贋作公主は真龍を描く 2話
暁飛の手から解放された彩玉は、念のために抗議してみた。
「詐欺も暴行も、未遂だったわ!」
「我が父皇の前で同じことを言ってみるか?」
辛うじて不敬の罪は犯していない、との主張は、当然のことながら一蹴された。今や截国の皇帝を名乗る北辰の長は、苛烈な男だと聞く。皇子に贋作を売りつけようとした被征服国の民に、容赦してくれそうにない。
「く……っ」
拷問、処刑。
最悪の未来を想像して口を噤んだ彩玉に、暁飛はあくまでもにこやかに笑う。
「安心しろ、悪いようにはしない。そのためにお招きを受けたのだからな」
絶対に信用のおけない、上辺だけの寛容だった。親しげに振る舞っているようで、この男は最初から彼女たちの企みを見抜いていたと仄めかした。そうして、彩玉を脅したのだ。すべて彼の手の内だから従え、と。
(迂闊だった。私たちのほうが狙われてた、の……!?)
若く可愛い娘に縋りつかれれば悪い気はしないだろう、という魂胆も見え見えだったとしたら、恥ずかしすぎる。恐怖と焦りによって血の気が引いていた彩玉の頬は、今度は羞恥によって熱くなった。
でも、もちろん、顔を赤らめている場合ではないのだ。皇子への不敬を見逃してもらえるか否かは、どうやら彼女の贋作の腕にかかっているらしいのだから。
床にへたり込んだままの李章と元建に、彩玉は低く、告げた。
「……外してちょうだい。私が、話を纏めるから。師父に気付かれないように上手くやってて」
ふたりとも、殴りかかった相手の身分を聞かされて、身動き取れなくなっているのだろう。厄介に決まっている話を聞かせる前に、立ち去る理由をあげなくては。
「だけど、公主──」
李章が立ち上がろうとしないのも、元建がおずおずと食い下がるのも、嬉しいけれど。
でも、口封じされる恐れがある者を増やすわけにはいかない。皇族が下々に頼みごとをする時は、往々にしてそういう手段を念頭に置いているものだ。
ふたりが余計なことに気付かないよう、彩玉はあえて明るく笑ってみせた。何とかなる──恐れるような事態ではないのだと、思わせておかなくては。
「大丈夫! 何か聞かれたら、上客を捕まえたみたいだ、って言っといて。すごい相手なのは──それは、間違いないでしょ?」
カモを見誤った責任は、彩玉にある。自分の不始末は自分でケリをつけるのが、七宝街の流儀というものだった。
* * *
李章と元建が去った後、彩玉は北辰族のふたりと改めて対峙した。
皇子の後ろに立って控える狼夜はともかく、椅子にふんぞり返って長い脚を組む暁飛は、彼こそが屋敷の主だと言わんばかりの傲慢さと寛ぎようだった。実に腹立たしい。自身も勝手に間借りしているのを棚に上げて、彩玉は心の中で彼の顔を踏みつけた。
「贋作師殿の名前を伺おうか」
「郷、彩玉」
不機嫌も露に短く答えると、異民族の皇子は軽く首を傾げた。
「公主と呼ばれていたが?」
「あだ名よ」
ふたつめの問いに対する答えもまた、ごく短く不愛想なものだった。
むくつけき男たちの中に、女がひとり混ざっていれば目立つものだ。まして、彩玉は若くてそれなりに可憐で、彼女の腕は師父と並んで商売の要となっている。公主と呼ばれても、さほどの不思議はないだろう。
少なくとも、李章と元建を始めとした仲間たちはそう信じている。だから、それで良いのだ。
「元は、よほどの家の令嬢だったとか?」
「そんなところよ」
今はそうは見えない、と言いたげな暁飛を睨みつつ、彩玉は餌にならなかった梅花図を除けて、安い墨を磨り始めた。受注に当たって、依頼主の意向は詳細に聞き取らなければ。
「注文通りに画を描くのは構わない──っていうか、仕方ない。描いたら、本当にさっきのことは忘れてくれるの? 七宝街に手を出したりしない?」
「ああ、もちろん。成功した暁には褒美を取らせるぞ」
下手に出ているようでいて、暁飛のもの言いはどこまでも上から目線だった。征服された側の心を踏み躙っているとは気付いていないらしい爽やかな笑みを前に、彩玉は声を冷ややかに尖らせた。
「截人からの褒美なんて要らない。代価って言って」
ささくれた思いで磨る墨は、ろくなものにはならないだろう。蛮族の企みごとの覚書に使うのだから、ちょうど良いといえば良いけれど。今回の贋作を描き上げるにあたっては、心の乱れを筆に出さないようにするのに苦労しそうだった。
暁飛は、身分を明かしても畏まれとは言わなかった。だから、せめてもの腹いせに、彩玉は言葉遣いを取り繕わなかった。でも、被征服民の小娘の舐めた態度は、親衛隊たる狻猊の戦士には許せないようだった。
「不遜な」
先ほどまではひと言も発しなかった狼夜が、ぼそりと呟いた。もとより鋭い眼差しにも剣呑な光が宿って、彩玉は一瞬ひやりとする。一触即発の張り詰めた空気は、けれど、暁飛の快活な笑い声が吹き飛ばした。
「矜持高いな」
無礼をあえて咎めない、との表明を受けて、狼夜の目の不穏な輝きは瞬時に消えた。
狻猊は主の命令には絶対服従、主従は多くの言葉を費やさずに心を交わす──檀を滅ぼした者たちの絆と練度を見せつけられたようで、彩玉の不快と苛立ちはいや増した。
「──で、どんな画をご所望なの」
乱暴な手つきで墨を磨り終えると、暁飛は待ちかねていたかのように口を開いた。
「柳宗儀の、未発見の新作。檀滅亡の戦火を逃れていたのが見つかった──という体にしたい」
つまり、すでにある作品の写しを作れ、というのではなく、その画家の画風に似せた作品を描け、ということらしい。前者なら、名画の雰囲気だけでも手元で愛でたい、ということも考えられるけれど、後者の場合は人を騙す気満々だろう。
(私が言えたことじゃないけどさ……)
ぶっちゃけた話、素海濤風の梅花図、も同じ発想なのだから。
倫理について問わないなら、考えるべきは何を題にしてどの技法で描くか。さらに言うなら、いかに贋作だとバレないようにするか、だ。
とりあえず、柳宗儀、と手元の紙に書き付けながら、彩玉はその画家の来歴と作風を頭の中に思い浮かべた。
高雅な山水画や、華やかな花卉図も能く描くけれど、何よりも艶麗優美な女人画で有名な画家だ。
春蚕吐糸──蚕が吐く糸のように細く、途切れることのない流麗な線で描き出す女性のしなやかな肢体の美しさは、檀の後宮の妃嬪にたいそう人気だったし、最後の皇帝にも寵愛されていた。当代一の名画家といえば、真っ先に挙がる名前だろう。
(本人の性格は、褒められたものじゃないんだけどね)
まあ、彩玉の感情はこの際関係ない。技術についても、難題ではあるけれど、同時にやりがいがあるとも言えるだろう。ただ、彼の贋作を作るに当たっては、ほかに大きな問題がある。
「柳宗儀って、まだ生きてるわよね?」
「檀の忠実な遺臣、を自称しているな」
彩玉の指摘を、暁飛は軽く肩を竦めて受け流した。どこかはぐらかすような表情からして、彼女の頭に浮かんだ幾つもの疑問と懸念には、心当たりがあるらしい。
「描いた画をわざわざ古びさせる必要はないから、楽なのではないか?」
「それはそうだけど、生きてる人間って文句を言えるからね……?」
同時代の画家の贋作は、使う道具や描く題材の考証に気を使わなくて良いという点では確かに楽だ。暁飛の言う通り、描いたものをそのままお出ししても、新しさによってバレる懸念は確かに少ない。
けれど、本当の作者が生きていれば、描いた覚えのない自作の噂を聞いたら驚くか怒るかするだろう。
まして、柳宗儀は檀の皇室の恩義を忘れていない、と主張している。支持者や支援者の手前、截の皇子の手元に自作があると知ったら、自分は描いていないと声を上げるだろう。
「無用の心配だ。柳宗儀の画が手元にあるだけで満足する相手に贈る」
「ふうん?」
暁飛はまたもあっさりと言うけれど、不思議なことだ。名画を手に入れたら、自慢したくなるのが人情というものだろうに。
まして、柳宗儀だ。世が世なら皇宮に収められていたかもしれない一幅を、密かに愛でるだけで良しとするとは信じがたい。
「疑り深いな」
彩玉の表情を正しく読み取って、暁飛はさらに笑った。軽く身を乗り出して声を低めるのは、内緒話をしてくれるつもりなのかどうか。
「父の命令で檀の画を探していた、と言っただろう。それ自体は真実だ。檀の名族を手なずけなければ、截の未来はないからな」
「ああ……」
彩玉は、うんざりとした思いを込めた溜息を吐いた。何となく事情が見えてきた、と思ったのだ。
いまだ截の支配を受け容れない檀の遺臣も多い。柳宗儀自身がその良い例だ。
明確に反旗を翻すのでなくとも、密かに反乱勢力を助けたり、截の宮廷に出仕しなかったりで反抗や不服従を示すことはできる。新たな支配者にとっては、そういった消極的な抵抗のほうが厄介でさえあるかもしれない。
彼らが截に従わないのは、蛮族と蔑んできた侵略者に、どう扱われるか分からないのが恐ろしいからだ。文化・文明の担い手を自認してきた誇りが許さない、というのもあるだろう。だから──
「檀の美術を尊ぶ姿勢を見せておきたいのね? で、だからよろしく、ってしたいのね?」
地位や財貨で忠誠を買うことはできない。むしろ、これだから蛮族は、と侮られる可能性さえある。檀の教養人の心を開かせるには、同じ文脈で語れる相手だと示していかなければならないのだ。
(柳宗儀を知ってて、贈り物にする発想ができる──まあ、文明人の最低限の条件よね)
本当なら、截のために柳宗儀が筆を揮ったのだ、と喧伝したいのだろうけれど──
「でも、柳宗儀が截のために描くはずがない。描いたとして、公にするのは望まない。だから内密の下賜品ということにして、希少価値をつける。それを逆手にとってありがたがらせる、ってところ?」
「話が早くて助かる」
彩玉が推理を述べると、暁飛は嬉しそうに笑った。子供を褒めるような口振りは、もちろん彼女の機嫌を傾けさせるだけだ。
「兄上がたも、依頼してみたものの撥ねつけられたとか。これはもう贋作を造るしかないと思って七宝街を訪ねたんだ。──早速良い画師が見つかって、良かった」
「皇宮には、柳宗儀の画が何枚もあったでしょうに。見境なく燃やすから後で困るのよ」
卓に肘をついた暁飛の、無邪気な笑みが思いのほかに近い上に眩しい。うっかり見蕩れてしまわないよう、彩玉はふいとそっぽを向いて憎まれ口を叩いた。でも、目を背けることはできても、彼の声は追いかけてくる。
「そう尖るな。贈り先を知れば、お前もやる気が出るだろう」
「別に、興味なんて」
横目で暁飛を睨みながら、彩玉はない、と言い切ろうとした。でも、その前に低い声がはっきりそその名を紡ぐ。
「顧桑弧」
思わず首を戻し、目を見開いた彩玉の表情に、暁飛は満足したようだった。悪戯成功、と。口に出さずとも満面の笑みが語っている。
「檀人にとっては仇だろう? 一杯食わせられるのは良い考えじゃないか?」
「……ええ、そうね」
截の皇子が口にしたのは、確かに檀の者にとっては聞き捨てならない名だった。
顧桑弧。檀の権臣でありながら、台頭しつつあった北辰に通じていた男。敵の軍勢を都に引き入れ、戦火を招いた裏切り者。檀の大恩を踏み躙った稀代の不忠者。
そんな極悪人を、贋作で見事に騙してやれたなら、確かに溜飲は下がるだろう。仲間と笑い合って、良い酒の肴になったかもしれない。暁飛の推測通り、彩玉が没落した良家の令嬢に過ぎなかったら。
でも、あいにく、そうではないから──そのていどでは、済ませられない。
(落ち着いて……こいつは、分かってて言ったわけじゃない……)
必要以上の驚きと動揺を見せぬよう、彩玉は必死に歯を食いしばり、掌に傷がつきそうなほど固く拳を握りしめた。
彩玉の本当の姓を、香という。文化と繁栄の香り高い檀の国の宗室の姓だ。北辰の截に取って代わられるまで、彩玉は真実、公主だったのだ。顧桑弧も柳宗儀も、だから何度も会っている。
(顧桑弧、私を抱き上げたこともあった……公主はお目が高い、とか言って……!)
今や截の圭氏の所有となった皇宮には、古今の美術品が溢れていた。歴代の皇帝が集めた品だけでなく、新たな献上品が日々積み上がっていったし、名匠や名工も技巧と創意を凝らした逸品を捧げることを至上の喜びとしていた。
小さいころから、彩玉は絹の衣装よりもそれに施された刺繍に惹かれ、茶の作法を学ぶよりも器に描かれた模様の緻密さや釉薬の艶の輝きに夢中になった。つまりは、自らを美しく飾り立てるよりも、美しものを造り出すことそのものに興味を持っていたのだ。
北辰の兵が都の城壁を侵し、檀の国の名にちなんで建物の随所に使われていた香木が燃やされて、強すぎる芳香を天に立ち上らせた時も、彼女は怯える母や侍女たちの目を盗んで、顔見知りの職人のもとへ遊びに出ていた。
宦官でもあったその職人は、檀の滅亡が避けられないのを悟って、見習い宦官の服を着せた彩玉の手を引いて、皇宮を見捨てる者たちの波に紛れて逃げた。以来、彼女はその職人を師父と仰いで市井で生き抜いてきた。
(贋作が得意だから、贋作公主。それだけの、ただのあだ名よ)
そう思わないと、耐えられなかった。
父や兄たちが殺されたこと。各地で抵抗の旗印にされた弟たちは、今も命を狙われていること。姉妹たちやその母たちは、父に殉じたり、截の皇族や功臣に与えられたりと、様々な運命を辿ったこと。彩玉自身の母については、燃える皇宮と運命を共にしたとか。
どれも痛ましく悲しく憤ろしいこと。我が身に起きたことだと思うと、頭がおかしくなってしまう。
でも、七宝街に流れ着いてみれば、家や家族を喪くした孤児なんていくらでもいた。泣いていてもどうにもならにのも、すぐに悟った。
皇宮で培った審美眼と師父譲りの腕があれば、小娘でも稼ぐことができた。似たような境遇の仲間たちを食わせることも。李章や元建のほかにも、この稼業に勤しむ「一家」は多い。彼ら彼女らこそが、今の彩玉の家族なのだ。
(だから……復讐なんて、考えてなかった……)
截への敵意と悪意は、今の檀人なら皆、多かれ少なかれ持っている。でも、だからといってわざわざ反乱軍に加わる者は少ない。彩玉も、そんな無名の民に紛れたつもりだったのに。
(截の皇子。顧桑弧。仇が、ふたりも目の前に……!?)
絶好の機会が、向こうから来てくれたのだ。もしも、とか。もしかしたら、を考えるなというほうが無理がある。この機会を上手く利用できたら──何か、できるのではないだろうか。
「顧桑弧に贋作を掴ませる。それも、報酬付きで! 素敵じゃない」
落ち着け、と。自分に言い聞かせながら、彩玉は無理に唇を笑ませた。あまりにも喜び過ぎて見えても、よろしくないだろう。下町の詐欺師が悪だくみを愉しんでいる、そんな雰囲気に留めなければ。
「喜んで、引き受けるわ……!」