1章-3
不安が無かったかというと嘘になる。私は死んだ。
覚醒した時に私が知覚していた身体はおぞましい肉塊だった。人の常識から外れ、明らかに私は引き返せない一歩を歩もうとしていた。知性が、理性が、この先は決して楽な道ではない事を告げている。
だが、それがどうしたというのだ。
私は魔物だ。
死を迎え、そして、蘇った。
ならば何を躊躇う事があるのだ。
肉体の変容に伴い、精神が変化する。
過去の自身の仇であるはずのハードダイス、エイザと伴に薄暗い洞穴を進む。憎いはずの仇に対しても私の精神は揺らがなかった。成長したのではない。エイザは私の直接の死とは無関係だから、理性が彼を憎んでも仕方ないなどと嘯いたからではない。
私は考える。
既に私は私ではなくなっていたのだ。
我は手負いの狩人だった。
群れから離れた我を倒そうとあのミノタウロスが我に剣を向けたのは3日前の事。それから奴に牙を向けるも我だけでは敵わない事が分かった。後は逃げるだけ。文字通り一匹狼の我には背中を預けられる仲間はいない。多くの血を失いながら、しっぽを巻いて逃げるしかなかったのだ。
あの場での出会いを我は生涯忘れないだろう。
蠢く触手。
不愉快な粘液。
おぞましい姿形。
逃走の果てに私に相対したのは見た事のない魔物。
能力は未知数。一噛みして勝てる相手か、否か。
働かない頭が、限界を暗に告げていた。
そこから先はあっという間だった。
気付けばこうして肩を並べて洞穴を探索している。
ふむ。
果たしてこの生物に肩と呼べる部位はあるのか。
「何を考えておる」
「あー…ナ、ナ、にモ…」
奇妙な同行者は人語を発するようになった。たどたどしいのはインテグラが産まれたばかりだからという。どこで産まれたのか問い質すと、良く分からないという。何処から産まれ、何を目指すのか。産まれたばかりの赤子も同然という事だ。同族ならばともかく、下等な魔物に普段ならば気を遣う事はない。
「隠すでない。何かを案じておるな」
しばしの沈黙の後、インテグラはおどろおどろしい口を開いた。
「あー…不安…」
「案ずるな。我が伴にいる」
「あー…」
「風の匂いを辿れば外へ繋がるはずじゃ。水の気配も微かにだがある」
案ずる事はない、重ねて念を押すとインテグラは納得したのか「あー…」と返した。
産まれたばかりの小童なのだ。
戯れに自身の事を語ることにした。
「我は群れの中で頂点だったのじゃ」
「あー…?」
「同族の別の群れと争っての…。昔の事じゃ」
「あー、マ、マケ、タ…?」
「そう簡単な事ではない。一方が一方を征服するとは、手心を加えないという事じゃ。我が率いていた雌達は皆殺しにされた。そして我だけが残された。情けではない。群れを持たない1匹狼に生きる術など無いのじゃ」
「あー…」
「同情してくれるか。しかし情けは不要じゃ。あれから時が流れたのじゃ。後悔などとうの昔に置いてきたわい。だから何も億する事はない」
ありとあらゆる事は時間が解決する。
我はその言葉を呑み込んだ。インテグラにそこまで踏み込んだ事を語るのは酷だ。
知性を感じさせる肉塊を気遣い、私達はのそのそと洞穴を進んだ。
洞穴を進む。
私は粘液を垂れ流し、エイザは片足を引きずる。
「水場じゃ」
エイザは低く唸った。
どうしたのだ。
姿勢を低くするように促され、私達は手頃な岩場へと身を潜めた。
水場は私達の前方、目と鼻の先に岩場から流れるように湧き出ていた。
私とエイザが入浴出来るくらいの大きさの水たまりが出来ていた。水の流れがあるので飲み水には適しているだろう。水筒の水は十分とは言えず、私もエイザも喉の渇きを覚えていた。
すぐにでも駆け寄りたい気持ちを抑え、岩場に身を潜める理由に気付く。
薄暗闇に浮かぶ複数の点々。
それは蠢き、
さえずり、
見る者への不安を煽る。
水場に群がる数え切れない小型モンスター。
「ケーブラットじゃ」
ケーブラットは洞穴に生息し、群れを形成する。
数匹程度であれば害を為さないが数十、数百の群れとなると途端に凶暴性を増す。無力なラットだと侮れば、無慈悲に身体を齧られ瞬く間に骨のみにされてしまうだろう。
とは言え、脅威度の具合はケンタウロスの比ではない。
「ここで身を潜めているのじゃ」
声を潜めてエイザは大きく飛び掛かった。
水場の手前へと前足を振り下ろし、ケーブラットの群れへと齧り付く。腹が減っていたのかエイザは恐るべき速度でケーブラットを平らげていった。
しかし、多勢に無勢だ。
大きな捕食者の勢いに怖気づいていた群れは次第にエイザを中心として包囲を狭めていった。いくら彼が食い荒らしたとしても、どこから湧いて来たのかというくらい次から次へと湧き出してくる。
とうとうエイザの足元までケーブラットが殺到し、勢いのまま巨体を登りだした。
「下等生物が!!」
激しく身を捻りエイザも抵抗するが、吹き飛ばした端から殺到していく。
このままでは彼が危ない!
しかし、私に何が出来るというのだ。無力なこの身では、触手でラットを払う内、あっという間に齧られ、尽きてしまうだろう。このまま身を潜めて彼の命が枯れるのを眺めている事しか出来ないのか。
案ずるな。
私の生まれを気遣い、僅かな時間共に寄り添った、心優しき同行者。
そして私のかつての仇の同族。
死への恐怖、彼を失う事への失望感、彼の同族を恨む怒り。
様々な感情が私の中でごっちゃ混ぜになり、
「死ぬな!!」
ただ一つの想いが声となり私は、私の一部を風に乗せた。
地面へ身体を押し付けてがむしゃらにケーブラットを押しつぶしていく。この旅もここで終わってしまうのか。我の抵抗もむなしく、更にケーブラットが殺到しようとした時だった。
『死ぬな!!』
ハードダイスが駆ける速さに匹敵する速度で数本の触手が風を斬った。