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失われた風景  作者: 恵奈
5/10

凶行





 夏休みに入って徹はある決心をした。

 その日も朝から母親は浮かれていて、仕事が休みにもかかわらずよそいきの服を着、化粧をしていた。


「ごめんね、母さん出掛けてくるけど………。一人で大丈夫?」


 前の日男から電話があった。徹はそれを盗み聞きしていた。


「大丈夫だよ、母さん」


 なんでもない風を装って、笑顔で返す。


「もう俺、15歳だよ。………たまには外泊でもしてきたら」


 物分りのいい振りをするのはもう慣れていた。テーブルの下で、ぎゅっと握りこぶしを作って母親の返事を待つ。


「まあ、生意気言うようになったのね!………そうね、そうさせてもらうかもしれないわ」

「うん、心配はいらないよ」

「もしそうなるようなら、夜に一度電話入れるようにするわ」

「いいよ、そんなの」


 笑顔の裏で、徹は母親をあざ笑っていた。

 一晩中SEXするから今夜は帰れない、そう言って息子に電話するのかよ。このあばずれ女め。


 母親が上機嫌で出て行った後、徹は用意していたものを身につけた。

 帽子とサングラス。大きめの上着に、カバン。そして肝心のものをカバンに入れようと台所に向かった。

 それをカバンに入れる途中、リビングにある電話が突然鳴り出した。

 びっくりした徹は、それを入れ損なって落とした。響くするどい音。

 凍るような感情で、それを静かに見下ろす。

 ………たぶん、これが踏みとどまる最後のチャンス。

 そして電話が鳴り止み、しばらくたったのちにゆっくりとそれを拾った。

 銀色に鈍く光るそれを見つめ、徹は後戻りするつもりはないと、心に誓った。





 公園までたどり着いたとき、ふと見知った顔を見つけて視線を母親の後姿からはずした。同じクラスの………坪井?

 見慣れない私服を着た彼女を見て、軽い絶望感を覚える。………そうか、コイツもか。

 再び母親の姿に視線を戻そうとしたとき、それをもう見失ってしまったことに気づく。

 かっと全身が熱くなり、必死になって母親の姿を探す。辺りを走り回って探したがもう見つけることは出来なかった。

 守れなかったから、今度こそ救ってやろうとしたのに。

 男に身を任せて、母親じゃなくなったあんたを息子のこの俺が助けてやろうとしているのに!

 いくら打ち消そうとしても、母親が男に抱かれている映像が頭から消えない。

 俺が抱いたことのある女たちの顔は、いつも最後の瞬間母親に変わる。

 くるしい、くるしい。どうしたら、俺はラクになれるんだろう。

 どうして俺の母親はつつましく、たおやかで優しい母親じゃないんだろう。

 父さんはこんな母さんだから、捨てて出て行ったんだ。そして俺のことも捨てて出て行ったんだ。

 俺はこんなあばずれ女の子供になんか生まれて来たくなんかなかった。

 気持ち悪い。

 込み上げてきた嗚咽をこらえようともせずに、その場で吐いた。

 それを見てすぐそばを歩いていた女が掃き捨てるように言った。


「やー、汚ーい、吐いた~」


 見上げると、派手な化粧をした安っぽい女だった。

 鋭く睨みつけ怒号をぶつける。


「黙れっ!」


 カバンの中に手を突っ込み、入れてあったものを強く握りしめる。

 この女でもいい。

 一瞬そう思い、カバンを放り捨てると夏の太陽の光が、その手元で反射した。


「きゃーっ!」


 甲高い悲鳴に、反射的に徹は走り出した。

 遠くに、母親を見失うことになった原因が歩いているのが見えた。


「高崎くーん!」


 能天気に笑うその少女に、殺意が沸く。

 オマエも俺の母親みたいになるんだな。

 男を誘って、抱かれて、子供を産むんだ。………俺みたいに不幸な子供を。

 そうならないように守ってやる。

 母さんを守れなかったから。その代わりに、オマエを守ってやる。

 そんな女にならないように。

 あばずれ女にならないように。


 走り寄り、その勢いに任せて手に持っていたものをその少女の身体に突き立てた。


「………高………さ………き、くん………?」


 目を見開いて、まどかは徹を見上げた。

 まどかが生まれて初めて塗った色つきのリップクリーム。綺麗な唇に映えて、美しい赤になっていた。

 まどかは自分の身に起きたことが何かもわからず、辺りを見回した。


「あたし………?」


 目から生気が失われていく。何かを求めるようにつぶやく唇、そこから真っ赤な血が流れ落ちた。


「………母さん?」


 徹の目にその唇が、母親のものと重なった。あの日見た泣き顔の母さんに。


「うわーーーーーーーーーーっ!」


 少女の身体から包丁を抜いた。血しぶきがあたりに散る。

赤い景色の中、まどかの身体が崩れ落ちていく。

 それは、本当に殺意を抱いた相手、最愛の母親の姿にしか見えなかった。


「母さんっ、………母さんが悪いんだーーーーーっ!」


 徹はいたずらを隠す幼子のように、力を失ったその身体にもう一度包丁を突き立てた。

 そして、もうぴくりとも動かなくなったその身体を、徹は抱きしめた。

 とても愛しそうに、優しく。


「かあさん………、かあさん………」


 何度も何度もつぶやいて。






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