第43話 反撃の萌芽とそれぞれの戦場
新宿区役所1階、ダンジョン管理課のフロアは、絶え間なく鳴り響く電話のコール音に支配されていた。
まひるは受話器を耳に押し当て、ひたすら謝罪の言葉を紡いでいる。
「はい、申し訳ありません。その件につきましては、区としても適切に対応を……はい。貴重なご意見として承ります。失礼いたします」
受話器を置いた瞬間に、隣の回線が赤く点滅を始める。まひるは疲労で重くなった腕を上げ、再び受話器を取った。
待合スペースの天井に設置された大型モニターでは、昼のワイドショーが流れている。
画面に映し出されているのは、経済産業省が設置した有識者会議のメンバーであり、テレビでもお馴染みの恰幅の良い大学教授だ。
『新宿区のダンジョン管理は、根本的に限界を迎えています。ダンジョン中層に巨大な違法建築物が作られるまで放置されていた件。そして、違法な魔物肉による集団食中毒。これらはすべて、地方自治体のチェック機能が全く機能していなかった明確な証拠です』
教授は深刻ぶった顔でカメラを見据え、言葉を継ぐ。
『国家の次世代エネルギーの源泉であるダンジョンを、これ以上1自治体に任せておくのは国益を損ないます。国が責任を持って一元管理する新法案の提出は、遅きに失したくらいですよ』
鈴木課長は自分のデスクの奥に身を縮め、うつろな目で卓上のペン立てを見つめている。
連日の報道と国からの容赦ない圧力に当てられ、彼はすっかり生気を失い、もはやひっきりなしに鳴り響く電話の音にすら反応を示さなくなっていた。
「……お電話ありがとうございます。新宿区役所ダンジョン管理課です」
高木は感情の波を一切見せず、淡々とした声で受話器に向かって対応を続けている。クレームを処理しながらも、その目は3つのモニターを忙しく行き来していた。
画面には、霞が関のデータベースからダウンロードした過去の議事録や、関連する法令の条文が隙間なく並んでいる。圧倒的な逆風の中にあっても、高木のキーボードを叩く指先の速度は全く落ちていない。
やがて、定時を知らせるチャイムがフロアに響いた。
高木は現在対応中の通話を終えると、保留ボタンを押して立ち上がった。
「安藤さん。今日の窓口対応はここまでだ。残りの電話は音声ガイダンスに切り替えて、定時で上がってくれるかな」
「でも、まだ電話が……」
「疲労した状態でクレーム対応を続けても、判断力が鈍って相手を刺激するだけだ。しっかり休息を取ることも、我々の重要な業務の1つだよ」
高木は短い言葉で指示を出し、デスクの上のバインダーを片付けた。
役所の通用口を出て、夕暮れの冷たい風を浴びたところで、高木のスマートフォンが短く振動した。
メッセージアプリを開くと、簡潔な通知が入っている。
『西口のハンバーガーショップ。すぐ来て。デートだよ』
送り主は谷口ヒカル子だった。
指定されたファストフード店は、学校帰りの学生たちや買い物客で混雑していた。
油とケチャップの匂いが充満する店内の窓際の席で、ヒカル子はストローを噛みながら外の景色を眺めていた。オーバーサイズのパーカーにカーゴパンツといういつもの装いだが、目深に被ったキャップの奥の瞳は、周囲を鋭く警戒している。
「遅い。5分の遅刻」
高木が向かいのプラスチックの椅子に腰を下ろすと、ヒカル子は目の前に置かれたトレーから、ダブルチーズバーガーの包みを1つ押し出してきた。
「私の奢り。食べなよ」
「未成年に奢らせるわけにはいかないな。いくらだい」
「いいから! 今日は私がボスを慰めるためのデートなんだから。黙って受け取ってよ」
ヒカル子は強引に話を遮り、自分のポテトをつまんで口に放り込んだ。
「テレビ、見たよ。ひどいじゃん。ボスたちが必死に解決した事件を、全部区役所のせいにしてさ。あんなの、ただのイジメでしょ」
ヒカル子はポテトを噛み砕きながら、真っ直ぐに高木を見た。その瞳には、大人たちの汚いやり口に対する明確な怒りが燃えている。
「私は行政の人間だ。事実関係はすべて記録に残っている。メディアがどう報じようと、覆るものではない」
高木はハンバーガーの包み紙を開き、一口かじった。肉の脂と濃厚なチーズの味が広がる。
「強がらないでよ。相手は国のお偉いさんなんでしょ。法律ごと作り変えられちゃったら、ボスの得意な六法全書も使えないじゃない」
ヒカル子は身を乗り出し、周囲に聞こえないように声を落とした。
「私に調べさせてよ」
「何をだ」
「あの神崎って官僚の裏の顔。オメガ・ファミリアとつるんでたんだから、絶対に汚い金が動いてるはずだよ。私が省庁のネットワークに潜り込むなり、あいつの自宅や別荘を洗うなりして、決定的な証拠を見つけてくる。だから……」
「却下だ」
高木は即座に言い切った。
「これは国と地方自治体の、法的な手続きを巡る争いだ。君が非合法な手段でリスクを冒す必要は全くない」
「でも、このままじゃボスが負けちゃうじゃん!」
ヒカル子がテーブルを強く叩く。氷の入った紙コップがカチャンと鳴り、周囲の客が数人、怪訝そうにこちらを振り返った。
ヒカル子は下唇を強く噛み、高木を睨みつける。
「私がボスの専属エージェントだって言ったの、忘れたの? ボスが表のルールで戦えないなら、私が裏からルールの外の証拠を持ってくる。それが私の役割でしょ」
高木は静かに息を吐き、ヒカル子の目を見つめ返した。
「絶対にダメだ。君が地上の法律を犯すなら、私が君を告発しなければならなくなる」
高木が極めて事務的に、しかし冷徹なまでの重みを持って宣告すると、ヒカル子は言葉に詰まった。
「……っ、でも!」
「気持ちは十分に受け取った。だが、今回は私の仕事だ」
高木が静かに答えると、ヒカル子は少しだけ不満そうにしながらも、小さく頷いた。
「わかった。ボスの言う通りにする。……でも、何かあったらすぐに呼んでよ。絶対に力になるから」
ヒカル子は残りのコーラを一気に飲み干し、ストローを噛んだ。
★★★★★★★★★★★
日本冒険者ギルド機構、新宿支部。
分厚い扉で閉ざされた法務部のセキュリティールームで、大野恵里はブルーライトカット眼鏡の奥の目を細め、膨大なデータと格闘していた。
画面に表示されているのは、経済産業省の推進事業に優先的に割り当てられている特権クランのリストと、その過去の活動履歴だ。
恵里はキーボードを叩き、特権クランが巧妙に隠蔽していた過去の規約違反や、未申告のドロップ品のデータを次々と発掘していく。
その指先は迷いなくタイピングを続け、国と癒着するクランを一網打尽にするための処分状を構築していく。
同時刻。新宿税務署。
宮本マリは、デスクの上に広げた分厚いファイルに赤ペンで線を引いていた。
グローバル・エッジやオメガ・ファミリアの摘発時に押収した裏帳簿のデータ。そこから繋がる、複数のペーパーカンパニーを経由した複雑な資金の流れ。その網の目の終着点に浮かび上がってきたのは、神崎が関係する政治資金管理団体の口座だった。
マリはふっと冷たい笑みをこぼす。
「乾三くんに1人で貧乏くじを引かせるわけにはいかないわね」
彼女は手元の端末を操作し、国税庁のシステムを通じて複数の銀行に対する口座の一斉照会をかけた。
新宿区保健所。
工藤ゆき子は、白衣を翻しながら検査室の機材の間を歩き回っていた。
彼女の手元には、違法魔物肉から検出された寄生虫に関する詳細な成分分析データと、国が新たに提示した『ダンジョン産食品衛生基準案』のリストがある。
ゆき子は研究者としての鋭い視線でモニターを睨みつける。彼女は静かにキーを弾き、国の基準案がいかに科学的根拠に乏しいかを示す反証データのコンパイルを開始した。
とある雑居ビルの一室。
フリーライターの今井素子は、複数のモニターに囲まれながら、手元のスマートフォンを操作していた。
彼女のDチューブチャンネルとSNSには、独自の取材で得た神崎周辺の黒い噂や、テレビメディアの報道の偏向ぶりを指摘する構成案が並んでいる。
素子は不敵な笑みを浮かべ、実行コマンドを送信した。即座に、複数のアカウントから関連する情報がネットワーク上へと放たれていく。
さらに、海を越えたネットワークも動いていた。
留学生のクロエは、自室から海外の冒険者コミュニティに向けて英語でのライブ配信を行っていた。
彼女の実体験に基づく切実な訴えは、リアルタイムで翻訳され、国境を越えて多くの外国人冒険者たちの共感を呼び、日本の法案に対する国際的な疑念を生み出しつつあった。




