第二百二十七話 赤ちゃんが産まれた! 名前は?
王都マドリガルタ南部にある、エレナ・インファンテ大学医学部付属病院。
その名の通り、インファンテ一族が経営している大学の病院だ。
私はとんでもない大金持ちの令嬢とお友達になってるんだなと今更自覚する。
そこの個室にシルビアさんは入院し、私が付き添っている。
お世話は助産師さんがしてくれるので不自由は無いが、私がいればシルビアさんに安心してもらえるので……
というより私の方が心配で仕方が無い理由の方が大きい。
デザインの仕事も最低限ノートとペンさえあれば出来ることなので、出産して落ち着いたら病室で仕事を続けることは出来る。
医学部附属病院だけあって、時々やって来るベテランの助産師さんに付いて研修の学生の子たちが入ってくることもある。
みんな昭和の日本の病院のような白衣とナースキャップの姿なものだから懐かしいようなワクワクするようなそんな気分になる。
若い子たちも可愛いけれど、いつもここに来る三十歳くらいのベテランで眼鏡を掛けたいかにもお局様的な風貌の助産師さんのほうが私はそそるぞ。
そんな邪な目で助産師さんを見ているが、シルビアさんは間隔を空けて陣痛が来ているので手を握ってあげている。
この国の習慣で分娩中は男子禁制で、助産師も当然ながら女性。
母親であるエスカランテ子爵夫人が分娩室で付き添うことになっているので、明朝になってから子爵と一緒に到着する頃だ。
シルビアさんは陣痛と睡眠の繰り返している。
リラックスすることがとても大事なので、眠れるのはとても良いことらしい。
食事は病院が陣痛食のサンドイッチを用意してくれて、私もオレンジをいくつか持って来ているのでそれも食べてもらっている。
私が食べる分を持ってくるのを完全に忘れてしまっており、子爵夫妻がやってくる朝までオレンジだけで過ごさないといけないことに夜になってから気づいた。
「マヤ様…… 自分が当事者になって、お産がここまで大変とは思いませんでした。
こんなにお世話してもらって、とても嬉しいです……」
「当然だよ。お産は女性だけにしか出来ない。だから一緒に頑張ろう」
「はい……」
シルビアさんはホロリと涙を浮かべた。
やっぱり不安でいっぱいだったんだろうなあ。
魔法が使える医師による検査では、自然分娩が可能ということなのでそれを目指している。性別まではわからないようだ。
この国では残念ながら無痛分娩が出来る技術は確立していない。
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無事に翌朝を迎えた。
シルビアさんは陣痛を繰り返しながらもなんとか眠れた様子。
私は壁の隅に寄りかかって寝たのでお尻や身体のあちこちが痛い。
「今日、とうとうこの子が産まれてくるんでしょうか……」
シルビアさんは両手でお腹をさすりながら、痛みに耐えつつ微笑んでいた。
すっかりお母さんの表情になっている。
まだ結婚は出来ていないが、私自身も奥さんと子供がいるんだという実感が日々湧いてきていた。
朝食を済ませてから子供の名前はどうしようと相談しているが、未だに私たちは名前を決めかねていた。
男だったらマリオとかシルベストレ、女だったらマリサとかシルヴァーナ。
どうも安易に私たちのイニシャルや似た名前から取ろうとしていたが一向に決まらない。
そこでまたシルビアさんがお腹を押さえて痛みを感じていた。
「はぁ…… はぁ…… 痛い…… はぁ…… 赤ちゃんが…… 産まれる……」
「ええ!?」
「いつもと違う感じなの…… ううっ 痛いぃぃぃぃ…… はぁはぁ」
「よしっ それじゃあ!」
私は魔道具になってるナースコールのリモコンボタンをすぐに押した。
日本の病室で見たことある物とは違い、コードが無くてテレビやエアコンのリモコンのようだ。
すぐおばちゃん先生とお局メガネ看護師さん(どちらも助産師)がやってきて検査を始める。
「子宮口が大きく開いてます。お産が始まりますから、分娩室へ移動しますね」
「は、はい!」
シルビアさんは先生たちに付き添われながら歩いて分娩室へ移動する。
あの痛みがある状態で分娩室まで歩いて行くのは日本でも普通と聞いたことがあり、お産は本当に大変だなとつくづく思う。
立ち会い出産してみたいけれど、この国の習慣で男子禁制だから夫人が来るまで一人で頑張ってもらう。
分娩室へ入って行くのを見送る前に、私は彼女の手を握りこう言った。
「名前、私が産まれた国の名前をつけて良いかな?」
「はい…… 楽しみにしてます…… ううっ」
赤ちゃんが出てくるまで初産だと十数時間もかかるらしいので、今の時間からでは生まれる頃はとっくに暗くなり、もしかしたら日が変わるかも知れない。
一、二時間でスポンと出てくるわけでなく、壮絶なのだ。
(※中には十数分でスポンと出てくる方もいらっしゃいますが、一般論にて)
私はエスカランテ子爵夫妻を迎えるため、待合室に移動する。
一時間ほど待っていると、エスカランテ子爵夫妻が到着した。
病室に向かうつもりが、玄関近くの待合室にいる私に気づいてびっくりしていた。
「おおっ マヤ殿! もしや?」
「おはようございます、子爵。先ほどから分娩が始まりました」
「そうか…… 思っていたより早かったな。声を掛けてやりたかったが……」
「あら大変。早速私も準備しなくちゃ。
マヤさん、あなた大分お疲れみたいだから一旦帰って休みなさい。
今すぐ産まれないんだから、その間は私たちに任せて」
「うーん…… そういうわけには……」
「マヤ殿、顔を見たらずいぶんくたびれているように見える。
悪いこと言わんから休みなさい」
「はい…… お言葉に甘えさせて頂きます……」
正直かなり眠い。
たぶんシルビアさん本人より、私の方が不安がってるせいなのかも知れない。
ダメだなあ……
今から頑張って産むシルビアさんに対して心苦しいけれど、夫妻の言葉に甘えてエスカランテ家へ帰ることにした。
エスカランテ家に到着。
フラフラと飛んで帰り、パウラさんにいろいろ話した。
大丈夫だから元気出しなさいと言われ、好物の生ハムパンを作って渡された。
シルビアさんの部屋に戻り、生ハムパンをかじりながらエスカランテ家の人たちの優しさに涙がぽろぽろ溢れてしまった。
こういう家庭だから今の優しいシルビアさんがいるんだな……
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「うおっ! こんな時間!?」
シルビアさんのベッドで軽く三時間くらい寝るつもりが、八時間も寝てしまった。
もしかしたらもう産まれてしまったのかもしれないと思い、慌てて飛び出し病院へ飛んで向かった。
もう夕方になり、病院の待合室は人影が少なく、ぽつんと子爵がベンチに座っていた。
この感じだとまだ産まれてないのだろう。間に合って良かった……
「旦那様、遅くなって申し訳ありません」
「おお、マヤ殿か。よく眠れたかね?」
「はい、おかげさまで。それでシルビアさんは……」
「まだ頑張ってるようだよ。異常があったという知らせは無いから安心してくれたまえ」
「良かった……」
気まずいわけではないが、何も出来ない男たちはただ待つしかなく、無言の時間が過ぎていった。
そういえばすぐ寝てしまって、名前を考えてなかったなあ……
本当に何にしよう。
「マヤ殿、これでも食べるかね?」
「ありがとうございます。実は起きてから何も食べずに出掛けてしまいました。ははは」
子爵からオレンジを一つ手渡された。
エスカランテ家へ来てから毎日のように食べているオレンジ……
酸味と甘みのバランスが絶妙なとても美味しいオレンジだ。
――そうだ。
あの名前にしよう。
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その頃の分娩室。
シルビアさんは分娩台で脚を広げ、おばちゃん助産師さんとお局助産師さんがお産の手助けをし、子爵夫人つまりシルビアさんのお母さんが汗を拭いたりストローで水を飲ませたりしていた。
「ンッ ンンーーーーーーッ はぁ…… はぁ…… はぁ……」
「だんだん頭が出てきた。もうちょっとでご対面だよ」
「頑張ってシルビア!」
「ンンンーーーーッ ンンーーッ はぁ はぁ……」
「ほーーら 肩まで出てきた。もう大丈夫よー 今全部出すからねー」
「――――オギャー! オギャー! オギャー!」
「元気な女の子が産まれたよー!」
「シルビア! おめでとう!」
「――――」
夫人はシルビアさんの頭を優しく撫でたが、しばらくの間は放心状態だった。
だがおばちゃん助産師さんが赤ちゃんを彼女の胸に乗せると、一気に顔がほころんだ。
「はぁ はぁ 私が産んだ赤ちゃん……」
「おぎゃぁぁぁぁ!! おぎゃぁぁぁぁ!!」
「あらまあよく泣く子ね。あなたの時より元気じゃないかしら。うふふ」
「お母様…… ふふふ」
その後は胎盤を娩出させたり子宮の検査、赤ちゃんにも必要な処置と検査をしてから個室に戻るまでしばらく時間が掛かる。
その間、子爵夫人が待合室へ知らせにやってきた。
「あなた! マヤさん! 無事に産まれたわよ! 元気な女の子!」
「は…… や…… やったぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「おお! シルビアでかした! マヤ殿おめでとう!!」
私は無意識に万歳し、子爵は両手で私の肩を叩く。
ほろほろと涙が出てきて夫妻と喜びを分かち合った。
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シルビアさんはお産が済んでからも処置や体力回復のために分娩室で休んでから個室へ移動。
予想より早めにお産が終わったとはいえ、十数時間ぶりに会うことが出来た。
「ありがとう。頑張ったね……」
「マヤさん。私たちの赤ちゃん、可愛いでしょう」
「わ……」
髪の毛は蜂蜜色、目の色はヘーゼルブラウンでどちらもシルビアさんと同じ。
私の遺伝が外見では出ていないようで、作り話のことを考えるとホッとした。
産まれたばかりの赤ちゃんは猿みたいなんてよく言われているが、この子を見たらそんなことがあるはずなわけない。天使だ!
小さな舌をペロッとしたり、ニィっと笑っているとあまりに可愛すぎて卒倒しそうだ。
小指を差し出すと、小さな手で握ってくる。もうたまらん!
「ジジだぞ~ ばぁっ」
「おばあちゃんでしゅよ~ うひひ」
赤ちゃんの前だとジジババが幼児化するのはどこも一緒だな。
それだけ赤ちゃんの笑顔は人を優しくしてくれる。
「それでマヤさん、この子の名前は決まりましたか?」
「男の子だったら私の国の言葉でオレンジの色は柑子色というので、コージという名にしようと思ったんですが……
私の国の柑橘類は蜜柑という果物がとてもたくさん食べられているので、女の子だったからこの子はミカンという名にしようと思ってますが、どうでしょう?」
「ミカン…… 初めて聞く言葉ですが、何だかかわいい響きですね。
そうね。この子の名はミカンにしましょう」
「おお、ミカンか。確かに東方の国でそういう果物があると聞いたことがある。
我が家でもいつか育ててみたいものだ。
ミカンちゃん、可愛いのお。うっはっはっはっ」
刀を作っているヒノモトの国で、きっと蜜柑が栽培されていると思う。
もし向こうへ行ったときに種や株を分けてもらえることが出来るのならば、エスカランテ家で育ててみたい。
「本当、可愛い名前ね。そうそうマヤさん。ミカンちゃんを抱いてみてはどうですか?」
「そ、そうですね。では……」
私はぎこちなく、まず両手でゆっくり頭を持ち上げてから左手で支え、利き手である右手はお尻の下に入れてそろっと抱きかかえた。
産まれたばかりの子は首が据わっていないので、ガラス細工以上に慎重に……
腕で頭を支えてやっと横抱き完成。
これを前もって夫人に教えてもらっていたので良かった……
僅か三キロほどなのに、何故かすごく重く感じる。
胸に熱いものがこみ上げてきた。
やった…… 五十二歳近くになって初めて自分の子が出来た……
今ここで我が子を抱いているのに、まるで夢のように思えてくる。
この子もいつか嫁に行くのだろうかと想像すると悲しくなるので、今は止めておこう。




