第41話 国家の思惑と休まらない朝
朝6時。新宿区内にある高木の1LDKのマンションには、凛とした静寂と、食欲を優しく刺激する芳醇な出汁の香りが漂っていた。
キッチンのコンロの上では、年季の入った黒い土鍋がシュンシュンと小気味良い音を立てて白い蒸気を噴き出している。火を止め、タイマーをセットして蒸らしの時間に入るのを横目に、高木は無地の黒いエプロン姿で手際よく朝食の準備を進めていた。
今朝の主役は、握りたてのお握りだ。
魚焼きグリルの網の上で、大ぶりのたらこがごく弱火でじっくりと炙られている。表面の薄皮がチリチリと縮んで弾け、香ばしい焦げ目がついたところで素早く火を止める。中まで完全に火を通しきるのではなく、中心部分にはほんのりとレアな明太子のねっとりとした食感を残すのが高木のこだわりだった。
隣のまな板では、肉厚な南高梅の種を丁寧に外し、包丁の腹で軽く叩いてペースト状にしている。そこに細かく刻んだ鰹節をひとつまみ混ぜ込むことで、梅干し特有の尖った酸味がまろやかになり、ご飯との馴染みが格段に良くなる。
ピピピッ、とタイマーが鳴る。
土鍋の重い蓋を開けると、ふわりと甘い香りが立ち昇り、一粒一粒が艶やかに光り輝く白米が顔を覗かせた。
高木は両手を水で濡らして粗塩を軽くすり込み、水で濡らした木杓文字で熱々のご飯をすくい取る。手のひらの中央にたっぷりと具材を乗せ、空気をふんわりと包み込むようにして、3度、4度と素早くリズミカルに形を整えていく。力を入れすぎず、口に含んだ瞬間にほろりと崩れる絶妙な握り加減だ。パリッとした食感と磯の香りを損なわないよう、有明産の海苔は食べる直前に巻くために小さな竹ざるの横に添えておく。
汁物は、一晩かけて冷蔵庫でゆっくりと水出ししておいた、干し椎茸の出汁を使ったスープだ。
琥珀色に染まった出汁を小鍋に移して火にかけ、細切りにした椎茸と、ざく切りにした白菜の芯の部分を先に入れる。白菜が透き通って芯から甘みが引き出されたところで柔らかな葉の部分を加え、塩と薄口醤油で味を調える。火を止める直前にごま油を1滴だけ垂らすと、干し椎茸の凝縮された深い旨味と白菜の優しい甘みに、ごまの香ばしい風味が加わって味がキリッと引き締まった。
小鉢には、馴染みの惣菜店で買ってきた自家製のカクテキを小高く盛る。大根のシャキシャキとした歯ごたえと、熟成された魚介エキスの旨味がたっぷりと溶け込んだ辛味が、朝の目覚めを確かに促してくれるはずだ。
高木がダイニングテーブルに木のお盆ごと朝食を並べ終えた時、足元で小さな鳴き声がした。
視線を落とすと、先住猫のマンチカンであるベルが、新入りのブリティッシュショートヘア、アッシュの毛づくろいをしているところだった。ベルのピンク色の小さな舌がアッシュの頭や首筋を丁寧に舐め上げると、最初は環境の変化に戸惑っていたアッシュも、今ではすっかり目を細めて気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。2匹の柔らかな被毛が、窓から差し込む朝の光を受けて淡く輝いていた。
「……すっかり馴染んだな」
高木は温かいスープを飲み干し、静かに箸を置いた。
★★★★★★★★★★★
午前8時30分。新宿区役所、1階ロビー。
出勤した高木がフロアに足を踏み入れた瞬間、そこがいつもとは全く違う、重苦しく異様な空気に包まれていることに気づいた。
普段であれば、朝一番の書類提出を待つ市民の話し声や、職員たちが書類にスタンプを押す乾いた音、そして整理券の番号を呼び出すアナウンスが響き渡っている時間帯だ。しかし今朝は、その生活音がすっぽりと抜け落ちていた。
窓口の準備を進めているはずの職員たちや、順番待ちのパイプ椅子に座っていた冒険者たちの多くが、待合スペースの壁に掛けられた大型テレビモニターの前に群がり、無言のまま食い入るように画面を見つめていたのだ。
フロアには、モニターから流れるニュースの音声と、人々のざわめきとも戸惑いともつかない不穏なノイズだけが充満している。
「マジかよ、国が直轄って……」
「ギルドの換金レート、絶対下がるんじゃねえの!?」
「特区の許認可権も全部持っていかれるってことか……?」
冒険者たちの不安げな声が飛び交う中、群衆の最前列から血相を変えた安藤まひるが飛び出してきて、高木のもとへ駆け寄ってきた。その手には、まだ整理しきれていない書類の束がぐしゃりと握りしめられている。
「主任! 高木主任! 大変です、あれを見てください!」
まひるが指差した先。モニターに映し出されていたのは、緊急の記者会見を行う経済産業省の会見ルームだった。
無数のカメラのフラッシュが目まぐるしく焚かれる中、演壇の中央に立ってマイクを握っているのは、銀縁の眼鏡をかけ、隙のないダークスーツに身を包んだ男だ。冷徹な知性を感じさせる整った顔立ちが、大画面に大写しになっている。
画面の中の男が、淡々とした、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で手元の原稿を読み上げている。画面の下部には『ダンジョン特措法の大幅改正案、緊急提出へ』という太字のテロップが流れていた。
『――昨今、新宿御苑ダンジョン内において、違法なセーフエリアの建造による重大な保安基準違反や、出処不明の魔物肉の流通による大規模な食中毒事件が頻発しております。これらの事態は、1地方自治体の限定的な人員とリソースでは、ダンジョンという国家規模のインフラを安全かつ適正に管理することが、すでに不可能であることを明白に示しています』
まひるが悔しそうに拳を握りしめ、ギュッと唇を噛んだ。
「違法エリアも魔物肉の件も、主任と私たちが解決した事件じゃないですか! なんでそれを、区役所の管理不行き届きみたいな言い方にすり替えてるんですか!」
高木はまひるの怒りの言葉に応えることなく、ただ静かにモニターの画面を見据えていた。フラッシュの激しい光が、高木の眼鏡のレンズに冷たく反射する。
『国民の生命と安全を守るため、これ以上の現場の混乱を座視することはできません。したがって、我々経済産業省は、ダンジョンの管理権限およびそれに伴う関連税収のすべてを、新宿区から国へと完全移譲させるための【ダンジョン特別措置法改正案】を、今国会に緊急提出いたします』
ロビーが大きなどよめきに包まれた。
「俺たちの魔石の税率、どうなるんだよ!」と冒険者の一人が声を荒らげ、職員たちは信じられないものを見たように顔を見合わせている。
「終わった……もうおしまいだぁ……」
パーテーションの奥から、頭を抱えた鈴木課長がふらふらと歩み出てきた。その額にはびっしりと冷や汗が浮かび、顔面はすっかり蒼白になっている。窓口の記載台にすがりつくようにして身体を支えるその姿は、完全に生気を失っていた。
「国に……経産省のトップエリートに睨まれたら、地方の1部署なんて1吹きで飛んでしまう。我々はダンジョンから追い出されて、良くて窓際部署へ左遷……悪ければこれまでのトラブルの責任を全部押し付けられて懲戒免職だ……! 私の退職金が……っ!」
課長のパニックは、決して大げさなものではなかった。これまでは悪質な個人の冒険者や、法をすり抜ける民間企業が相手だった。だが今回の敵は、「法律そのものを作り変える」ことができる国家権力そのものだ。地方公務員がどう足掻いても、勝てる道理がない。
フロアの職員たちの顔にも、抗いがたい巨大な力に対する絶望感が色濃く浮かび始めている。誰もが立ち尽くし、ただモニターから流れる理不尽なニュースに耳を傾けることしかできない。
しかし。
高木は、周囲の悲観的な空気や、モニターの中で堂々と詭弁を垂れ流す官僚の姿を前にしても、その呼吸のペースを1ミリも崩さなかった。
彼の大柄な背中は、動揺して揺れ動くフロアの中で、ただ一人真っ直ぐに立っていた。
「……安藤さん」
高木はテレビから視線を外し、隣で怒りに肩を震わせているまひるを見た。
「は、はい」
「すぐに窓口のシャッターを開けて、通常通り業務を開始してくれるかな。市民をお待たせしているからね」
「えっ……でも、主任! このままじゃダンジョン管理課は……!」
「テレビの向こうの政治劇に腹を立てても、事態は何も解決しない」
高木のその極めて事務的で、感情の乗らない声が、まひるのパニックになりかけていた思考に冷や水を浴びせた。
「それに、彼らが法案を提出するということは、すでに霞が関のデータベースに草案がアップロードされているはずだ。私のIDでシステムにアクセスし、改正案の条文をすべてプリントアウトして私のデスクに置いておいてくれるかな」
「し、主任……戦うんですか? 相手は国ですよ? 法律を勝手に書き換えられちゃったら、主任の六法全書だって通用しないじゃないですか!」
高木はバインダーを小脇に抱え、静かに告げた。
「彼らが新しい法律を作るというのなら、我々はその法案の論理的欠陥をすべて洗い出すだけだよ」
その言葉には、決して声高ではないが、現場で実務をこなし続けてきた者だけが持つ、絶対的な重みがあった。
まひるはハッとして姿勢を正し、「わかりました……! すぐに手配します!」とバックヤードへ向かって走り出した。
高木は再び、モニターの中でフラッシュを浴びる男の姿を一瞥した。
高木はネクタイの結び目を軽く引き締めると、いつものように自分の担当である3番窓口の椅子へと静かに腰を下ろした。




