なら死んでたかもしれないし」
「車には配下の猫を追跡させておいた。相手を祟りたいなら多分できるぞ」
「わぁ! 流石ミケさん! ありがとうございます」
「礼なら」
「わかりました! 猫缶ですね!」
のんびりとした口調でとんでもない事を語るバッハとミケさん。それをただただ見つめる事しかできない私。と、二人(?)が私の方を向いた。
「しかし、このおなごの後をつけてきた不届き者の方はどうする」
「そうなんですよねぇ。やっぱりストーカーだから警察に届けた方が良いですよね。でもボク達は警察に証言はできないし。けれども優海さんには恩を返さないといけないし……ボクが彼氏のふりをしてもいいんですけど」
「え」
私はちょっとだけドキリとした。バッハが彼氏のふり?
「……いや、それよりもいい事を思いついたぞ。ワシが協力してやろう」
ミケさんが宝石のような黄緑の目を光らせ、ニタリと笑った。あ、妖怪っぽい。こわい。
◆
5分ほど後。
ミケさんが佐藤さんの顔をぺちぺちと叩いて起こす。
「う、うーん……、あ、篠原さん? 大丈夫ですか?」
「佐藤さん……何故」
「し、篠原さん? なんだか声が……」
「何故……何故私を追いかけたの? あなたのせいで……私、この公園まで逃げてきて……そして」
そこまで言うと、私に化けていたミケさんは正体を表し半人半猫の姿になった。
「化け物にされちゃったのォォォォォ! ニ゛ャアアアアアア!!」
「ひっ!! う、うわあああああ!!!」
「殺すニャ殺すニャ恨むニャ祟るニャ殺すニャア!!」
尻もちをついたまま後ずさる佐藤さんへ、ミケさんが襲い掛かるフリだけしてギリギリのところで爪を出す。
「ぎゃあああ!! た、助けてーーーー!!!!」
佐藤さんは四つん這いでワタワタと暫く進んだ後、やっと立ち上がって走り逃げ出した。彼が見えなくなるまでミケさんは「殺すニャ! 恨むニャ-!」とノリノリで叫んでいたし、見えなくなったらなったでニヤニヤしてこう言った。
「ぐふふ。やっぱり人間を驚かすのは気持ちが良いな」
ミケさんは実に楽しそう。猫又って悪戯好きなのかしら。私はバッハと一緒に隠れていた茂みから立ち上がり、ミケさんに言う。
「これで佐藤さん、私のストーカーをやめてくれますかね?」
「やめると思うが、万一やめなかったらワシか毛羽毛現に相談しろ。乗り掛かった舟だ。あふたーふぉろーもしてやろう」
「ええ、ボクも協力しますよ。優海さんは恩人ですから。あ、そうだ。夜道は危険なのでおうちまでお送りしますよ」
「あ、うん……ありがとう」
バッハの、俳優のような整った笑顔に私は変な気持ちになった。変だよ。だって毛羽毛現って妖怪だよね? いくらイケメンでも、本体はヅラなのに!!
「あ、そうだ。コンビニに寄っても良いですか? 猫缶を買ってミケさんに渡したいので」
「いいよ、私も飲み物を買いたかったし」
「ワシはここで待っておるからさっさと行ってこい」
まあ、ミケさんは猫にしては大きいから目立つもんね。私たちはすぐ近くのコンビニに行き、猫缶やお菓子や飲み物を買った。意外なことにバッハはちゃんとお金を持っていて、自分で猫缶とゆで卵を買っていた。
「お金、どこから手に入れてるの?」
「ネットで知り合った人に時給1500円でお金貰ってます」
「ネットで!?」
「はい。何でも屋みたいなやつです。といってもお話ししたり、どこかに一緒に行く程度の事しかやりませんが。レンタル彼氏の扱いを依頼されることが多いですね」
「はぁ……」
確かにこの美形なら、レンタルしたいという人は後が絶たなそうだ。最初からバッハは物腰が柔らかくて紳士的な感じだったけど、仕事柄だったのかも……しかし妖怪のレンタル彼氏とは。
「ボク、卵と水と、たまにお手入れの油くらいしか必要ないので、あんまりお金かからないんでそれで充分なんですよ」
なるほど。髪の毛の妖怪だからか。
「ああ、それでさっき彼氏のふりをする案がでたのね?」
「はい。優海さんもレンタル体験してみますか?」
だからその美形の身体で微笑まないで! 変な気持ちになるから! くっつかないで! 妖怪のくせになんかいい匂いする!!
バッハが私に体を寄せるからか、妙に脈拍が早くなる私。二人でコンビニを出たところで、目の前に立ち塞がるように人が居た。
「篠原さん……」
「えっ、鈴木主任?」
上司の鈴木さん。なんでここに?
「その人、誰? 俺、君の家の前で待ってたのに……」
「えっ!? なんでですか!?」
家の前で……って何で私の家を知ってるの!? 混乱する私の耳元でバッハがささやく。
「優海さん、この人、貴女の恋人ですか?」
「違う!! ただの上司だよ!」
私は首を左右にぶんぶん振った。頭から血が抜けるようにサーッと冷たくなる。もちろん首を振った遠心力のせいじゃない。
「篠原さん! ただの上司は無いだろ。確かにつきあおうとか、そういう言葉にはしてなかったけど、それは社内恋愛はおおっぴらにしたらマズいからだろ? 僕に旅行のお土産もくれたじゃないか」
「お土産って……同じ部署の全員にあげてますけど!!」
っていうか、たかが温泉饅頭でそんな意味にとられても困るんだけど!
バッハが溜め息混じりに言った。
「優海さん……貴女ってストーカーホイホイなんですね……」
くっ。呆れたような顔も無駄にカッコイイ。
◆
朝は無機質なビル群。
夜は窓の明かりが並ぶモザイク模様。
電車の外を飛ぶように流れるそれらは、今は私の目には直接入ってこない。なぜなら私は電車のドアを背にして立っており、満員電車の中で私を他の乗客から守るように向い合わせで立つバッハの顔を見ているから。
車窓から差し込む光や影が彼に反射し映ると時々はっとさせる美しさも、想いを馳せるような面白味も有る。毎日ずっと見ていても飽きない整った顔。
今、バッハは私と暮らしている。あ、別につきあってるとか、同棲とかではない。
あくまでもWin-Winの関係で繋がる相棒だ。バッハは私という身元保証人が居れば人間界での活動が楽になるから。私はバッハに偽の彼氏役をしてもらうことで変な人に付きまとわれない為に。
佐藤さんだけでなく鈴木主任までがストーカーだったので、私は課長と人事部に相談して女子が多い部署に異動することになった。佐藤さんと鈴木元主任の二人も異動して遠方の支社勤務になった。多分左遷だと思う。
これで一安心、と思っていたら安心できなかった。通勤電車のなかで矢鱈とグリグリと幅を利かせてくるおじさん、実は身体を押し付けて私の匂いをクンクン嗅いでいたらしい……うわぁ変質者じゃん……。
「優海さん、変な人に好かれる自覚がないのがまた、隙があるというか……変な人を更に吸い寄せちゃうんでしょうねえ」
変どころか非常識な存在のバッハに言われると説得力があるわね(精一杯の嫌み)。
「まあ、優海さんは優しいし可愛らしいし良い気も持ってるし、好きになるのもわかりますけど」
「ふぇっ!?」
……バッハがどういう意図でそんな事を言ったかはわからないけど、とにかく彼は私の安全のため、一緒に電車に乗って会社の近くまで送り迎えをしてくれるようになったのだ。
「あっ」
電車が急ブレーキをかけ、よろけた私はバッハに支えられる。
「優海さん、大丈夫ですか?」
「うん、ごめんね」
「これぐらい平気ですよ。ボクは貴女を守る為に一緒にいるんですから」
「!!!」
うわああああ、人間の男だったら照れ臭くてこんな恥ずかしい台詞言えないでしょうに!
ああ、こいつの本体はヅラ、こいつの本体はヅラ!! にっこりとこちらを見つめてるのは偽物の身体なんだから!
「……バッハって人たらしだよね」
「そうですかね? あ、でもミケさんもそんな事言ってましたねぇ」
「ミケさん、元気?」
「今度会いにいきましょうよ。あ、そうそう、ミケさんが優海さんに相談に乗ってもらいたいって言ってました」
「私に?」
「ミケさんのお友達のレオナさんが、人間に恋しちゃって悩んでるとか。女の子同士でコイバナすれば何か良い案が出そうとか言ってましたね」
私は周りの乗客に聞こえないよう声を潜めた。
「レオナさんって……妖怪?」
バッハも小声でささやく。
「はい。濡れ女ですね」
「……わかったわ」
私はもう諦めた。変質者には付きまとわれなくなったけど、変な妖怪達が日常的に付きまとう生活はそう遠くない未来の気がする。
あの夜、バッハに怯えて回れ右をしなかった時点でこうなる運命だったのかもしれない。
そして私の考えは当たっていた。私が妖怪達と人間の間を取り持ち、両者の悩みを解決する『何でも屋』の片棒をバッハに担がされるのは、また別の話。