入学式の日のこと
第1章 入学式の日のこと
入学式の朝、目が覚めた瞬間、息が浅いことに気づいた。
心臓の音ははっきり聞こえるのに、胸に空気が入ってこない。
夢を見ていた気がする。
でも、どんな夢だったのかは思い出せなかった。
シーツが背中に張りついている。
汗をかいていた。
深く吸おうとして、やめる。
そのままでも、体は動いた。
私は三上 華はな。
今日から、この学校に通うことになる。
「……やば」
時計を見る。
伊藤 美咲みさきと待ち合わせた時間まで、あまり余裕がない。
理由は分からないけれど、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。
ただの緊張だ、と自分に言い聞かせて支度を済ませる。
玄関を出たところで、スマホが震えた。
まだ?
遅刻するよー
美咲からだった。
⸻
校門の前で待っていた美咲は、私の顔を見るなり笑った。
「遅い。華、絶対また何か忘れたでしょ」
「違うよ。今日はちゃんと――」
言いかけて、言葉を切る。
何かを忘れている気がした。でも、何だったのか思い出せない。
「ほら、またそういう顔」
美咲はからかうように言って、私の腕を引いた。
「この学校、ほんとボロいよね。改装しまくってるらしいけどさ」
校舎は古く、ところどころ新しい壁や床が継ぎ足されたようになっている。
廊下の先が、どこにつながっているのか分かりにくかった。
「迷ったらどうすんの?」
「案内見ればいいじゃん」
美咲は軽く言う。
その軽さに、少しだけ安心した。
⸻
式が終わり、教室に向かう途中だった。
ハンカチがないことに気づいたのは、そのときだ。
制服のポケットを探しても、カバンを見ても見当たらない。
立ち止まっていると、声をかけられた。
「どうしたの?」
振り向くと、女の先生が立っていた。
年齢は分からない。落ち着いた雰囲気で、距離は近すぎず、遠すぎず。
「ハンカチ、忘れた?」
どうして分かったのか、一瞬考えた。
でも、制服を見れば分かることだと思い直す。
「これ、使って」
差し出されたのは、きれいに畳まれたハンカチだった。
「あと、教室はそっちよ」
先生はそう言って、指で方向を示す。
確かに、案内板はその先にあった。
「ありがとうございます……山本先生」
名札を見て、そう呼ぶと、先生は少しだけ頷いた。
そのとき、美咲が戻ってきた。
「なにしてんの?」
事情を話すと、美咲はすぐに笑った。
「この子、三上華って言うんですけど、忘れっぽいんですよ。
メモ取るのが癖で」
「そうなの?」
山本ゆり先生は、少し考えるような間を置いてから言った。
「私もよ。忘れないようにするの、悪くないわ」
そう言って、胸ポケットから小さな紙を取り出した。
「せっかくだし、交換しない? 一言ずつ」
美咲が面白がって言う。
「自己紹介代わりにさ」
深く考えず、私はメモを書いた。
三上華、と名前だけ。
先生のメモには、こう書かれていた。
山本 ゆり
困ったら、声をかけて
「じゃあ、そのまま進んで」
山本先生はそう言って、私たちを見送った。
背中越しに聞いた声は、静かで、落ち着いていた。
⸻
教室に入ると、さっきのことはすぐに日常に紛れた。
席に座り、周りの話し声を聞いているうちに、胸のざわつきも薄れていく。
「変な先生だった?」
美咲が聞いてくる。
「普通だよ」
そう答えると、美咲は興味を失ったように頷いた。




