元公爵令嬢、奴隷ギルドに入る
エレノア・ラングフォードが公爵家を出ることになったのは朝食の席だった。父の死から三か月が過ぎた今では姉のイザベラが公爵家の実権を握っている。その姉は焼きたてのパンを銀のナイフで切りながら妹へ告げた。
「あなたには今日限りで屋敷を出てもらいます」
「理由を伺っても?」
「理由が必要なの?」
「記録のためです」
イザベラの眉がわずかに動いた。昔から妹のこういうところが嫌いなのだろう。泣きも怒鳴りもせずあとで読み返せる形にしようとする。
「あなたがいると家中が落ち着かないの。亡きお父様のお気に入りだったから皆が余計な期待をするでしょう。公爵家にはもう二人も令嬢はいらないわ」
「承知しました」
「修道院に入れば慎ましく暮らせるでしょう。北方の聖ロザリア修道院へ話は通してあります」
そう言ってイザベラは隣に控えていた執事へ目をやった。執事は白い上質紙の封筒と灰色の粗末な紙封筒を抱えている。イザベラが苛立ったように指を鳴らした。
「早く」
執事は慌てて灰色の封筒を差し出した。エレノアはそれを受け取って赤い封蝋に押されたラングフォード公爵家の紋章を確認する。ただし宛名は少しにじんでおりインクが乾く前に誰かが乱暴に重ねたらしい。
「姉上」
「何?」
「お世話になりました」
エレノアが頭を下げてもイザベラは答えなかった。馬車はすでに裏門に用意されており持ち出せる荷物は小さな革鞄ひとつだけだという。
エレノアは涙をこぼさなかった。姉が自分を嫌っていることなど十年前から知っている。父が生きていたころから廊下ですれ違うたびにイザベラの顔には薄い棘が浮かんでいた。
それに父は最後にこう言っていた。
『追い出されたときこそ相手の失敗を拾いなさい。追い出す側は必ず雑になる』
だからエレノアは渡された封筒を革鞄へ入れて馬車に乗った。
馬車が北へ向かっていないと気づいたのは日が傾き窓の外に港へ続く倉庫街が見え始めたころだった。
「御者さん。聖ロザリア修道院は北方では?」
「ああ?」
御者は振り返らずに答えた。
「西区だろ。黒羊ギルドって聞いてるぜ」
「黒羊ギルド」
「紹介状にそう書いてあった。俺は読めねえが屋敷の執事がそう言った」
エレノアは鞄から封筒を取り出して封を切った。中の紹介状には修道院の名など一文字もない。
『黒羊ギルド長殿。以下の者を奉公人として引き渡す。身柄の処分はそちらに一任する』
末尾にはイザベラの署名と公爵家の印があった。手違いなのか悪意なのか。封筒を取り違えた執事の青い顔と姉の苛立った声を思い返せばおそらく両方が混じっている。
「御者さん」
「何だよ。戻れって言われても戻らねえぞ」
「戻らなくて結構です。黒羊ギルドがどのような場所かご存じですか」
御者は短く舌打ちした。
「知ってても言わねえほうがいい場所だ」
「では到着したらすぐ帰ってください。巻き込まれると損です」
「……あんた本当に公爵家の娘か?」
「今日までは」
黒羊ギルドの建物は西区の裏通りにあった。看板は出ておらず外壁は煤けて窓には厚い板が打ちつけられている。入口に立つ男はエレノアの鞄を見たあとで顔を見て最後に封筒を確かめた。
「新入りか」
「紹介状ではそうなっています」
「中へ入れ」
扉の向こうには酒と煙草と湿った木材の匂いがこもっていた。受付らしい机の上では硬貨と伝票と食べかけの干し肉が同じ場所を占めている。壁際で二人の男が荒い声で値段を話す間にも奥の鉄扉の向こうから鎖の触れ合う音が聞こえた。
受付の男が椅子を軋ませて立った。
「読み書きは?」
「できます」
「計算は?」
「できます」
「畑仕事は?」
「向きません」
「掃除は?」
「必要なら」
男は傷のない白い手から靴へ視線を移して鼻で笑った。
「元貴族か?」
「元公爵令嬢です」
近くにいた男たちが笑ったが長くは続かなかった。エレノアが机の上の伝票を一枚取り上げたからだ。
「触るな」
「銀貨三十二枚が合いません。こちらの集計表では今日の受け取りは銀貨百八十七枚ですが机上にある伝票の合計は百五十五枚です。残りはまだ袋の中ですか。それとも誰かの懐ですか」
受付の男は伝票を奪い返した。目で数字を追いながら唇を動かし最後に硬貨袋を見る。
「おい。ギルド長を呼べ」
奥の扉が開いて黒い外套を着た大柄な男が出てきた。片目には古い傷があり腰には短剣を下げている。闇組織の長としては分かりやすすぎる姿だった。
「俺がガラハンだ。公爵令嬢様がうちの金に文句をつけたそうだな」
「文句ではありません。ずれの指摘です」
「同じだ」
「同じではありません」
ガラハンは数秒だけエレノアを見てから受付の男へ顎をしゃくった。
「帳簿を出せ」
「本気ですかい」
「三十二枚の行き先が気になる」
帳簿は革表紙だったが中身はひどかった。月別と相手別と品目別の記載が混在し同じ人物の名前が三通りの綴りで出てくる。赤字で消された行にはなぜか合計欄だけが残っている。
エレノアは一時間ほどページをめくったあとで羽根ペンを借りた。
「半年以内に潰れます」
近くの男たちが口を閉ざしてもガラハンは笑わなかった。
「理由は」
「横領と架空取引と賄賂の払いすぎです。あと誘拐の証拠を残しすぎています」
「誘拐なんざどこの商売でも似たようなもんだ」
「その言い方で生き延びられるのは捕まらない者だけです」
受付の男が机を叩いた。
「女ひとり来たくらいで何が分かる」
「棚の右から三番目に処理済みの証文と未処理の証文が混ざっています。いま監察官が入れば一晩で足がつきます」
「監察官なんか来ねえよ。役人には払ってる」
「払っている相手が悪いです。帳簿に残された支払いの記録では西区の役人はあなた方から二倍取りながら中央には半分も納めていません。帳簿の写しを持って逃げる準備までしています」
受付の男が黙るとガラハンは机に置かれた羽根ペンを指で転がした。
「じゃあ公爵令嬢様はどうする」
「奴隷売買をやめます」
今度は全員が声を上げた。
「ふざけるな」
「それで何を売るんだ」
「人です」
「同じじゃねえか」
「違います。鎖つきで売るのではなく仕事先へ紹介します。雇い主から紹介料を取ればいいのです」
荒くれ者たちは互いの顔を見た。意味は分かるが気に入らないという顔だった。
「借金で売られた者は債務契約に切り替えます」
「誘拐されたやつは?」
ガラハンの問いにエレノアは迷わず答えた。
「解放します。訴え先はこちらで用意します」
「それを俺たちがやるのか」
「やらなければあなた方が証拠ごと潰されます」
エレノアは帳簿の一枚を抜き出した。
「身寄りのない者には職を探して雇い主から紹介料を取ります。犯罪者は西区の役人ではなく中央監察局へ引き渡します」
「中央だと。俺たちも捕まるぞ」
「捕まります」
受付の男が椅子を鳴らしたきり誰も口を開かなかった。
「ただし全部捕まるよりはましです。被害者を保護して証拠を提出し今後は職業斡旋へ切り替える。監察局は使える組織を残すことがあります。あなた方が善人になる必要はありません。生き残るために悪事の種類を選ぶだけです」
ガラハンが椅子に腰を下ろすと重みで床板が鳴った。
「お前は修道院へ行くはずだったんだろ」
「ええ」
「祈る代わりに俺たちの帳簿を焼く気か」
「焼きません。写しを取ってから整理します」
「悪魔か」
「元公爵令嬢です」
その日から黒羊ギルドの仕事は少しずつ変わった。まず地下の鉄扉が開けられると中には二十七人がいた。借金の形に連れてこられた農夫や親とはぐれた子どもや奉公先から売られた娘のほかに喧嘩で人を半殺しにした男までいる。全員を同じ札で扱っていたせいで帳簿も現場も腐っていた。
エレノアは一人ずつ名前を聞いた。答えない者には無理に迫らなかったが年齢と出身と連れてこられた経緯に加えて怪我の有無だけは記録した。
「名前は?」
「……ミナ」
「家はどこですか」
「東の村。麦畑のあるところ」
「連れてきた者の顔は覚えていますか」
少女は首を横に振りかけて途中で止めた。
「指がなかった。左手の小指」
エレノアはその特徴を書き留めた。隣で見ていた黒羊の男がばつの悪そうな顔をする。
「お嬢。そんな細けえことまでいるのか」
「あとで役に立ちます」
「俺たちが捕まるのにも役立ちそうだな」
「捕まり方を選べるだけ幸運です」
最初の一週間はギルドの男たちから文句ばかり出た。鎖を外せば逃げる。名前を書いて何になる。雇い主など見つからず紹介料では酒代にもならないという。
エレノアはそのたびに机の上へ成績表を置いた。
「今月から担当制にします。逃亡者を出した者は原因を書いて提出してください。雇い主から苦情が出た場合も同じです。紹介してから三十日続けば報酬を上乗せします」
「俺たちに字を書けってのか」
「書けない者は書ける者に頼んでください。報酬から代筆料を差し引きます」
「横暴だ」
「契約です」
成績表は効いた。棍棒を振るわれるより差し引かれた銀貨のほうが男たちには痛かった。
二か月目には元農夫の何人かが近郊の開拓村へ出た。読み書きのできる少年は商家の見習いになり奉公先から売られた娘は監察局の保護官へ引き渡された。喧嘩で人を半殺しにした男は逃げようとしてガラハンに殴られたあとでそのまま当局へ送られた。
何もかも円満に進んだわけではない。解放された者の中には黒羊の男たちの顔を見て唾を吐く者もいれば雇い先で続かず戻ってくる者もいた。誘拐された経緯について途中で証言を変える者までいる。それでも鎖の音は減っていき代わりに紙の束が増えた。
「お嬢。また書式が増えてるぞ」
「次からは職種別にします」
「増やすなって言ってるんだ」
「読めば分かります」
「読むのが嫌なんだよ」
受付の男はそう言いながらも前より丁寧に書類をそろえるようになった。名前はまだ時々間違えたが干し肉を伝票の上に置くことはなくなった。
三か月後には黒羊ギルドの看板を下ろし「黒羊職業斡旋所」として仕事を始めた。ひとまず仮の看板も出した。煤けた外壁を洗って窓板を外すと近所の子どもが初日に石を投げた。二日目には求人の札を眺めて三日目には元奴隷商人の男から走り方が悪いと叱られていた。
中央監察局への書類は雨の日に出した。エレノアは帳簿の写しを油紙に包んで封をする。ガラハンはその封筒を見たまましばらく口を開かなかった。
「これを出せば俺たちは無傷じゃ済まねえ」
「出さなければ首まで沈みます」
「お前の姉の名前もあるな」
「あります」
「抜けとは言わねえのか」
「抜けばこちらの信用が落ちます」
ガラハンは低く笑った。
「身内より信用か」
「身内に信用を売られましたので」
封筒はその日のうちに監察局へ渡った。
通知が届いたのはそれから一か月後の朝だった。雨はもう上がっていたが屋根から落ちる水滴がまだ入口の石畳を叩いていた。
地方役人の名前が並ぶ紙をガラハンは黙って読んだ。受付の男は横からのぞき込んで途中で顔色を変える。黒羊にも罰金と監視処分が下り幹部の何人かは連行されて二度と戻らなかった。ガラハンにも出頭命令が来たが処刑の文字はなかった。
被害者の保護と証拠の提出。その二つが首の皮一枚を残した。
「俺たちを売ったな」
出頭から戻った日の夕方にガラハンは執務室の戸口でそう言った。片目の傷の下には新しい擦り傷が増えていた。
「はい」
「少しは悪びれろ」
「売らなければ私たち全員が潰れていました」
「私たちね」
ガラハンは濡れた外套を椅子に投げた。
「公爵令嬢様はずいぶん黒くなった」
「ここに来た時点で白い服ではいられません」
「修道女には向いてなかったな」
「修道女になっていたら帳簿の乱れに気づいても鐘を鳴らすくらいしかできませんでした」
「それはそれで迷惑だ」
エレノアは署名待ちの契約書を机の端に寄せた。
「ところで監視処分中は雇用先の確認記録が毎週必要です。提出が遅れると罰金が増えます」
「今その話をするか」
「罰金は待ってくれません」
同じころ公爵家にも監察局の手が入った。イザベラは自分が妹を修道院へ送っただけだと主張した。だが黒羊ギルド宛ての紹介状には彼女の署名と公爵家の印がある。執事はあの日二通の封筒を取り違えたことに加えてイザベラが急がせたことや灰色の封筒が別件の処分依頼だったことまで証言した。
イザベラは当主の座を失った。爵位は遠縁の叔父へ移り彼女は聖ロザリア修道院へ送られた。妹に用意したはずの行き先へ自分が入ることになった。
それから半年後に聖ロザリア修道院から黒羊職業斡旋所へ依頼が来た。孤児院の子どもたちに読み書きと仕事を教える講師を探しているという。
依頼書を届けに来たのはイザベラ本人だった。修道服は彼女に似合っていない。高価な髪飾りも宝石もなく頬は以前より痩せていたが背筋だけは昔のままだった。
「エレノア」
「姉上」
受付の男がすぐ剣の柄へ手を伸ばしたのでエレノアは目で止めた。イザベラはそれを見て苦い顔をする。
「ずいぶん危ない場所で働いているのね」
「前よりは安全です」
「それは私への皮肉?」
「事実です」
イザベラは唇を噛んだ。何かを言いかけたものの口にする前にやめた。
「私はあなたに謝るべきなのでしょうね」
「謝罪は受け取ります」
「まだ謝っていないわ」
「ではどうぞ」
受付の男が咳をしたのは笑いをこらえたのだろう。イザベラはそちらを睨んだがすぐに視線を戻した。
「悪かったわ。あなたを追い出したことも封筒を確かめなかったことも」
「受け取りました」
「それだけ?」
「それ以上を望みますか」
「あなたは私を恨んでいないの」
「恨んでいます」
イザベラの顔が強張った。
「恨みはあります。ただ帳簿に載せても利益を生みません。処理する順番を後ろに回しているだけです」
「……あなた本当に変わったわ」
「姉上も少し痩せました」
「そこを見るの?」
「食事が足りないなら修道院との契約に給食費を入れます」
イザベラは怒るべきか笑うべきか迷った末に疲れた息を吐いた。
「孤児院の子どもたちに仕事を教えてほしいの。院長はあなたのところなら雇い先まで見られると言っていたわ」
「契約書を作ります」
「妹相手に?」
「姉妹だからです」
その日のうちに黒羊職業斡旋所と聖ロザリア修道院の契約が結ばれた。孤児たちには読み書きと計算を教えて希望者には職人見習いや商家の奉公先を紹介する。
紹介料は低くしたが修道院の印が入った契約書は残った。エレノアはそれをほかの雇い主へ見せる書類の一番上に置いた。
夕方になるとガラハンが仮看板と取り替えるための新しい板を抱えて執務室へ入ってきた。
「おい。元公爵令嬢。看板屋が文字を入れる前に確認しろとさ」
板には『黒羊職業斡旋所』と下書きされていた。エレノアはしばらく眺めてから首を横に振った。
「変えます」
「またか」
「黒羊解放ギルドにしましょう」
ガラハンは露骨に嫌そうな顔をした。
「綺麗すぎる。うちの過去を知ってる連中が石を投げるぞ」
「すでに投げられています」
「じゃあ悪化する」
「地下にいた人たちはここを忘れません」
「恨みでか」
「それもあります。でも外に出た日のことも覚えています」
窓の外ではかつて地下にいた少年が荷車を押していた。商家の見習い服はまだ大きすぎて袖を二度折っている。その隣では元奴隷商人の男が雇い主へ頭を下げていた。敬語はまだぎこちない。
「鎖を外した場所だと覚えられるならその名前を使います」
「商売人みたいなことを言いやがる」
「商売です」
「解放を売るのか」
「鎖よりはましです」
ガラハンは看板を床に立てかけた。
「分かったよ。じゃあその黒羊解放ギルドの長は誰にする」
「あなたでは?」
「俺は罰金持ちの前科者だ。表に出す顔じゃねえ」
「私も公爵家から追い出された女です」
「その女がここを変えた」
エレノアは机の上を見た。修道院との契約書や雇用先一覧や監察局への提出記録に加えて苦情処理票まである。肩書きより先に仕事が積まれていた。
公爵家を出た日から肩書きは何度も変わった。修道院へは行かず奴隷にもならず闇組織の帳簿を開いた。鎖を数えて外し契約書に変えた。
肩書きはあとで帳簿に書けばいい。先に仕事を片づける。
「では最初の命令です」
「何だ」
「明日から契約書の書式を統一します。誤字脱字は減給対象です」
ガラハンは顔をしかめた。
「やっぱり悪魔だなお前」
「元公爵令嬢です」
エレノアは署名済みの契約書を机の端にそろえた。
「そして本日より黒羊解放ギルド長です」




