毒獣の牙
あのジルベッタとかいうとんでもない強さの魔女は、突然姿を消した。助かった、キリカはため息をつく。フードを上げ、顔をさらして宮殿の中を歩いた。何度も殺気立った兵士とすれ違ったが、誰もキリカを認識できない。
他のみんなは無事だろうか。そう思って苦笑する。この期に及んでそんなことを考えるのは無意味だと。為すべきことは一つ。ウストラクト皇太子を殺すこと。もし自分にそれができれば、たとえ他の六人が全員殺されていても構わないのだ。亡霊騎士団の仲間意識とはそういうものである。
キリカ個人の意見としては、できれば国王も殺したいところなのだが、皇太子を殺して国王に後悔と絶望を与えることこそが復讐になる、というノロシの考えに他のみんなは同意している。
キリカは他人の気持ちに鈍感なところがあるので、どうすればもっとも効果的な復讐となるか、といった考え方ができない。全部殺せばいいだろう、と思ってしまうのだ。しかし人間は生かされることで地獄を味わう場合もある。確かにそれは自身の体験からも明らかだ。
けれど、それは自分に心があるからではないか、とも思う。果たして王族の連中に心などあるのか。キリカの家族は二十年前の戦争のとき、敵兵にオモチャのように生きたまま斬り刻まれ、なぶり殺された。近くに王国の貴族が駐屯していたのに、誰も助けには来てくれなかったのだ。
当時の敵国の王は、いまこの国の中で大貴族として地位と名声を与えられている。国王に臣下の礼を取り服従しているというが、それでキリカの家族が生き返る訳でもないし、彼らが受けた苦しみを相手方に思い知らせることもできない。敵国領は王国の領土となり、国王は勝利を宣言したが、勝利とはいったい何だ。弱き者たちをただ切り捨てただけなのではないか。
キリカの思考はそこで止まった。何度目になるのかは覚えていないが、とにかく沢山扉を開けたその果てに、バルコニーに出て外を眺める寝間着姿の後ろ姿が見えたのだ。部屋に入れば、寝間着の男は振り返った。間違いない、ウストラクト皇太子だ。
「見つけたぞ」
思わず漏れたキリカの声にウストラクトは眉を寄せた。だが彼の目は宙を彷徨う。キリカの姿が認識できないのだ。この呪われた顔をいまほどありがたく思ったことはない、キリカは胸の内でそうつぶやきながら腰の短剣に手をかける。
しかし、後ろからその腕をつかまれた。
振り返れば若い兵士が一人。馬鹿な、気配が感じられなかっただと。いやその前にこの姿が認識できるのか。混乱しつつも腕を振り払おうとしたキリカだったが、万力のような握力に為す術がない。
兵士はキリカの腕を両手で捕まえると、突然噛み付いた。
「痛っ!」
皮膚を食い破り、牙が食い込む感触。兵士の顔を拳でガンガンと殴りつけ、ようやくキリカは開放された。腰の短剣を抜き放ち、兵士を牽制する。けれど兵士には慌てる様子も、怒る気配も見えず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「その兵にはもう意思はなくてね」
ポツリと皇太子が話し始める。
「ただ私に殺意を向ける者へ、機械的に攻撃を仕掛けるだけなのだ」
こいつ何を言ってるんだ、キリカが困惑したとき。目眩がした。悪寒が走り、喉が渇く。全身にジワジワと痺れが回り、体の力が抜けて行く。脚が震えた。暗い部屋にウストラクトの声が静かに響く。
「おまえたちも見たのではないか、あの毒獣を。聞いたのではないか、その肉を喰らった者がどうなるか」
キリカの記憶にランスの言葉が蘇った。
「……人の姿をした、毒獣」
「そうだ。その人の姿をした毒獣に噛まれたおまえも、毒獣になる」
耳鳴りがする。意識が遠のいて行く。待てよ、おい待ってくれ、そんなのないだろ。こんな、馬鹿な、最期……
都から離れた王家の別荘。ジルベッタはオブレビシア姫とリネリア第二皇太子夫人を連れて転移魔法でここまで跳んだ。とりあえずは安全なはずだ。
「奥様、お姫様、急なことで申し訳ございません。宮殿へはすぐ戻れましょうが、万が一がございますので、今夜はこの別荘でお休みくださいませ」
ジルベッタはいつも通りの柔和な笑顔を見せているが、リネリアの表情はそれどころではない。
「ジルベッタ、その腕はどうしたのですか」
見せかけではない、心の底から心配している目。だからこそウストラクト皇太子に愛され、それ故に王室の中で苦しい思いをしなければならない。この人はあまりにも優しすぎるのだ。ジルベッタは静かにうなずいた。
「大丈夫でございます。この程度の傷、すぐに治りますので」
それは強がりでも嘘でもない。もう分身はすべて引き上げ、この体に合流させた。幸い腕を斬られたのは分身の一つ、本体に戻ればそれで話は終わる。いや、失った腕を元通り生やすことも、この時点で可能だ。
オブレビシアは片方の手でリネリアの手を取り、もう片方の手でジルベッタのスカートを握っていた。涙を浮かべた目は自身の行動を悔いている。ならば目の前で腕を元通りにして安心させた方がいいのかも知れない。
ジルベッタは両腕の切断面に力を込めた。夕焼け色の輝きと共に腕が生えてくる、はずだった。しかし腕は生えない。
なるほど、呪いか。
あの白い魔剣に込められた強い呪いが、傷口に干渉しているのだ。これはある意味、不幸中の幸い。何も知らずにこの分身を本体に戻していたら、本体の腕がもぎ取られていたことだろう。まったく厄介な相手だ。ジルベッタは苦笑しそうになる。
だがこうなると、さすがに皇太子が心配だ。ウストラクトの周りには、「連中」が常にいる。ジルベッタさえも近付けさせないヤツらが。簡単に倒されることはないと思うものの、さてどうしたものやら。黄昏の魔女はため息をついた。
震える地面から湧き立つ虹色の光。ユラユラと陽炎のように立ち上がるのは……これは、木か? 虹色の樹冠なのか。
「世界樹だ」
ランシャが言った。
「この世界の中心を貫き、神に命を、人に知恵を与える存在。枝は遙か天空を支え、根は地下深くの暗黒世界までをも包む。この国の古い国生み神話に登場する巨大な聖樹。無論、すべてはまやかしだが」
それに応えるように虹色の木は震えた。
――口を慎め、人間
頭の中に、うわんうわんと反響する声。
――まやかしではない。この世界樹こそが世界の中心。いや、世界そのもの
「おまえ如きが世界になどなり得ない」
――黙れ、人間風情が
「おまえもかつては人間だった」
ランシャの言葉に世界樹は押し黙る。
「遠い昔、砂漠の大陸で人として生まれ、異能の力でまがい物の神となった銀色の髪の少女、それがおまえだった」
口を挟むつもりは毛頭なかったんだが、俺は思わず声に出してしまった。
「まさかこいつ、フーブか。でも何でフーブがこんなところに」
「おまえと同じようなものだ、サイー。あのとき滅んだフーブは、外の世界に転生し、分裂し、広がった」
ああ、そういうことなのか。俺の頭の中に突然、閃光のように解答が降って来る。
「つまりランシャ、おまえはこの三百年近く、ずっとフーブを追いかけてきた訳だ」
「追いかけたのは二百年と少し。もう少し早く気付けば良かった」
――気付いたところで何ができる
もはや否定もしない世界樹は嗤う。
――この身は数多に分かれ世界の各地に根を下ろしている
「人の死を肥やしにしてな」
――貴様がどう足掻こうとも無駄だ。もう趨勢は決した
「おまえが最後の世界樹だとは思っていない。しかし、だからといって見逃しはしない」
――何が貴様を駆り立てる。何故そこまで私を憎む
「世界の理を逸脱しているからだ」
――逸脱しているのは貴様とて同じであろうが! ランシャ!
「だからこそ。おまえを狩るのはこの身を置いて他にない」
地面から土を撥ね飛ばし、巨大な木の根が顔を出したかと思うと、ムチのように宙を走って横殴りにランシャに襲いかかる。魔剣レキンシェルは簡単にそれを受け止めたが、根はグルグルとランシャの体に巻き付き、そして持ち上げ、大地に叩き付けた。
けれど、俺にそれを心配している余裕はない。ノッポとデブッチョの二人の道化が、俺とリムレモに迫っていた。




