官能小説家『海堂院蝶子』は俺のクラスの委員長である 2話
学校ではあんなに清楚で真面目、成績優秀で誰にでも優しいパーフェクトな委員長なのに、まさかその裏であんな『過激で』『淫らな』文章を毎日毎晩せっせと書いているなんて。
もはや本来持つべき不健全な興奮を通り越して、謎の尊敬すらしてしまう。
そして俺は、そんな委員長こと蓼科涼子の家に、勉強しにきたと称してお邪魔することになった。
実際に勉強しているのだから問題はないのだが、謎の後ろめたさは存在しないと言えば嘘になる。この気持ちは一体何なのだろうか。敢えて深く考えない方が『無難』なのかもしれない。
なお、一緒に帰ったりなどしたら学内で噂が立ってしまう。そうなったら事の次第を説明するのに大変苦労するだろう、などというメッセージを極秘でやり取りした結果、クラス内で俺達はごく普通にあくまでも『ただのクラスメート』として振る舞っている。漫画でよくあるように、いきなり一緒にお弁当を食べたり、手を繋いで下校したりするわけにはいかないというわけだ。
クラスメイトの皆も、特に目立つことのない俺と、特別よく目立ちがちな高嶺の花の委員長が裏で密かにタッグを組んで、めくるめく官能小説の制作に勤しむことになっているだなんて、夢にも思わないだろう。
高嶺の花をこっそり独り占めしていることを誰にも公言できないのは、そこはかとなく残念な気持ちもないわけではないが、少しばかりの秘めたる優越感もないわけではなかった。こういうのが最近覚えた単語でもある『背徳感』というやつなのだろうか。
そう、優秀なアシスタントとして俺も、最低限のことはしておかねばならない。
濃厚動画の感想以外に一体何をしていいのかは正直なところよくわからなかったが、学校帰りに書店に寄る日が増えた。せめて最近の『そういうジャンルの』動向くらいはチェックしておくべきなのだろう。
本屋の店員も、官能小説のコーナーに陣取っては目をこらしながら一冊一冊タイトルやあらすじなどといったあれこれを見ては溜息をついたり考え込んだりしている不審極まりない男子高校生をそれとなく気にしていたようだったが、その不審な男子高校生が、時には流行のマンガの新刊にこれらの官能小説をそっと重ねてレジに持ってくるようになってからは、なんとなく寛容になってくれた気がする。
そして蓼科の家には、週に何度か、特に目立たない私服に着替えてから勉強道具一式を抱えて訪れることになった。
「………めちゃくちゃ広いお屋敷だよなあ。俺みたいな一般庶民が入り込んで大丈夫な家なの?」
思わずそろりそろりと廊下を歩きながら、半歩前を歩く『海堂院蝶子先生』こと蓼科に聞く。
「8時までは親も帰ってこないから大丈夫」
「そ、そうなんだ。うわ、なんかあそこに飾ってある絵画、美術の教科書に出てきそう……」
「うん、それ、本物だから」
「うわ、まじか……」
廊下の奥の部屋に案内される。同級生の女子の部屋なんか入ったことなどない俺は、思わず緊張して背筋を伸ばしたが、
「ちょっと世界史Bの予習するから、その間、そこにあるDVD鑑賞よろしくね。今度は冴えない高校生男子と同級生の美人母の爛れた関係がいいって担当から参考資料で送られてきたんだけど」
蓼科の言葉で一気に、青春という名前が付くべきこの年頃特有の青臭い緊張感は、粉々に砕け散っていった。
「レーベルはこの文庫さんで……」
「いやまあ、その文庫の人気シリーズならこないだちょうど読んだばっかだけどさ……」
「なら話は早いってことね」
「まあ冴えない男子高校生代表みたいな存在だからな、俺……」
「そうなの? 黙っててくれた上に、本当に困ってたのを手伝って貰っちゃってるし、そういう本の話をしてもこっちが困るようなこと言ってこないし、高木君めちゃくちゃいい人だと思うんだけど」
「え、そうかな。そんなもんなのかな」
思わずしどろもどろになりそうなので、慌ててあたりを見回すとテーブルの上に、小さいDVD再生専用画面付きのデッキに、音漏れ防止のヘッドホンが置かれているのが目に入る。
「………まあ、それはそれとして、念の為確認するけどさ、これ、担当による手の込んだセクハラとかじゃないよな?」
「担当は女性だし、きちんと連載はじめるのを十八歳の誕生日まで待ってくれたし、経費はコピー代から参考文献まで全部きちんと落としてくれるから……」
蓼科がポケットから出した鍵を本棚に差し込む。すると、そこに並んでいたのは官能小説家が使っていそうな、いわゆる『隠語』の辞書や赤裸々な雑誌やDVDなどの一式だった。
「やべえな」
感動ともドン引きとも言えない、なんとも表現できない気分で思わず喉の奥から変な声が出る。これを表現する語彙を持ち合わせていない俺はまだ、健全な男子高生なのだろうか。
「こういった『資料』は、夜中になったらベッドの中で家族にバレないように見てるんだけど……」
「家族にテレビを取られたお父さんかよ………」
「実際これ、お父さんやお母さんにバレたらタダじゃすまないから、勉強もめちゃくちゃ頑張らなきゃいけなくて。うち、両親ともめちゃくちゃ真面目で……」
確かに手塩にかけて育てあげた清楚で成績優秀な娘さんがこんな過激な小説を世に送り出していると知ったら、真面目な親御さんなら泡を吹いて倒れかねない。
「プリンターはお父さんの部屋にあるから迂闊に使えないんだけど……高木君ちのコンビニのコピー機、プリンター機能あるから助かってて」
蓼科が夜遅くにうちのコンビニのコピー機までやってきた理由がやっとわかって、俺は得心がいった。
「でも、親にはどうやって誤魔化してるの? なんか他にも色々隠すことあるだろ、この仕事……」
ついでに、ずっと気になってたことを、俺はさりげなく聞いてみる。
「通信教育の小論文の添削のアルバイトをしてるっていう設定なの。夜遅くまで起きて机に向かってても怪しまれないし、いわゆる『参考資料』が出版社から送られてきても大丈夫だし、自分の勉強にもなるからって……」
「ああ、なるほど……」
成績優秀な委員長らしい。まさに『勉強』は大事、というわけだ。参考資料が『何の』参考資料なのかは、知らぬが花である。
「でも、期末テストが締切と重なった時はもう泣きたかったけど、推薦かかってたから成績絶対落とせなくってもう必死だったし、今でもぶっちゃけ5限目の数学とかめちゃくちゃ眠いんだよね……」
「うわ……なんか、思ったより壮絶だな、海堂院蝶子先生の生活」
「でしょ!?」
若干食い気味で同意を求めてくる蓼科。
「お、おう……」
日本中の誰もが、あの『官能』まみれな人気作家、海堂院蝶子の作品がこのような涙ぐましい努力の末に生まれているだなんて、思ってもいないだろう。
「予習おわったら明日の小テストの対策からするね。そういえば高木君、得意な教科は?」
「ないけど、コンビニで働くんだし、せめて数学はできなきゃ……やばいよなあ」
「ん、わかった。数学を中心に教えるね。まあその、また進路指導室に呼び出されない程度に他の科目も頑張っていこう。計画的にやれば、今からでもなんとかなるから」
「めちゃくちゃ助かる。蓼科ってまじすごいよな。勉強も運動も何だって出来るしさ。それに、これからもずっと小説書きたいんだろ? 夢を持ってる人ってやっぱ全体的にこう、かっこいいんだよなあ。正直めちゃくちゃ尊敬する」
真っ赤になった蓼科が顔の前でぶんぶんと手を振って言う。
「そ、尊敬ってそんな……今は、こういうのしか書いてないけどね。まあ、すごく嫌、とかいうわけでもないんだけど。ファンレターだっていっぱいくるし……。でも、いつかは、うん、本当に書きたいものを書ける小説家になりたいなあ……」
こうして俺のアシスタントライフがはじまった。
高校生男子なら誰もが会得しているであろう、いわゆる『親に見つかってはいけないブツ』を絶対に見つからない場所に隠す方法などを伝授したらとても喜ばれた。あの鍵付きの本棚にはもう入りきらなくて困っていたらしい。そして、
「そういえば、こないだの原稿にあったあの女教師、やっぱり乳でかいの?」
「大きい方がウケがいいって編集部は言うんだけど……やっぱりそろそろマンネリかなあ」
「そうだよなあ。でも、今度の同級生の母ちゃんは爆乳のほうが絶対いいと思うんだ」
「そうなの?」
「俺はそっちの分野にはそこまで詳しくはないけど、人様のお袋ってぶっちゃけけっこうハードル高くね? 顔が良いだけじゃ『爛れた関係』ってやつにはならない気がするんだよなあ………」
「なるほど……じゃあ同級生のお母さんはめちゃくちゃ大きいとして、女教師シリーズの先生は小さい方が良い、と……」
教師は教師でも、勉強とはまるで別世界の教師に関する赤裸々な話をしていると、机の上に置かれた数学と世界史の教科書達が妙に可哀相になってくるが、それはそれ、これはこれである。
執筆中は眼鏡をしっかりとかけている蓼科が真顔で手元のメモ帳に『同級生 母 胸は大きく』と書いているが、あまりにも大真面目で真摯なその姿を見て笑う気持ちにはなれなかった。
「うーん……まあそりゃ大きけりゃ大きいに越したことはないけど、こういうエッロい先生が意外と小さかったら、それはそれで可愛いんじゃないかな。ギャップ萌えってやつ?」
俺とて、もはや隠すものもなければ恥ずかしがる理由もないので、己の率直な意見をどんどん出していく。これもアシスタントの仕事なのだから。
「あー……いいかも。それ採用するね。このシリーズ、意外と女性読者もいるって聞いたし。これ、最新の下着カタログなんだけど、小さい胸のことは『シンデレラバスト』って言うんだって」
「へえ………俺、個人的には下着、こっちの左のやつかな。ピシッとキメてる女の人にはどちゃくそ可愛いなんかフリフリいっぱいついた下着付けてて欲しいんだよなあ。男の夢ってやつ」
「うわあレースがすごい………シャツだと透けて見えそうだけどどうしようかな。透けて見えた方がいいんだろうけど」
「そうだなあ……男子生徒的にはまあ、なんていうかその、絶対見えないはずなのに、なんかうっかりチラっと見えちゃった、くらいが、こう、ドキッとしていいんだよな」
現役男子高校生の忌憚のない意見は、蓼科にとって大いに参考になるらしい。
「じゃあ都合良く、いい感じにこのあたりのシーンで雨でも降らせようか。白いシャツは濡れると透けて見えるし、雨がしとしと降ってると、こう、情感もあるし……」
程良い情感、というのも官能小説には必須の要素なのである。
「で、紅葉のシーズンだとより映えるかな。校庭のカエデの木とか紅く染まってると、先生のシャツの白さも映えるよね」
「海堂院蝶子先生まじ天才」
蓼科が片手で眼鏡を直しつつ、照れながら言った。
「天才なんて、そんなことないし…まだまだだし……でも、うん、これでプロットも編集部に出せそうな気がする!」
そんなことない、まだまだ、というこの優等生の蓼科らしい謙遜の言葉の後ろに、ほんの少しの誇らしさのようなものが滲んでいる。自分の知らない顔だ。こんな表情をしている同級生なんて、どこを探してもいないだろう。
正直な話、どんな濃厚な小説よりも、蓼科が時折見せるそういう表情の方が『グッとくる』のだが、そんなこと言えるわけもない俺はそっと口をつぐむ。
「なんとかキャラ付けも出来てきたし………あ、そこの数学の公式、教科書の124ページのこれを応用して。多分期末テストにも出るからきちんと覚えておいてね」
「めっちゃ助かる」
「それで、こっちの極上爆乳レースクイーン秘蔵映像DVDの感想もよろしく」
「よしきた任せろ」
なお、海堂院蝶子先生の担当編集者は、俺が本屋で買った数々の『参考資料』も経費で落としてくれるようになった。官能小説を領収書付きで買える日本でも数少ない高校生になったというわけである。
もっとも、そんな高校生活ももうすぐ終わりを迎え、蓼科は大学生に、俺はコンビニの店員に、まるで別々の道を歩むことになる。そうなったらこの『アシスタントライフ』はどうなるのだろうか。やはり、自然消滅してしまうのだろうか。
しかしそれは、牛丼にパフェを乗せてカレーをトッピングした焼肉定食を食べているような濃厚な動画を何本見ても、胃もたれでぶっ倒れたりしないような強靱な『精神的胃袋』を、毎日毎晩そういった濃厚極まりない動画やら小説やらによって会得した今、真面目に考えていてもしょうがないことなのかもしれない。
余談だが、何も知らない俺のお袋は
「そういやあんた、最近よく本を読むようになったわよねえ」
とちょっと嬉しそうな顔をしてくるようになり、俺は書店員が毎回きっちりとかけてくれるブックカバーの偉大さを思い知ることになった。
とにもかくにも、蓼科の的確な指導のおかげで成績が上がり、俺はなんとかかんとか高校を卒業できそうなところまでやってきた。そして蓼科は卒業生代表に指名されて、卒業式の答辞を述べるという大役を仰せつかることになったのである。