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ビニール本

陸の人魚

作者: 佐伯寿和

ゴウゴウ

まぶたの外では、揚々とやってきた春風が嵐のごとくひっきりなしに、窓を叩いている。ボクの耳は、止まない゛春嵐゛たちの喧騒を、大洋の時化しけのように脳裏に描いた。

深く、深く眠ろうとするボクを引き戻そうと、彼らは幾重にも押し寄せる荒々しい波を釣り針にしてやってくる。


穏やかな夢の中へ、海底へと逃げこもうとするボクを海面へ、海面へと釣り上げにかかる。誰もいない沖へ、沖へと押し流していく。

対して、彼らの喧騒が耳に届いた時点でボクはとっくに逃げるのを諦めていた。

だからボクは手荒に扱われる荒波の中でも、もがこうとは思わなかった。流されるままに、悠然と漂う魚のようにしていればいいだけのこと。たとえ嵐の中であったとしても、ボクは目をつむり続けていればいいだけのことなのだから。


ザリッ

嵐は無防備なボクが、海に馴染なじもうとするボクが気に入ったようだった。どんなに無反応を決め込んでいても、ボクとたわむれる方法なんていくらでもあると言いたげだった。

嵐に乗ってやってきた対岸の砂が容赦なくエラに流れ込む。エラが詰まり、ボクはやむなく居心地の良かった海中から頭を出す。

瞼を持ち上げれば、そこはおかの上で、アパートの一室で、ボクのよく知るベッドの上だった。


ボクはどちらかと言うとだらしない性格なようで、開けっ放しにしていた窓から、開けっ放しにしていた口の中に、春風が運んできた黄砂が入り込んでいた。

身体を起こし、部屋を見渡す。

部屋の家具という家具に、黄砂がベールのように薄っすらと降り積もっている。


ゴウゴウ

陸へと打ち上げられたボクは、二本足で立って改めて自分が人間だと確かめてみる。

散らかっている薄い膜を取り払い、窓を閉め切れば、そこはすっかりボクの知る部屋に戻るに違いない。儚い夢は、音もなく消え去る。ボクは正真正銘のボクに還る。そういうもの。


けれども振り返るとそこに、今もなお海の中を泳ぐ美しい人魚がいた。

彼女は清楚なエラを閉じて、どこまでも、どこまでも潜り続けている。どこまでも、どこまでも――――、


マニキュアでオパールのような光沢を持った卵状の爪が並んでいる。その付け根にできた薄皮のささくれ。見れば見るほどにそれがおかにいる光景に疑問符を覚えずにはいられない。

巨人のごとき両手で押し潰そうとたくらむ海水たちから身を守る『鱗』に見えてならない。


気づけばボクは『現実』に帰り、彼女に見惚みとれていることに気付いた。キスをして彼女の尾ひれに魔法をかけてあげるか否かの間で葛藤かっとうしていた。けれども彼女は今にも目を見開き、欲しいものを自分の手で手に入れてしまうかもしれない。ボクにはそれをどうすることもできない。

だから、その葛藤の時間が、鑑賞していられる時間が、彼女が人魚でいられる儚い時間がたまらなく惜しく感じられた。

でも――――、


「…おはよう。」

嵐に比べればそれはとてもか弱い声なのに、ボクはそれを聞き逃さなかった。そしてボクは思い出す。

大海原で美しく生きるそれよりも、隣に立ってくれる彼女に、ボクは心を奪われていたのだということを。

陽気な春風はボクたちの部屋に吹き続けた。

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