奇遇仙女は賽をふる 〜悪鬼悪女討伐伝〜 2話
凌華は天を仰いだ。
「完、全、手詰まりー!」
うがぁー! っと玉石の賽を天高くばらまきながら寝台に倒れ込んだ凌華を、通りすがりの喜媚がチッチッと鳴いて笑う。
「無駄無駄ぁ」
「腹立つわねこの雉。あなたを仕込む鍋の発注は済んでいるのよ」
「動物虐待だ!」
「うるさい食肉!」
威嚇のために睨みつける凌華と、羽をばさーっと広げて対抗する喜媚。
しばらくお互いに逆毛を立てて睨み合っていたけれど、こうしている場合じゃない! と凌華が先に視線をそらした。
「こうなったら、日を変えてもらうんじゃなくて、陣の強化をしたほうが得策だわ」
爪を噛みながら考えこめば、雉がきゃらきゃら嘲笑するので、凌華はまた喜媚を睨みつける。
凌華が焦っているのは、あの放伐の天子の奇遇を持つ青年が、『姐様』の封が弱くなる日にまた来ると言ったから。
日を変えてもらおうと、あれから青年を探しているものの、奇遇を辿って探そうとしても見つからず。得意の易占で占ってみても、縁がないから諦めろと言われる始末。
「名前を聞かなかったのは痛手だわ……」
名は強烈な呪だ。真名を知るのと知らないのとでは、占いの精度が変わってくる。最初の邂逅で名前を聞かなかった自分の落ち度に、凌華の肩はますます下がる。ただの金づるならそれでも良かったのに。
自室を我が物顔で闊歩する喜媚を眺めながら今後の算段をつけていると、ふと雉の首元で何かがきらりと光った。
「何これ」
「ぎゃっ! ちょっと! 触らないでよ!」
喜媚の首にかかっていたのは、珊瑚の首飾りだ。つやつやとした薄紅色が光に当たって白く照っている。
「ちょ、どこから盗んできたのよ!?」
「失敬ね! 殿方からもらったのよ!」
「あんたが!? 雉のくせして!?」
「んまぁー! 雉が宝石もらったら悪いのかしら!」
のそっと起き上がり、ばっさばっさと羽を広げて抗議する喜媚を見下ろしながら、凌華は珊瑚の首飾りを見る。いったいどこの誰がこんな高価なものをやったのやら。なんとなく首飾りの奇遇を見ようとして、凌華の眉間にしわが寄る。
(やっぱり奇遇がうまく読めないわ)
喜媚の奇遇は読みづらい。読めないわけじゃないけれど、定かな形を持たないから、繋がる縁も歪んで視えて読むのに苦労する。これは喜媚だけじゃなくて、凌華の中にいる『姐様』も同じで。
凌華は奇遇を読むのが面倒になって、珊瑚の首飾りを喜媚の尾に引っかけた。
「ちょっとぉ! 首に戻しなさいよね!」
「首と間違えたわ」
「絶対嘘!」
ケンケン鳴き喚いて自分の尾を追いかけ回す雉を眺めながら、凌華はもう一度倒れこむ。寝台に散らばる色とりどりの賽が視界に入った。
天帝が凌華とあの青年を会わせる気がないのなら仕方ない。
『姐様』の機嫌を損ねないよう、満月の日までに備えるしかない。
燈籠に明かりが灯る。
鮮やかな色彩の提灯があちこちの天井から吊り下げられ、綺麗楼をいっそう華やかにする。
妓女たちも特上の衣を身にまとい、酒を注ぎ、詩を歌い、舞い踊る。厳選された顔の良い男たちだけが今宵の宴に招かれ、この世の贅沢が楽しめる。
その中心。吹き抜けとなった大広間で、凌華は特異な奇遇を持つ青年と再び邂逅した。
「また一段と華やかになったんじゃないか?」
「だって特別な夜だもの」
やんやと囃し立てる見物人の妓女や客はどれも一等級。飾りつけも祭りの夜のように派手だし、酒や膳だって珍しいものがずらりと並ぶ。
これは全部、凌華の稼ぎを注ぎ込んだ贅沢。
今夜はそれだけ特別だから。
「さて。札合わせの遊び方は知っているかしら?」
「大丈夫だ。前に来た時、知り合いがやっているのを見ていたからな」
妓女見習いたちが六十干支を描いた六百枚の札をせっせと並べている。
その光景を上座に並べた高座で見ながら、凌華は青年の持つ杯へと酒を注いだ。
青年は注がれた酒をぐいっと仰ぐと楽しそうに笑う。
「良い酒だな」
「当たり前よ。私が吟味したんだから。……そろそろあなた、名乗ってくれてもいいんじゃない?」
「ん? 名乗っていなかったか?」
札を並べ終わった妓女見習いたちが退室していく。
空になった杯を眺めながら首をひねる青年を横目に、凌華は先手後手を決めるための賽を手に取った。
奇数が出れば凌華から。
偶数が出れば青年から。
青年はにんまりと笑って、杯を傍らの膳へと置く。
「それならこうするのはどうだ? 札を一組合わせるたびに、お互い質問をする」
投げられた賽の目は、五。
凌華はにこりと微笑んだ。
手を前に差し伸べて、宙で札をめくるように手首を返す。
「奇遇仙女にそんな申し出するなんて、怖いもの知らずね」
ひとりでにめくられた札が二枚。
一枚は赤で描かれた乙巳の札。
もう一枚も――赤で描かれた乙巳の札。
初手でそろった札に、青年は楽しそうに拍手する。
「さすがは娘々だな! 俺の名前は玄布。君の名前も聞こうか」
玄布は腰を上げると、手近にあった札を一枚めくる。黒の壬申。
周囲を見渡した玄布は少し離れたところにある札をめくった。――黒の壬申。
玄布の奇遇が引き寄せた対の札に、凌華は眉間にしわが寄る。
「私は凌華。あなたは北にある豊都の出?」
「よく分かったな。君は?」
「そうねぇ……盤古の臍、かしら」
互いに対の札を取り合うだけの遊戯が続く。
記憶力なんて今この場では無意味だ。凌華も玄布も、ぴたりと自分の手番で対になる札をめくっていく。
そんな中で、玄布から繰り出された問いかけに、凌華は古い言い回しで答えた。玄布に苦笑される。
「盤古の死体が大地となった……という伝説か」
混沌の中に盤古が生まれ、その身が大地になった時。女神女媧は胴を表の世界、背を裏の世界として、二つの世界を分けられた。表の世界にもそれぞれ国が乱立しているが、裏の世界だって国が建った。
北にある豊都が頭とすれば、胸は中央とも呼ばれる三垣がある。右腕とされる東側へと行けば、この綺麗楼がある蓬莱がある。
このように盤古の身体を大地と比定するなら、その臍に当たる場所といえば。
「華胥か?」
凌華は意味ありげに微笑む。
「私の封地は両儀封神門。盤古の臍で両世界はつながっている。その此方側の入り口を守護する門番よ」
出会いと運命を司る仙女として、これ以上ないくらい相応しい封地だ。
だけどそんな奇遇仙女は今、諸事情で俗世にまみれた妓楼にいるわけだけど。
自嘲しながら、凌華がまた札を二枚めくる。
青の庚午と白の庚寅。
凌華が玄布に視線を向ければ、彼は少し逡巡して手近な二枚をめくった。
黄の戊辰がそろう。
玄布は満足気に手札に加えた。
「そういえばあの雉はどうした」
「騒がしいから部屋に置いてきたの」
凌華は広間に視線を巡らせる。
奇遇がうまく読めなくて、そろう札がなかなか見つからない。
落ち着くために瞼を伏せれば、魂魄がざわついているのを感じる。凌華の中にあるもう一つの魂魄が、早く表に出せと主張しているから。
凌華は札をめくるけれど、そろわないことが何度も続いた。
その間にも玄布はすいすいと札を集めていく。
他愛のない質問が続く中、ようやく凌華も札がそろって。
「あなたにお告げをしたのは玄天上帝?」
凌華がじっと玄布を見つめれば、彼はやや大げさに拍手を送る。
「さすがは奇遇仙女だ。その通り、俺にここへ来るよう言いつけたのは玄天上帝だ。君の中にある、もう一つの魂魄を追わせてもらった」
どくり。
心臓が妙な拍を打つ。
凌華の身体を奪おうとする魂が、本格的に目覚め始めた。
深く呼吸して、さざめく魂魄をなだめながら、凌華はふと玄布の言葉を反芻する。
「……待って。あなた、どこまで知っているの?」
玄天上帝が『姐様』のことを知っている?
凌華と玄天上帝にはここ百年ほど接点がない。
なのにどうして知っているのか。
訝しげな凌華に、玄布は屈託なく笑う。
「札をめくるといい。合っていたら教えてあげよう」
凌華は言われるがままに札をめくるけれど、やっぱり札はそろわない。
対し、玄布がまた一組、札をそろえて。
「娘々は伏犠の後継者だと聞いたが、本当か?」
「玄天上帝から聞いたの?」
「そうだとも」
伏羲は女媧と並ぶ神の名だ。今は故郷である華胥に引きこもっていて、世俗から離れている。もともと凌華の封地である両儀封神門を管理していたのも伏羲だった。
だから後継者かと聞かれれば、そうだと答えるけれど。
ふと、玄布が凌華のほうが位が高いと言っていたことを思い出す。もしかして、勘違いしている?
「別に私は神ではないわよ。伏羲の持っていた権能の一つを与えられた、ただの仙」
「そうなのか? 玄天上帝は娘々と同位くらいだと言ってたが……」
首をひねる玄布をよそに、ようやく凌華の札がそろう。
そろった札を術で浮かせ、手元に引き寄せながら、凌華は玄布に笑いかけた。
「これでさっきの問いかけには答えてくれるのかしら」
「どれのことだい?」
「あなたがどこまで知っているのか、という話」
んー、と玄布は腕を組み、言いあぐねる素振りを見せる。
凌華が答えを待っていれば、彼はやれやれと肩をすくめて。
「これは天帝の受け売りだが、君の中にいる魂魄はたいそうな悪女らしいな」
どくり。
また心臓が、妙な拍を刻む。
身体の内側で『姐様』の支配が強まるのを感じた。
(これ、よくない……!)
体の主導権を握ろうと、凌華が意識をかき集めていれば。
『わたしの中に悪女がいるなんて、ひどい言いがかりね!』
どこからともなく聞こえた自分の声に、凌華は目を瞠る。
「言いがかりじゃないさ。表の世界ではずいぶんと悪さをしていたんだろう?」
『そこまで言うのなら、名前くらい言えるのでしょう?』
凌華は声が出ない。封じられていたはずの魂魄が、にたりと嗤う。
札がひとりでにめくられる。
黒の辛亥がそろう。
凌華はようやく気がついた。
玄布と奇遇が繋がったのは凌華じゃない。
凌華の中にある、もう一つの存在で。
その名を、玄布が紡ぐ。
「異界から追放された千年狐狸精――妖妃・妲己って言うらしいね」
凌華の意識が呑まれる。
もう一つの意識が表層化されて、凌華の意識は引きずり落とされる。
闇へ滑り堕ちていく意識の端で、凌華がかけていた封術が解錠されていく気配がした。瞬間、念入りに施した陣が敷かれる力の波動も感じて。
空間が歪む。
広間のある空間だけが切り取られ、吹き抜けの向こうは満天の星空へと変わる。
今いる空間が変化したことに気がついた玄布が天井を見上げ、視線を凌華へと戻す。
凌華は金瞳を愉しげに煌めかせて。
「よくお分かりね。妾が千年狐狸精であると」
否、もう一つの魂魄が主導権を握った今、彼女を凌華と呼ぶのは相応しくない。
「君がもう一人の娘々かい?」
「妾を呼んでくれるなんて、優しい人ね」
尋ねた玄布に艶やかに微笑むと、ひらひらと彼女は手を振る。
その意図を察した玄布は、竦むことなく広間の中央に向かい、適当な札をめくった。札は、あわない。
うっそりと妖艶な笑みを浮かべ、彼女は今までと同じように空宙で手のひらを返した。
二枚の札がひとりでにめくられ、そろう。
「続きをしましょうよ。勝者がこの身体を好きにしてもよいのでしょう? 当然、妾にも権利があるわよね」
「違うと思うけど」
困ったなぁと肩をすくめる玄布に、彼女はにっこりと微笑む。それから、おもむろに両手を叩いて。
「胡喜媚、おいで」
「姐様!」
名前を呼べば、彼女が先ほど引いた札の輪郭がぼやけ、雉へと変わる。
札に変化していたらしい雉は凌華の足元で羽をたたんですり寄った。その雉を彼女は慈しむような表情でひと無でする。
途端、雉の輪郭が再び溶けて、形が変わって。
小枝のようだった足はしなやかで肉づきのよい足に。幅広だった羽は細い腕に。身体を覆いつくしていた羽毛はつるりとした皮膚に。頭は大きく、瞳は金色で、玉虫の翅のように複雑な色合いをした虫襖色の髪がなびく。
はつらつとした面立ちの少女に変化した雉は、くるりと踵をまわして自分の身体を見下ろす。満足そうに笑みを浮かべると、普段は毛嫌っているはずの凌華へと抱きついて。
「ありがとう、姐様!」
嬉しそうに抱きつく胡喜媚の頭を撫でていれば、玄布が興味深そうにその様子を眺めてくる。
「その子は?」
「九頭雉鶏精といって、妾の妹分よ。もう一人、いるのだけれど……」
言葉を途中で区切った彼女は、不意に視線をあげた。金色の瞳が細くなり、唇は弧を描く。
「良いことを思いついたわ。そなた、妾の願いを叶えてくれないかしら」
なんのことかと玄布が訝しげに眉をひそめるけれど、妖妃の姉妹はおかまいなし。
胡喜媚と呼ばれた少女は大好きな『姐様』から離れると、めくられた札の跡地につま先を差し入れ、くるくる愉しそうに踊りだした。ひらひらとした裳裾が風を孕み、札を巻き上げそうになる。
「奇遇仙女だかなんだか知らないけどさ。あの女ってば、世界が広いことを知らないの。これじゃ、可愛い妹ちゃんを探しに行けずに困っていたのよね!」
胡喜媚の言葉を聞きながら、玄布はしれっと札をめくる。札は先ほどまで面白いほどぴたりとそろっていたのに、段々とそろわなくなってきた。
その代わり、話をしながらも札をめくっていく『姐様』の手札がそろい始め、玄布の持ち札に追いついていく。
「玉石琵琶精を見つけてくださるかしら。そうすれば妾もそなたの願いを一つ、叶えてあげましょう」
二対ある金色の瞳が怪しく煌く。
玄布は仙妖の姉妹に見つめられるなかでも、怖気づくことなく札をめくり続けて。
「あいにくと、その取り引きには応じれないな」
「答えは諾しか許さなくてよ」
不敵な笑みで嘯くさまは、あまりにも艷やかで視線を奪われる。
もし玄布以外の人間がいたなら、彼女に陶酔し、恍惚の表情でその足元に跪き、奴隷として侍っていたかもしれない。
それほどの魅力と、迫力と、たとえがたい何かが彼女にはあって。
『姐様』は金の瞳を細めて、愉しそうに嗤う。
「それでも嫌だと言うのなら……そなたを誑かしてみるのも面白そう。享楽に耽り、愉悦に微睡む。精魂尽きるまでしゃぶり尽くしてあげてもよろしくてよ?」
最後の札がめくられた。
宙に浮く、白の甲辰。
凌華の持っていた札と合わせ、玄布とぴったり同数の札を手に入れた『姐様』は、くつくつと喉の奥を震わせた。
「負けてしまったわね。あぁ、またこの器を妾のものにしそこねたわ」
『姐様』は札を宙へとばら撒いた。
胡喜媚が颯爽と身体を旋回させれば風が舞い上がり、『姐様』が指を鳴らせば札が燃え尽きる。灰が生き物のようにうねると銀の輪となって、凌華と玄布の腕に嵌められた。
「これは約束の印。玉石琵琶精を見つけて頂戴ね。胡喜媚、あなたも手伝ってあげて」
「はーい!」
ゆぅらりと立ち上がった千年狐狸精に、胡喜媚が嬉しそうに頷いた。
玄布は腕輪を見つめながら、彼女たちに問いかける。
「どこに行くつもりだい?」
「ふふ。どこにも行けないわ。だって妾はまだ、自由ではないもの」
そう言い残して、『姐様』――奇遇仙女の身体はふらりと傾いだ。