【短編版】鏡面のクロノスタシス
☆
四月も中旬に差し掛かったある日の夜。僕は、普段不良さえ近づかない、廃ビルの屋上を訪れていた。
夜の帳を切り裂く街の明かりと、光を反射させる大地に刺さった杭のようなビル群――それらを見下ろすことのできるこの場所は、僕にとって毎日通うほど居心地のいいスポットだ。
街の喧騒から離れ、静謐の中で緩慢に死んでいくような、理想的な時間が流れる空間。
未知への渇望や満たされぬ飢えに窒息死するくらいならいっそのこと――なんて考えを持ち始めていた僕にとって、端から一歩踏み出せば確実に死ねるというのも好都合だった。
まあ実際にビルの屋上から飛び降りるなんてことはだろうけれど、選択肢がすぐ目の前にあるというのは悪いことじゃない。
ずっと――何か大切なものを置き去りにしてしまったような、過ぎていく日々に対して満たされない感覚があった。
きっと思春期特有のものなのだろう。誰もが特別な非日常を渇望しては、磨く手間をかけなければならない現実に辟易する。
けれどこの場所に居る間、僕の中のその渇きとも呼べるものは少しだけ収まってくれた。きっと誰も知らない秘密の場所というのが効いたのだ。
ここで過ごす他愛もない時間は、自分に足りない何かを補っている気がした。
しかし今日――僕はそれが、まったくの勘違いであったことに気付く。
そう。今まではなあなあで誤魔化していただけで、その気になっていただけで、結局のところ僕が抱えた感情は、特別に対する飢えは、何一つ解消されていなかったんだ。
どうしてそれが分かったか、答えは簡単。
いつの時代も、己の間違いを知るときは――それに相反する正解を知ったときだ。
「ハロー、人間。ワシの眷属にならんか?」
星が綺麗に見える雲一つない夜空だった。
月を見上げるように、声がした貯水タンクのほうへ目を向けると――異形が、居た。
白いワンピースと同じ色の髪を持ち、瞳と同じ色の赤いコートを羽織った少女。
その背には淡い赤色を纏った、人間にはない器官――一対の羽が気怠そうに広げられている。
見た目は小学生くらいの女の子ではあるけれど、僕はその正体が何であるかを直感した。
「吸血、鬼?」
「察しが良いのは好印象じゃぞ」
どくん、と強烈な鼓動が全身に轟いた。
少女は向けられる畏怖を心地良さそうに受け止めながら言葉を紡ぐ。
「で、どうかのう? 今にもそこから飛び降りそうな顔をしておるが、どうせ一線を超えるのなら人を超えてはみぬか?」
無意識のうちに手を口元に添えて、口角が上がっていることに気付いた。
ずっとこんな時が来るのを待っていたのかもしれない。
迷いはない。未練もない。あるのはただズレていた歯車がカチカチと噛み合っていく感覚のみ。
これこそが真に、不足していたものが埋まっていくということ。
「ああ……分かった。いいよ。君が僕を必要だと言うなら、存分に使ってくれ」
それが空いた孔を埋めた"答え"。
僕は――吸血鬼の眷属となることに決めた。
☆
「……まさかの二つ返事とはの。いやいや、やはり待った。もしこのままワシの眷属になれば、其方は戦いに身を投じることになる。死ぬほど痛い目に遭うじゃろうなぁ。それでもよいのか?」
「いいよ」
「……うーむ。こうも即断されてしまうと、これまで悩んでいたワシの時間は何だったんじゃろうかと……」
「え、ずっと僕を眷属にしようか迷ってたってこと?」
「違うわ。ワシが迷っていたのは誰を眷属にするべきかという点で、其方はたまたま偶然この場に現れたというだけ。誤解するでないぞ……まったく」
「それはごめん」
頭を下げると、白髪赤眼の少女もとい吸血鬼は貯水タンクから飛び立ち、ゆっくりと僕の背後に降り立った。
その際、何故かすれ違いざまに頭を撫でられたのだが、その手つきはとても優しかった。
吸血鬼特有のコミュニケーションだろうか。
「まあよい。其方の意志が固いことは分かった。が、あとで恨み辛みをぶちまけられても困るのでな。先に開示しておくと、ワシの眷属になった暁には吸血鬼というステータスが手に入るのと同時に、《聖戦》に臨んでもらう」
「《聖戦》?」
うむ――と軽く返事をした吸血鬼は細い指先で宙に五芒星を描き、そこに手を突っ込む。
引き抜かれたのは一本の剣。
緑と桃色が螺旋を描く鮮やかなオーラを纏い、王冠の形をした鍔を持っている西洋剣。その刀身は精錬された白銀が煌めき、刃こぼれなど微塵もない。
――到底この世のものとは思えない神秘的な雰囲気が、この剣にはあった。
「…………」
――あれ、なんだろう。この感覚。
「名は《ディレット・クラウン》――これと同格の剣が他に六本存在しておる。全部で七本。これを巡る争いこそが《聖戦》じゃ。剣を揃えた果てに待つのは世界を変革する力。望むならどのような願いだろうと叶えることができる」
「……戦いに負ければ死ぬ?」
「いいや、この《聖戦》で死者は出さぬ。し、ワシの眷属となる以上は其方も吸血鬼。死に難いこともそうじゃが、主人として、同族として、ワシが守ってやるからそう簡単には死なぬよ。安心せい。じゃが敗者にペナルティが存在することは否定せぬ」
「ペナルティ?」
「剣を奪われること。そして願いを叶えられなくなることじゃ」
「リスクと言えばリスクだけど……なんだかおいしすぎる話じゃない?」
「元々想定されておらぬ戦いゆえな、ルールは参加者同士で配慮し合って作ったのじゃ。吸血鬼、不死鳥、人形、ゴースト、ゾンビ、天使、悪魔。それらが賭けるのは願い。互いを尊重し、互いの望みを殺し合う――生命の輪廻を外れた者たちによる、己がための戦争じゃよ」
本来であれば叶わない願いを叶えられるかもしれない。
その希望を、勝者は奪い取ることになる。恥も外聞も捨て、己が尊厳、誇りを注ぎ込んだ想いを踏みにじる行為は、する側もされる側も、ともすれば死より重いものを背負う。
ゆえに――命までベットする必要はない。と、吸血鬼は付け足すように語った。
「吸血鬼さんにも、叶えたい願いがあるの?」
「ああ。……ワシにはどうしても救わねばならん命がある」
「事情は分からないけど、その人を眷属にすることはできないの? 吸血鬼は死に難いんだろう?」
続けられた僕の質問に吸血鬼は、その切れ長の目を長い前髪の奥に隠して答えた。
「……残念ながら事はそう簡単ではないのじゃ」
執着や後悔が感じられる声音。
吸血鬼の願いは確かに世界を変革する力でないと叶えられないようだ。
それがどうしてか、痛いほど伝わってきた。
「そっか。分かった」
僕に願いは無い。強いて言うなら吸血鬼の眷属にしてもらうこと自体が願いで、それはきっとすぐに叶うだろう。
だから決めるのは簡単だった。
いや、元より僕はこうするつもりだ。
「叶えよう。僕が眷属となり、全力で戦うよ」
従者として、主のために――この小さな女の子のためにすべてを捧げる。
胸を張って宣言した。
すると次の瞬間、背中に何か生暖かくて平べったいものが触れた。
大きさ的におそらく羽。あまりにも独特な感触だったために驚いた僕は肩を震わせ、吸血鬼はそれを見て小悪魔的な笑みをこぼす。
「キッヒヒ、中々に良い反応じゃ」
どうやら照れ隠しに利用されたらしい。
何にせよ一転してリラックスした空気の中で、僕と吸血鬼は月明かりの下――向かい合う。
「その意気やよし。望み通り其方を、ワシの唯一無二の眷属にしてやろう」
「ありがとう」
「何を。礼を言うのはワシのほうじゃよ。感謝するぞ、人間。さあもっと近こう寄れ。契約には直接血を吸う必要がある」
そう言って吸血鬼は指で口の端を引っ張り、その牙を晒した。
「……それって首筋?」
「まあ別に腕でも構わんぞ」
「じゃあ……腕で」
「ウブじゃのぉ。そう照れられてはワシも気恥ずかしくなってきたわ」
「照れてない」
「嘘つけ。顔が赤くなっておる」
「照れてない」
「キッヒヒ、よいよい。その表情だけで存分に愛でてくれよう。さ、縁を繋ぎ、契を結ぶ刻じゃ。これで其方はワシの眷属。かくも儚く愛おしい、刹那の夢の始まりじゃのう」
「あ、そういや僕たち、まだ自己紹介してないよね。僕は紅羽。紅の羽って書くんだ。運命的にぴったりな名前だね。よろしくご主人様」
不意に、吸血鬼は何とも形容しがたい表情を浮かべた。
「――――」
どこか思い詰めるというか、懐かしむというか、夢を見ているというか――その緋色の瞳は正面に居る僕を見ているようで、視ていない。
「吸血鬼さん?」
「いや……何でもない。自己紹介、そうじゃったな。ついうっかりしておったわ」
吸血鬼は立ち上がり、反対に僕は膝をつく。
主に忠誠を誓う従者。あるいは女王の剣となる騎士のような構図になったところで、紅い羽は広げられた。
「『麗しき夜の涙』――レイラ・ティアーズ。それがワシの名前じゃ。死んでも忘れるなよ、我が従者」
「君が守ってくれるなら、忘れないよ。きっと」
しかし何故だろう。
先ほどの剣を見た時から止まらないこの感覚――レイラと名乗った幼き吸血鬼との会話。
全部が全部とはいかないけれど、どうしてか断片的に既視感を覚える。
吸血鬼と会ったことなんて、生まれてこの方一度も無いはずなのに。
昔やったゲームや見た漫画に似ているとか、そういうことだろうか。
それに。
僕は自分でも不思議なくらい、現実に幻想存在を受け入れつつある。
元々すべてに対して投げやりな部分があったことは認めるが、それでも何だろう、この気持ちは。
上手く――言葉にできない。
☆
「――よいか、紅羽。先ほども伝えた通り、この《聖戦》全体の最終目的は七本ある剣をすべて揃えることじゃ。まあ元々一本持っているから、残りの六本じゃな。
《聖戦》は二段階存在する。初戦は従者のみが一対一で戦い、それぞれが願いを主張し、懸けた想いを叫び、刃を交える。ワシらは簡単には死なんし、この《聖戦》で死者を出すことは許されない。ゆえに初戦の勝敗は相手を精神的に屈服させることで決まる。――自分の願いを諦めてでも、相手の願いを叶えてあげたい。そう思わせたら勝ちということじゃ。無論、勝敗さえ付けば一旦は良いからの。刃を交えるだけでなく、交渉などの絡め手を使うのも一つの手じゃろう。
そうして初戦を制することで、次の"剣の所有権"を奪う戦いに移行できる。この剣は特別な力を秘めておるゆえ、所有権を移すのにも苦労するんじゃ。敵は剣内部に宿る防衛機構、それを解放させた主じゃな。この二段階目の戦いでは挑戦者側の主も参加可能――つまり二体一での戦闘が可能じゃ。そこで無事に剣の所有権を奪えると《聖戦》の勝敗が決定する。
これを繰り返すことで剣を集めていくわけじゃな。ほかにも制限時間や勝敗が決まらなかった場合のルールもあるんじゃが、それはまた後日。少しもたもたしすぎたようじゃ。時間が来てしもうた。
さあ往くぞ、我らの初陣じゃ――」
午前零時になる直前。ビルに囲まれたスクランブル交差点の中心で、僕とレイラは決闘相手と対峙した。
颯爽と現れたのはすらりとした長身で黒いロングコートを着ている女。その後ろにはきっちりとしたスーツを着つつ毛先に赤いメッシュを入れているホスト風の男が控えている。
「ごきげんよう――『麗しき夜の涙』。間に合ったようで何よりです。そちらが貴女の従者ですか」
「うむ」
「紅羽と言います」
「私は大鳳あやめ。そして彼は従者のツバサだ」
「よろしくな、少年」
「自己紹介は済んだな。では午前零時ジャスト。定刻通り《聖戦》を始めるとしよう」
「え?」
僕は疑問の声を上げた。だってここは交差点のど真ん中だ。深夜ということで人通りは少ないが、それでもゼロではないし、それに信号が切り替われば止まっている車が動き出す。
《聖戦》の規模がどのようなものか分からないが、いくら何でも無関係な人を巻き込むのなら話が変わってくる――と、レイラを見たその時。
緋色の双眸が見透かしたように、"まあ見ておけ"と僕の口を封じた。
レイラは王冠の剣を何もないところから引き抜くと、それを地面に突き立てた。
「《ディレット・クラウン》――幽世、創世」
閃光。それは瞬く間に僕を、このスクランブル交差点を、世界そのものを包み込んでいく。
時が止まり、無関係な人は消え、漆黒の夜空が灰色に塗り替えられる。
それはまさしく。
「世界が、創られていく――」
幽世。それは隠世とも呼ばれ、永久に変化の訪れない世界であり、死後の世界である黄泉がある場所。
その名を冠したこの結界は、まさしく僕たちのような生命の輪廻を外れた者たちが戦うのに、これ以上ないほど相応しい舞台だった。
☆
午前三時。《聖戦》を終えた僕たちは廃ビルの屋上に戻っていた。
「――勝利の味はどうじゃ、紅羽」
「まだ実感が湧かないかな」
「其方はツバサを負かし、ワシが玉座にて不死鳥を屈服させた。これでヤツらが有しておった剣はワシらのもの。この調子であと五本手に入れれば、願いが叶うというわけじゃよ。要領は掴んだな?」
「ああ。想いを踏みにじり、願いを背負う責任――それはちゃんと、理解した。でも本当の意味で今回の勝敗はまだついてないよ」
大鳳さんとその従者であるツバサさん。二人の願いは『誰かが理不尽に泣くことのない、秩序ある世界の構築』というものだった。
立派な、願いだった。
大鳳さんは警察官として、毎日のように平穏を蝕む歪みと対峙し、同じだけの涙を見送ってきた。
ツバサさんはそんな歪みの中で生まれ、大鳳さんに助けられたことでその願いを叶える手伝いをすることに決めたらしい。
否定できなかった。一度は剣を手放しかけた。
けれどそれでレイラの願いが叶わないことはもっと許せなくて。
だから僕は一つの提案をした。
剣を揃えた者は世界を変革する力を手にし、望む願いを叶えることができる。
だから。
――レイラの願いに反さない限りで、僕が貴方たちの願いを背負う。
そう、言った。
この手で叶えると誓った想いを踏みにじることになる。
だがこの方法ならどちらの願いも実現することが可能だ。
ゆえに――僕は背負った。あの二人は、それを信じ、全力で戦い、その果てに託してくれたのだ。
だから願いは、夢は、まだ潰えてちゃいない。
「二人の願いを背負った僕らが次に負けた時こそ真の敗北。願いが、叶わなくなるということ――」
「結構。理解しておるならそれ以上は難しく考えるでない。考えることは大切じゃが、何事も程よく馬鹿であることが上手く生きるコツというものじゃよ」
「……髪、金色にでも染めようかな」
「なぜいきなりそういう話になる……」
「いや、僕は君が思うよりずっと不真面目だからさ。よく人からも真面目そうだって勘違いされるから、こう、不良っぽくなりたいかなって」
「そういうところが真面目なんじゃないのかのぉ。ま、其方の金髪姿などこれまで一度も見たことないし、新鮮で結構アリかもしれんな」
「君とは今日が初対面なんだから新鮮も何もないと思うけど」
「キッヒヒ、そうじゃのう。いかんいかん、長く生きれば記憶とは不鮮明になるものよ」
長生き――言われてみれば吸血鬼は滅多なことでは死なないし、姿形も自在であるイメージだ。コウモリになったり霧となって夜の中に潜んだり。
実際先ほどの戦いでも、レイラは大人の姿に変身していた。
どうして普段小学五年生くらいの見た目をしているのかはさておき、とにかくそれは、見た目と実年齢が必ずしも合致しているとは限らないということ。
「……レイラって実際のところ何歳なのさ」
「レディに年齢を聞くとは失礼な従者じゃな。じゃがまあ特別に教えてやると、そうじゃのう。ワシのこの記憶が確かなものなら五百は超えていたと思うが……」
「おばあちゃんじゃん」
「…………」
それからおよそ二週間。仲直りの献上品ということで物珍しそうに見ていた僕のスマホをプレゼントし、誠意の証明にと夕食に好物であるらしいシチューを作ってあげるまで、レイラは一度も口をきいてくれなかった。
☆
「《ディレット・クラウン》――幽世、創世」
吸血鬼の眷属となり、四か月が経った八月の下旬。
『聖戦』――五戦目。
対戦相手はゴースト、朝霧雪音と朝霧雪乃の姉妹。
「来たんですね、紅羽」
幽世が展開された世界で、水に濡れたような艶のある黒髪と、真夏にも関わらず白いマフラーを首に巻いた制服姿の少女――雪乃が僕の前に立つ。
「お互いの願いはこれまでの戦いで示されています。確認は必要ないでしょう?」
頷きながら改めて朝霧姉妹の願いを思い出す。
それは。
――二年前に両親を殺した犯人を突き止め、復讐すること。さらには剣の力で、死んだ両親を生き返らせること。
さらにその願いは誰かに託すことも背負わせることもできず、よって同じく願いを譲れないレイラや僕とはどうしても相容れない。
つまりこの戦いは、どちらかが確実に望みを絶たれる――当初想定された《聖戦》そのもの。
僕の真横に、レイラから投げられた《ディレット・クラウン》が突き刺さる。
雪乃の真横に、雪音から投げられた紫色の刀身を持つ歪んだ剣が突き刺さる。
「始めよう雪乃――《聖戦》を」
目蓋を閉じた。それから静かに呼吸をし、吐き出すのと同時に――剣を執る。
「ふ――ッ!」
「はッ――!」
鼓膜を震わす甲高い金属音。交錯する白銀は舞い散る花びらのような火花を起こし、一度離れても再び、引かれ合うようにして重なる。
展開される剣戟――斬撃の打ち合いはやがて鍔迫り合いとなり、純粋な膂力の勝負へ。
押し合いなら僕は負けない。吸血鬼の力がある。全身の血液を沸騰させるようなイメージで力を込め、全力で一歩、前へと踏み込んだ。
コンクリートの地面に小さなクレーターができたが気にするものか。
「うぉぉおおおお――‼」
幽世で塗り重ねたものは、壊れても現実の実体に影響しない。だから思う存分に力を出せる。
「くッ――――」
後方に吹き飛ばされる雪乃。それを追って、魔力で作り上げた緋色の羽を広げた僕が、次撃を仕掛ける。
全力で振り下ろされた剣。しかし刃が切り裂いたのは――虚無。
「……ッ」
確かに捉えていたはずの雪乃の姿が消えた。
ゴーストの従者としての能力だろう。その姿を霧のように隠し、絶対の死角から彼女は仕掛けてくる。
「――――」
吸血鬼としての鋭敏な聴覚で右後方に足音を察知した俺は、すぐさま横一文字に刀身を振るった。が、またも切り裂いたのは白い靄。つまり足音はフェイク。
すぐに体勢を立て直そうとした――刹那、突如として大気中の靄が剣を縛る氷の鎖となり、動きを封じられる。
「――雪月華。そこに水が在るのなら、私は氷の華を咲かせることができる」
いつの間にか、僕の首元には刃が添えられていた。毒々しい紫色の、折れては欠けている憎悪を秘めた刃が――。
「本気を出したらどうですか。手加減されるのは、不愉快です」
「怒ってる?」
「いいえ、別に」
「嘘だ。君は怒れば怒るほど冷静になっていく――そういう奴だろう」
クールな表情のまま、雪乃は一メートルほど後ろに飛んだ。僕もまた、氷の鎖を自力で砕く。
――仕切り直し、ということだろう。
呼吸を整え、全身に流れる力を研ぎ澄まし、背負った想いの分だけ重くなる剣を構え直す。
「――行くぞ」
第二幕の始まり。俺と雪乃は力強く踏み込み、再びその刃を交錯させる――その直前、丁度コンマ数秒後に体を動かすというその瞬間。
僕の背後に控えていたレイラが、珍しく声を張り上げて言った。
「ッ――紅羽、緊急事態じゃ……‼」
「レイラ……?」
「……?」
雪乃も何か異変を感じ取ったのか、構えていた剣を下ろす。
同じように後ろで待機していた雪音が駆け寄ってきたところで、レイラはその事実を告げた。
「領域に侵入者、何者かが外から幽世に入って来たぞ!」
「なッ――⁉」
あり得ない話だった。
幽世はこの世でもっとも強い結界だ。それに干渉できる力なんて――。
空を見上げる。
幽世が解かれたわけではない。なら侵入者は結界の"壁"に少しの穴を開けて侵入したということだろうか。
目的はなんだ。この《聖戦》に懸かっている世界の変革――そのための力が欲しいのか、あるいは何か別の、介入すること自体に意味があるのだろうか。
そんな考えを巡らせつつ周囲を警戒していると、その二人組は堂々と現れた。
「邪魔して悪い」
「こんちわ」
初めて見る顔だ。《聖戦》の参加者ではない。
最初に声を発した少年は顔は普通の日本人なのだが、髪の半分が白色、左目が紫色と、吸血鬼の僕から見ても特殊な風貌をしていて、少女のほうも常人ならざる雰囲気を纏っていた。
「誰だ?」
「悪い紅羽、もう後が無いみたいなんだ。だからこうして直接介入するしか手がない。――今からお前に杭を打ち込む」
右手の拳を強く握り直して、少年が宣言した。
杭を打ち込む――それが吸血鬼にとってどのような意味を持つのかを、僕は知っている。
正確には首を刎ねるという工程もあるのだがそれは、吸血鬼殺しを可能とする方法の一つだ。
「お前たちは何者だ? 幽世に干渉した時点で、流浪の魔術師には見えないが」
これまで沈黙を貫いていた朝霧雪音が問う。が、二人組はそれを無視して、徐々にこちらに近づいてくる。
その目的はおそらく、僕。
「私がやる。盾役は任せたぜ、相棒」
「……ああ」
「参ったな……私は博愛主義者のつもりだが、唯一コミュニケーションの取れない相手は嫌いでね。不愉快極まりない」
ぱちんと、雪音が指を鳴らした。すると前方に吹雪が発生し、それが二人を包み込む。
このまま行けば五秒もせずに二人の体は凍結し、身動きが取れなくなるだろう。
しかし少年が右手を前に構えた瞬間――その因果が捻じれ狂う。
虹色の粒子が飛び散った。同時に絶対零度の吹雪は最初から存在しなかったかのように霧散し、結果、無傷の二人がそのまま向かってくる。
「――防いだだと。魔力の消失、無効化……いいや、まさか分解して吸ったとでも? つまり幽世に穴を開けたものあの右手! ッ――紅羽!」
視界の端で閃光が奔った。
「がッ、ぁ――――⁉」
それが幽世に侵入してきた少女であると気付く頃、既に僕は地面に組み伏せられて、心臓には剣が突き刺さっていた。
なんて速度。なんて力。抗えない。まるで神様を相手にしているような絶対的な力の差が、目の前に在る。
「悪いな。もう少しだけ耐えてくれ」
刺さった杭は雪乃が持っていたはずの《エヌマーレ》。
顔を動かすことも許されず状況の判断ができないが、おそらく雪乃たちの支援は望めないだろう。
絶体絶命。しかしそれでも僕には残されていた。
固い契を結び、絆を育んだ我が主――レイラ・ティアーズの存在が。
僕の手元を離れた《ディレット・クラウン》を手に取り、亜音速で距離を詰めて刃を振り下ろす『麗しき夜の涙』。
しかし少女は斬撃を難なく素手で受け止めた。
「貴様、我が眷属を放してもらおうか……‼ 今ならまだ、死体は綺麗な形を保てるじゃろうなァ⁉」
激昂する主の姿は珍しかった。
それほどまでに僕に対して必死になってくれたことを、嬉しく思う。誇らしく思う。
だからこそ――申し訳なくて涙が出る。
その刃は、伸ばした手は、どうしたって僕に届かない。
直感した。僕は――ここで、死ぬ。
終わりを悟った僕の表情を見た少女は、ゆっくりと、力尽くでレイラから剣を奪い取った。
それだけじゃない。少女はどこか悲しげに言い放つ。
「レイラ、――――なんだよ」
「な、……え、ぁ……き、貴様、何故……」
何を言ったのか、聞こえなかった。いや、聞こえたかもしれないけれど理解できなかった。
確かなのは、それでレイラが戦意を喪失したことと、僕に対して今にも泣きだしそうな表情を浮かべたこと。
手のひらに温かい感触があった。それは地面に広がった僕の血だ。
「これも一つの終わり。だが、お前が背負った想いは消えないよ。だから」
少女はレイラから奪った《ディレット・クラウン》を構えた。
心臓は潰されている。あとは首を刎ねて、それでおしまい。
ああ。世界が、壊れていく――。
☆
「ハロー、人間」