かがやき損ねた星たちへ 2話
公安の上司らしい男が、棒立ち状態の志村の肩を叩きました。
「じゃ、明日から、あの刑事二人の世話は頼んだぞ、志村」
「……僕がですか⁉ こいつらの⁉」
「お前がゴミを漁られたんだろ。それに江田は副総監の娘だし、何をしだすかも分からんしな」
志村は長髪の似合う甘い顔を鬼にして、我々に恨みがましい視線を向けました。
限りなくギスギスした滑り出しでした。
公安の特捜本部まで、我々は一言も交わさず、気まずく電車に乗りました。
本庁の敷地に建てられたバラック小屋が、公安の特捜本部でした。
「机は自前でご用意願います」
「おっ、これが噂の腹腹時計か!」
志村の机に隠してあった腹腹時計のコピーを、薫が目敏く見つけました。警察官よりも警察犬の方が出世できそうな男です。
「『極端な秘密主義、閉鎖主義は、かえって墓穴を掘る』、公安部に三回音読してほしい文言だね。ねぇ志村、コピーしちゃダメ?」
「コピーもダメですが、複写が許されると思っている甘い考えがもっとダメです」
志村は言葉こそ慇懃でしたが、冷たい拒絶でした。しかしそれで折れる薫ではありません。
「じゃ、書き写すからいいよ。『居室を製造所として使用する場合』と」
薫は腹腹時計を横に置き、汚い字で大学ノートに写しはじめました。
「平安時代じゃないんですから」
志村は苛立った口調でノートを取り上げ、嫌そうに腹腹時計をコピーしてくれました。
公安は思っていたより孤独な組織でした。私は他の捜査官の顔を全く知りません。公安の全体像を掴んでいるのは、幹部だけのようです。
「仕事は山積みです。頼みましたよ、お二人さん」
私が記していないだけで、捜査の九割以上は地道な作業です。たとえば、まともな目撃証言がなくとも、まともでない目撃証言は多々あります。それらをひとつひとつ検証することを、我々は捜査と呼びます。
「大事なのは分かるんだよ」
聞き込みリストを潰す中、早くも飽きた薫が音を上げました。
「でも僕、地味な捜査が苦手でさ。偉いよ、嶺次郎は」
「仕事だからな」
家柄も学歴も技能もない私には、根性しかありません。私が光を浴びることはありませんし、浴びたいとも思いません。一方で膠着した捜査を進ませる薫のような、かがやかしい男が、私には羨ましくもありました。
とはいえ、収穫なく二週間が過ぎ、薫の顔からは光が消えつつありました。
§
十月十四日。私が朝から聞き込みに出かけ、昼に戻ってすぐでした。バラックが小さく揺れ、大きな音がしました。しばらくして、公安の捜査員が志村を呼び、何かを渡して長々と内緒話をしはじめました。嫌な予感がしました。
「二件目です」
不機嫌そうな志村が、壁に東京の地図を貼りました。
「虎ノ門の東京物産ビルに爆破予告電話が入り、警察官が駆け付けたところ、三階で爆弾が爆発した、とのことです」
場所はすぐ近く、西新橋でした。広い道路に囲まれた、大都会のビルです。前より爆弾の缶は小さく、幸いにも死者はいません。
薫は事件の話を聞いて、水を得た魚のように活気を取り戻していました。
「だってさ、新しい事件が起こったら、情報が集まりやすいじゃん」
薫も不謹慎を自覚しているのか、誤魔化すようにはにかみました。
「たとえば今回は乗用車を使っていたら、それだけで前回との違いがわかる」
「タクシーですよ。早くも運転手が見つかったそうです」
「そうなの? 知らなかった。あのおじさん、志村にだけ話を伝えて、僕らには何も教えてくれなかったもん」
公安部に刑事部の我々がどう思われているか、分かった瞬間でした。
「そういう組織なんですよ、公安は」
「他人事だね。志村も公安じゃん」
「好きで公安に行ったわけではないので」
「じゃ、何で公安に行ったの?」
「左翼活動家が嫌いなんです」
左翼活動家が好きな警察官って、いるんですか?
「大学時代に、彼女が左翼に寝取られたもので」
フフッと笑う音がしました。私は笑うのを我慢しました。犯人は薫です。
「私怨じゃん」
「私怨で犯罪を犯した左翼を捕まえて悪いですか?」
志村はむっとした表情でした。彼に捕まる左翼が気の毒でなりません。
§
第二の事件の犯行声明は、その日のうちに新聞社に送られ、警視庁にも転送されてきました。特捜本部の空気が凍り付いたのが、私にも分かりました。
――日帝ブルジョア報道機関に告ぐ。
反日武装戦線〝かがやき〟は、本日、植民地侵略企業東京物産に対し、本社爆破攻撃を決行した。日帝はアイヌ・モシリを支配し、アイヌの住居から天幕を引きはがし、アイヌの血を吸って肥え太った。日帝企業は全ての植民地を速やかに解放せよ。
「腹腹時計や一件目の犯行声明と、同じタイプライターだね」
腹腹時計のページをめくる薫の言葉に、志村が頷きました。
「ええ。引用符やダッシュを使える和文タイプライターは限られています。機種は特定済、誰かがタイプライターの購入者を調べているはずです」
しかし志村はその先の話をしませんでした。進展はないのでしょう。
「かがやきは、アイヌに相当なこだわりがあるようだね。アイヌ・モシリなんて僕は初めて聞いたよ」
「不勉強ですね」
「だから今教えてよ」
薫に返す刀で斬られた志村は、少し面食らった様子を見せましたが、最終的には丁寧に教えてくれました。
「アイヌ・モシリは、アイヌの大地、つまり北海道のことですね」
「じゃあ、北海道の活動家を洗った方がいいんじゃないの?」
「もう洗ってますよ。岡依彦、北海道出身で、昔からアイヌ解放運動に携わっていた活動家です」
「そいつ捕まえに、北海道にでも行かない? 折角だし、向こうでスキーでも」
冗談っぽく言う薫ですが、恐らく本気です。薫は十月の半ばでも、北海道ならスキーができると思っているのです。
「行くなら一人でどうぞ。僕は結構です」
「なんで? 北海道警に手柄を取られてもいいの?」
「アイヌの住居は木造で、天幕は使いません。アイヌの住居から何を引き剥がすんですかねぇ? アイヌに詳しい者なら、間違えるはずのない基礎的な部分です。僕には岡が関係者とは思えませんね」
志村の嫌味は、味方だと心強いものです。
「詳しいな」
「道産子なもので」
志村は椅子の背もたれに体重を預け、品よく笑いました。
「それ、公安の上司には報告したのか?」
「しましたけど、無視でしたよ」
志村は大仰に肩を竦め、椅子を回して我々に背を向けました。
「僕ら三人は同じ班ですから。刑事部に手柄を渡しうる僕の話を素直に聞くほど、公安部は甘い組織ではありません」
秘密主義の公安部に噛みつこうとした江田警部がしつこいため、公安部にねじ込まれたのが我々です。巻き込まれたのが志村です。
「僕は刑事部の見張り役にすぎません。かがやきが捕まるまでは飼い殺しでしょうね」
「……すまんな志村。お前の出世の芽を摘んで」
「いえ。僕は左翼活動家を捕まえられれば、それで」
志村はいたって真面目な顔でした。そういえば彼は私怨で公安に入ったのでした。
薫が少し間をおいて溜息をつきました。
「ねえ志村、三人だけで動く気はない?」
突拍子もない事を言われて、志村が急に冷静になりました。
「公安部の上司が、刑事部出身の僕らのことを全て無視するつもりなら、僕らが何をしていても咎める権利はないよね」
「……薫、何をするつもりだ?」
「公安部の指示を聞かずに、大鷹の奴らを捕まえる。かがやきだけ追っても進展がないなら、視点を変えなきゃいけない」
この男に東京の治安を任せていいのでしょうか。
「指示を聞かずに捜査するとして、誰の名前で令状を出すんですか?」
「私怨で捕まえるつもりか?」
我々は命令を遂行するのが仕事です。上司の命令がないと仕事になりません。
「まさか。別の上司に命令と令状を出してもらうんだよ」
別の上司、と聞いて思い浮かぶ顔は一つでした。
「江田警部さ」
その瞬間、私には江田警部の目論見が見えました。彼女が我々を手放しで公安に放り込むとは思えません。薫なら秘密主義の公安部から情報を掴んだうえで、自分の元に帰ってくる。そう確信していたのです。
そして薫は、彼女の目論見まで見抜いたうえで、彼女に電話したのでしょう。それは薫の強気な表情が物語っていました。
「本気か?」
私が尋ねると、薫は大きく頷きました。
「四割が本気だね」
「少ないな」
「残りの七割も本気だね」
「多いな」
薫は算数の苦手な男でした。
「志村はどうする? 一緒にやれとは言わないよ。僕らと決別して、ちゃんと公安に戻った方が出世できると思う」
薫も私も、志村の望むとおりにすると決めていました。
「やりましょう」
「いいのか。公安本部を裏切るも同然だぞ」
私が念を押すと、意外にも、志村は大きく頷きました。
「僕は別に、公安が好きで入ったわけではないので」
志村が我々の前で初めて、屈託のない笑みを見せました。
私怨で公安に入った男は、言うことが違います。
「しかし、志村のおかげで、思わぬ情報に気付いたな」
「犯人はなんで北海道出身のフリをしたんだろうね」
「本当の出身地を知られたくないんだろ。出身地はおよそ、俺にも予想はつくが」
軽い気持ちで私が口にした言葉に、薫と志村が顔色を変えて食いつきました。
「早く言ってよ」
「その口は何のためについてるんですか?」
苦情を言われて、私は渋々、壁の地図の前に立ちました。
「一件目のペール缶爆弾と違って、二件目は会社の中に持ち込める小さいものだ。車より地下鉄で運ぶ方が好都合だろ」
「渋滞に巻き込まれたら爆発しちゃうもんね」
それは一件目の大倉重工の時も同じです。
「見ろ。東京物産は西新橋、渋滞しやすい大きな道路に囲まれている。それでも奴らは車を使った。鉄道を使いたくない理由があるんだ。恐らく、犯行を計画した奴は鉄道に乗れない」
私が地図を指さすと、薫と志村が揃って目を丸くしました。
「……今どき、東京都民で、全く電車に乗れない人がいますか?」
「そうだよ。たとえ島育ちでも、高校進学のために島を出て電車に乗るよ」
やはり二人からは的確な反論が飛んできます。しかし私には切り札がありました。
「高校を卒業するまで、島から出られなかったら?」
私の言葉に、志村はピンと来たようでした。
「たった二年前まで外国だった沖縄だ」
沖縄には高校があります。しかし鉄道はありません。そして少し前まで、沖縄を出るにはパスポートと渡航証明書が必要でした。沖縄で生まれ育てば、鉄道に乗れなくてもおかしくありません。上京には夜行列車を使いますが、夜行に一度乗ったくらいで乗り換えまみれの東京の鉄道には乗れません。
「上京後はどうするの?」
「車かバスを使っていたんだ。薫だって、バスが苦手で避けているだろうが」
田舎者だとバレた薫が、小さく舌打ちをしました。
復帰前、沖縄県民が本土の大学に行くのは難儀でした。いわば本土への留学であり、極一部の富裕層を除き、留学には選抜試験を通る必要があります。
「留学を取り仕切る沖縄育英会に電話し、名簿を出させ、その名前を全員調べる」
留学生の多くは、卒後沖縄に帰ります。今も東京にいる学生か、東京に残った社会人となれば、かなり限られるはずです。
「千人くらいまでなら、一人で全部やる」
私が言うと、薫が力強く頷きました。
「じゃ、僕と合わせて二千人だね」
「三千五百人にしておいてください」
三人で大口を叩いた割に、卒業生は殆ど沖縄に帰っており、該当する者はわずかに百人足らずでした。
我々の調査法は簡単でした。住民票を調べ、実際にその住所に向かい、怪しい動向がないか丁寧に調べます。
私が得意で薫の苦手な、単純で膨大で地道な捜査です。
こちらは二週間以上かかりました。途中、三件目の爆弾事件が起こり、新聞や雑誌の活字を切り取って作った、犯行声明が送られてきました。
それでも私は、懸命に沖縄県民の足取りを調べました。途中で辞めたら全てが水の泡ですから。
事態が動いたのは四十人目に差し掛かるかという頃でした。
「次は伊波飛鳥、二十五歳。住所は北千住だ」
住所は小さなアパートになっていました。しかし平日ながら、朝から晩まで彼は一度も姿を見せませんでした。
「引きこもって爆弾でも作ってたり――」
人通りの全くない裏に回り込み、半開きの窓から中を覗こうとした薫が言葉を止めました。薫はすぐさま窓を全開にして、足をかけ、無理に侵入しました。
「馬鹿、令状もないのに!」
「大丈夫だよ、平日の昼だし、人もいないし」
私が慌てて後に続いた瞬間、薫が絶句した理由が分かりました。
「死んでる」
伊波飛鳥、二十五歳。恐らく男性。手首がきつく紐で縛られ、首に絞扼痕がありました。人は死体を目の前にした時、端的な事実しか口にできないと初めて知りました。
私が手首を縛った紐をほどくと、そこにも明瞭な絞扼痕がありました。
「首の絞扼痕と同じだ。同じ紐を使ったんだろう」
「殺した後に手を縛ったみたいだね」
その理由は、すぐには分かりませんでした。私は彼の部屋を見渡しました。
伊波青年の部屋には、例の機種のタイプライターがありました。いくつもの左翼本が散らばっていて、腹腹時計の原本もありました。かがやきの一員なのは、間違いないでしょう。
少々ずぼらな性格なのか、台所には缶詰の空き缶が積まれていました。一方で部屋は整理されています。犯人が片付けたのでしょうか。
「薫、警察を呼べ。ただ、その前にカメラを貸してくれ。持ってるんだろ?」
「何で分かるの?」
「お前、毎日一課のカメラ持って帰ってるだろ。子の寝顔でも撮ってるのか?」
私は日々見逃してきましたが、切り札にしないとは言っていません。薫はきまり悪そうに荷物からニコンを出しました。
「やめてよ! うちの娘の寝顔の次に、死体なんか撮らないで! フィルムが汚れる!」
そんな苦情は無視です。私はあちこち触りながら、死体や部屋の写真を撮ってゆきました。薫は渋々公衆電話を探しに部屋を出て行きました。私が追い出したともいいます。
しかし、いつまで経ってもパトカーは来ません。軽い足取りで戻ってきた薫に、私は詰め寄りました。
「警察はどうした?」
「ダメだよ。こんな左翼っぽい部屋に警察を呼んだら、公安が来る。志村が僕らを制御できなかったのがバレる。それは気の毒だよ」
「……それは、そうですが」
「代わりに江田警部を呼んだ」
私は薫に舌打ちを返しました。
「ついでに、荒川区男子大学生殺人事件の話も聞いてきた。被害者のトビシマという東工大生も、手首を縛られて死んでたって、警部は言ってたよ。同一犯とみて間違いないね」
それは我々だけが掴んだ情報でした。
東京都民一千万人から、我々は伊波を探し当てました。殺されるほど重要な人物に辿り着いた、つまり進む道が正しいということに他なりません。しかし――。
「この死体、どうします?」
我々は決して後戻りできない領域に、足を踏み入れたのです。