堕天使
内側から破裂する影屋敷の屋根。舞い踊る木片の嵐の中、叫び声を上げる双頭の竜。その右側の首には暗黒の大蛇が食らいついていた。大蛇の首筋を狙う左側の竜だが、それをフルデンスの扇が跳ね返す。
白い天使が焦って周囲を飛び回るものの、半分溶けた黄金の槍では攻撃もできない。
「弱い、弱い、弱いぞ! 人の子よりも弱い悪魔に価値などあろうか!」
フルデンスの哄笑が夜に響き渡る。大蛇がグルリと身をよじると、右側の竜の首がねじ切れた。しかし白い天使が白い粉を撒き散らすと、胴体と落ちた首の双方から繊維が伸び、それが繋がり再び一つとなった、と思ったのもつかの間。
接合面がボロボロと腐敗して崩れ、右側の首はやはり落ちてもう繋がることはなかった。
「魔王の名は伊達ではないのだ。人間に操られる悪魔風情が相手をするなど、百万年早かったな」
黒い大蛇は、左側の首だけが残った竜の体に巻き付き、グイグイ締め上げる。いくつもの固い物が折れ壊れる音が何度も響くと、やがて竜の目からは生気が失われた。
残されたのは、あたふたと慌てふためく白い小さな天使。フルデンスは余裕の笑みを向けた。
「いかな地獄の大総裁と言えど、竜を失ってはもう何もできまい。同じ魔に生きる者のよしみだ、黙って立ち去るならトドメは刺さないでおこう」
小さな天使はホッとした顔を見せると、翼をパタパタさせながら、自分が出てきた空間の亀裂へと向かった。
「……などと言うと思ったか」
突然大蛇は口を開き、液体を天使に吐きかけた。だが、それは一瞬で蒸発する。黄金の槍で触れた訳でもないのに。
フルデンスの口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
「そちらが本体であることくらいお見通し。正体を見せよ」
キン。星空に、か細く甲高い音が走る。フルデンスの目が見開かれた。
そこにいたのは、巨大な白い三角錐の体に白い二本の腕、そして背には二枚の白い翼。だが、胸には黒い炎が燃えている。
「なるほどな。悪魔の中には『本物の堕天使』が紛れ込んでいると聞いておったが」
フルデンスは扇を口元でパタンと閉じた。
「これは面白い」
轟音と共に影屋敷が破裂し、巨大な怪物が争っている気配がする。バレアナ姫たちが心配だ。すぐに向かいたいところなのだが、目の前の圧倒的な存在感に俺の足は動かなかった。
アルバの体と魔剣がふわりと浮かび上がる。闇の向こう側ではノロシとデムガンも浮かんでいるようだ。
ザンバの手にする大鎌の柄の先で、白い魔剣を持つ白髪の男が言う。
「悪いが、こいつらにはまだ利用価値があるらしい」
「何に利用する気だ」
俺の言葉に、相手は表情を変えない。
「そこまでは関知していない」
「俺たちを斬れとは命令されなかったのか」
「もちろん言われた」
「じゃあ、何故斬らない。簡単だと思うぞ」
俺は言った。
「その魔剣レキンシェルならな」
しかし相手は一切表情を変えない。
と、そのとき。影屋敷の上空に異変が起きた。星空に輝く白い三角錐。そこから伸びる二本の腕に二枚の翼。
「おいおい、何で天使がこんなところに」
思わずつぶやいた俺に返事をするように、白い魔剣の男は空を見上げた。
「さすがに天使は放置できんな」
頭上の白い三角錐に向かってジュジュは両手を伸ばす。違う。強烈な引力に手を下ろすことができないのだ。
「何してるのヴァラク! 言うことを聞きなさい!」
「無駄だ」
嘲笑う声は黒い大蛇の頭上から。
「おまえはすでに堕天使に取り込まれている。もはや、わらわですら助けてはやれぬ。まあ、助けてやる義理もないが」
フルデンスは真下に目をやった。シャリティは力なく見上げている。悲しげな瞳で。
「シャリティ、我が童子よ。そなたはもう少し冷酷さを覚える必要があるな」
堕天使が両腕を上げた。地が震え風が吠え、頭上に生まれるまばゆい光球。それは左右に引き延ばされると、全体に螺旋の刻まれた巨大な黄金の槍となる。
槍の端を左右の手で握ると、堕天使はフルデンスめがけ振り下ろした。これを小さな扇で受け止める東方の魔王。だが、その顔が僅かに歪んだ。槍の先が静かに高度を下げつつある。
黒い大蛇の口が開き、液体が堕天使を襲った。しかしジュウジュウと音を立てながらも液体は堕天使の周囲の空間のみを焼き、本体には届かない。
堕天使は黄金の槍から左手を放し、固めた拳を大蛇の顔面に叩き込んだ。けれど拳は見えない壁にぶち当たり、梵鐘のような低い音を響かせる。
うわんうわんと世界が振動する中、フルデンスは扇を両手で押し戻しながら口元に笑みを浮かべた。
「やれ厄介な。さすがに元は天使だったモノか、生半ではない」
口の端から、牙がのぞく。
「故意でもなければ、わらわの過失でもない。多少の犠牲が出たところで、契約違反とはなるまい」
暗黒の大蛇の目に宿る紫色の光。口が大きく開き、同時に後頭部が花弁のように開くと、背から鼻先に抜ける空間が一直線に繋がった。その中心に、夜より暗い「闇」が凝縮される。
だが、そこで頭上に突然現われた白髪の男。その手に輝く白い剣が、一瞬で巨大化した。
「なっ」
フルデンスが驚く間すらない。巨大な白い魔剣が、稲妻の速度で堕天使を縦半分に切り裂く。
左右に半断された堕天使は氷漬けとなり、胸の黒い炎はかき消えた。たちまち氷には無数の亀裂、そして粉雪と化して風に散り舞う。
唖然とするフルデンスが上空をにらんだとき、白い魔剣の男はもういない。亡霊騎士団も姿を消していた。
「……まあ、今回はやむを得まいて」
フルデンスがため息をつけば、暗黒の大蛇は霧のように消えて行く。それと入れ替わるように、東の空に光が差した。
すべての窓ガラスが吹き飛んだ影屋敷では、差し込む朝日の中、バレアナ姫がホッと一息つく。
「シャリティ」
振り返る養子の嫡男に笑顔を向けた。
「あなたのおかげで助かりました。ありがとう」
それにシャリティは困り顔で応える。
「余は、別に何もしていないのです」
「それでもお礼を言わせてください。ありがとう」
次にバレアナ姫が目を向けたのはミトラ。
「ミトラにもお礼を言います。あなたの指示がなければ、私たちは右往左往していたことでしょう」
「……まだ、全部終わってないから」
ミトラはどう返事をしていいのかわからず戸惑い、うつむいてしまった。その肩にバレアナ姫は手を置く。
「これだけは忘れないで。あなたには誰かを救える力があるのです」
バレアナ姫は椅子から立ち上がった。まだ足が震えている。だがそれを皆に気取られる訳には行かない。
「パルテア、リンガル、ゼンチルダもありがとう。さあ、我が夫君の凱旋を出迎えましょう」
まばゆい清浄な光を受けて、バレアナ姫は輝いて見えた。それはまさに君主の姿。




