02
シロからメールが途絶えたのも仕方ない話。
けれど、忙しくなる前だったので丁度良いとすら思えた。
どうせ滅多に返信しないのだ。
休日に会えない口実を作る手間も省けた事だし。
そうやって、初めての恋愛にのめり込んでいった。
甘い夢見心地に深く身を沈めながら。
眠りとは自我に目隠しする事。
何も知らない事は幸福に思えても、別の視点からすれば危うい行為。
心地良く夢を貪る間も現実は足を進めている。
すっかり忘れていたのだ、いつか覚めてしまうものだと。
何かがおかしい。
最初は漠然とした違和感だった。
手を繋ぐのもキスするのも、いつだって此方から。
メールも電話も毎回返って来るとは限らない。
彼が周囲に人気があるのは前から。
平等に優しい為、寄って来るのが誰でも手を差し伸べる。
彼の愛情を疑っている訳ではない。
浮気されているとか嘘を吐かれているとか、そうではなく。
ただ、シロならこんな事無かったのに。
シロの「好き」も「一番」も、紬だけだった。
男女だったら、恋人同士だったら、尚更ではないのだろうか。
今年の3月は例年よりも暖かい気がする。
眩しさを増した太陽で、夕方の空気も随分と温くなったものだ。
息を吐いても、もう白くならない。
通い慣れた道にもゆっくりと去る仕度をしている冬を感じた。
フェイクファーの物から幾らか軽いコートに袖を通した日。
いつかの昔なんて、まだ灰色の空に雪が舞っていたのに。
「クリスマスに降らないくせにね」
「でも、ホワイトデーだから丁度良いんじゃない?」
他愛無くそんな事を言って笑い合った。
寒さで赤い頬の横顔が誰だったか、なんて決まっている。
ぼんやりしてしまうのも暖房が効きすぎている所為かもしれない。
脱ぎ捨てられたコートは今や膝掛け。
駅ビル内のコーヒーショップ、ラテも冷たい方を頼んだ。
隣のカップは真っ黒なドリップ。
苦味のある香りを唇に、彼が何か喋っては笑っていた。
今日は夜から大学の友人達と遊ぶ約束。
彼と共に来た待ち合わせ場所には一番乗り。
時間よりも少しだけ早く到着した理由は、今日と云う日にある。
「お返し……、開けてみて?」
今はまだ二人の時間、彼が包みを一つ差し出した。
3/14のホワイトデー。
大事に受け取ると、中身はガラス玉が煌めく華奢なネックレス。
その辺の雑貨屋にありそうな。
女の子だったら好きそうな。
でも紬はアクセサリーなんて着けない、ただ邪魔なだけだ。
クッキーやマシュマロ、キャンディの日。
紬には食べられる物の方が嬉しい。
毎年シロだったら手作りのお菓子をくれたのに。
シロだったら。
シロだったら。
「……ありがとう、可愛い」
シロだったら。
シロだったら。
着けてみせるのは彼を喜ばせる為。
巻き付ける男の手に背中を向ければ、首を冷たく舐める鎖の感触。
総毛立って震える一瞬。
此れも普段慣れていない所為だ、ただそれだけ。
こうして自分を無理やり納得させてから紬が視線を軽く下げた。
それはそうともう一つ気になっていた事。
彼のバッグの隣、お菓子の小さな包みが顔を覗かせる紙袋。
「ああ、女子の皆に義理チョコ貰ったから……大した物じゃないけど、気持ち」
用意したのは飽くまで礼儀として、だろう。
与えられたら拒まない。
受け入れる事が優しさだと信じているのだ、彼は。
与える事にも受け入れる事にも何処かで限りがあるのに。
それなら、相手は私だけにすれば良いじゃない。
席に紬を残して、彼がお手洗いに立った。
まだ友人達は姿が見えず。
緩やかな空間を保ちつつも、談笑の声が賑わうコーヒーショップ。
席も埋まっていて周囲にはこんなに沢山の人が居るのに。
雑音の中、急に独りぼっちになった錯覚。
そうして、意識は変わらず紙袋に。
あれが"気持ち"だと云うのなら。
私のものでしょう、全部。
そこから先は、まるで獣の所業。
幾つかの綺麗な包みを掴み取って、力一杯に引き裂いた。
ほとんど飛び出す勢いでテーブルに落ちたクッキー。
無残に割れるのも構わず、噛み砕く。
思いのほか堅くても崩れる時は何とも呆気無い。
匂いも味も甘さなど碌に判らないまま、どうでもいい。
乾いた焼き菓子に唾液を奪われて、何度も噎せそうになりながら。
それでも手を止めず無理やり呑み込む。
全部食い尽くすつもりが、胸元に零れて逃げて行く欠片に苛立った。
飢え切って堪らず、なんてものじゃない。
憎んでいるかのような荒々しさ。
「ちょ……ッ、何してんだよ……?」
耳の奥で鈍く響いていた咀嚼の音だけが支配する最中。
困惑で硬い声が裂いた。
戻って来た気配を感じてから一瞬後の事。
「なんのこと?」
頬張った物を喉の奥へ押し込み、微笑んだ口許に牙。
彼に向けた紬の目は獣のまま。