婚約者とわたし
一週間ぶりにレスターがわたしの元へと訪れた。わたしの顔を見るなり、彼は顔をしかめた。
疲れた顔をしている自覚はある。
リーリアと義母の騒動はすでに後始末が終わっていたが、それなりに大変だった。リーリアは宝石を返さないと喚くし、商人はわたしがお金を出してもいいとか言い出す。
リーリアと商人は変に利害が一致して、最後には結託する始末。
わたしの忍耐が切れてようやく宝石が返却できた。
その一連の騒動で不安が募っていた。お金があれば起きない騒動なのだ。乙女ゲームの知識からお父さまがいずれ横領することがわかっている。その横領が侯爵家のお取り潰しに発展するのだから、早めに阻止したい。そんな思いもあって、密かにお父さまの資産状況とリーリア達の買い物金額の調査し始めた。払った払わないというやり取りがあるのなら、まだ大丈夫なのだと信じたい。
「大変だったみたいだな」
「それなりに」
レスターが隣に座った。
「近い」
婚約者ではあるが、まだまだ親密な関係になるわけにはいかない。そう思いぐぐっと手を突っ張ってみるが、彼は笑ってわたしの腕を掴み抱き寄せる。
「早く18歳になりたい。3人、追い出したい」
「じゃあすぐにでも結婚しよう」
腕を掴まれたまま、ちゅっと音を立てて唇にキスされる。軽いキスだからいやらしさはないが、気を抜くと危ない。レスターも19歳。そういう事をしたい年頃なのに、本当に申し訳ない。
後見人を変更するためには結婚が一番であるが、保身のためかお父さまはレスターとの結婚をわたしが18歳になってからと譲らなかった。愛情をかけてもらった覚えのない父親であっても、流石に約束された年齢よりも早く結婚して追い出すのも気が引けていた。
アンダーセン侯爵家との縁が切れてしまえば、今までとは同じようにはいかなくなる。辛うじて招待されている夜会などもなくなっていく。社交など貴族たちの利益を繋ぐ場であって、平民は必要ないのだ。招待状が来なくなるのは貴族だった者にしてみたらとても寂しいものだ。
「でも」
「彼らは心配ないだろう? 君の父上は平民とはいえ王宮の財務の文官だから収入もいいはずだ。一年前倒しになるだけだ」
そこまで考えて、息を飲んだ。
何が嫌なのか、理解してしまった。わたしはお父さまと衝突することが嫌なのだ。わたしもお父さまを愛していないのに、愛していないと目の前に突き付けられるのを避けている。
勝手なものだなと考え込んでいると、そっと体に手が回った。ぎゅっと強く抱きしめられる。固い胸を頬に感じて瞬時に火照る。
「レスター様!」
「これ以上何もしないよ。ほら、力抜いて」
うーと唸りながら、ゆっくりと力を抜いた。大人になったレスターを押しのけるなどできないし、それに今はこの優しさがたまらなくほしかった。わたしが10歳でレスターの婚約者になってから彼は時々思い出したように抱きしめてくれた。最近はやはり距離が気になるのか多くはないが、それでもわたしの心が冷たくなり始めると、こうして温めてくれる。
大きな手が優しく背中を撫でた。ほんの少しだけ伝わるぬくもりと彼の吐息に目を閉ざした。彼の規則正しい鼓動が聞こえた。
「何が心配なんだ? さっさと追い出せばいいじゃないか」
「そうできたらいいんだけど」
一緒の屋敷に暮らしながら、わたしは彼らの家族でない。確かにお父さまとリーリアとは血のつながりがあるかもしれないが、彼らに家族としての愛情を感じたことは一度もなかった。それはきっと彼らも一緒の感情で、お互いが家族とは思っていない。
初めて義母と異母妹と会った時からそうだった。わたしの家族は亡くなったお母さまだけだと認識した。愛されていないかもしれないけど、そう思うまではお父さまはまだ家族だった。
「できない理由がわからない。後見人から外さなくても、他の屋敷に移動させられる」
「……それもそうね」
改めて指摘されて、目を瞬いた。何故我慢しなくてはいけないと思い込んでいたのか。お父さまがすぐに義母と再婚したことや一つ違いの異母妹がいたことで、すでに侯爵家も嘲笑されている。そこにわたしが3人を追い出したという事実が追加になったところで、あまり変わりはないだろう。
記憶を取り戻す前のわたしができないと思い込んでいたことが多くて驚いてしまう。その上、お父さまに関してはバネッサとしての気持ちがかなり強く表に出る。
前世のわたしは両親とも仲が良く、なんでも言葉にしてきた。他人の気持ちを自分のことのように理解することなどできない、というのが前世父の言い分だ。喧嘩も多かったと思うが、一歩引いて接することもなかった。
「ねえ、バネッサ」
ふっと息を吐きかけるように耳元で囁かれた。艶やかな声が響いてくる。
「うん?」
「僕は頼りにならない? 一年もしないうちに夫になるのに」
「そんなことはないわ」
傷ついたような声音に慌てて否定した。彼の胸に手を当て顔を上げる。パッと彼を見れば、意地の悪い笑みを見せていた。
「ほら、話しなよ。僕が知っていることを話してしまう前に」
「……ねえ、裏切り者は誰よ?」
「誰も君を裏切ったりしていないよ。君を幸せにする僕の協力者ということだけで」
うぐぐぐ。
お父さまの資産とリーリア達の買い物金額を調査していることを知っているのは一人しかいない。年老いた家令を思い出した。きっと彼はレスターに話すことで早めの解決を探っているのだと思う。早めに解決しないとダメなのはわかっているけど。できればレスターには知られたくなかった。
「バネッサ?」
優しく促されて、宝石の件を話し、何を心配しているのかも付け加える。
「お金がないとわかっていて商人が売るとは思えない。そうなると後払いとしても、きちんと払っているのだと思う。何かを売り払っているのか、それとも借金しているのか……」
言えないけど横領とか。
「借金も売却もまだしていないんじゃないのか?」
「どうして言い切れるの?」
「まず物がなくなっているような感じはない。それに借金していたら、君の周辺はもっと物騒だよ」
それもそうか。わたしからお金を引き出すのが一番手っ取り早いのだから、父親の不始末を盾に脅迫してくるはずだ。
「今はそうかもしれないけど、このままだといずれは破綻するわ」
「後見人が破産しても君には関係ないと思うけど」
「でも、父だから」
声が小さくなった。お父さまは侯爵ではないけれどわたしの親であり、後見人である。愛情なんてないけど、他人よりも情はある。
できれば横領をする前であってほしい。犯罪を犯していなければ、まだ救える。たとえわたしの資産が減ったとしても、一度は手を差し伸べるつもりであった。
「僕はね、貧乏は嫌いなんだ」
「え?」
何を話し始めたのか、全くわからない。目を瞬いて、レスターの愁いを帯びた顔を見つめた。
「君は知っているかい? 僕は王族といえども母は子爵家出身の側室だ。側室の手当ては非常に少ない上に子爵家の援助はあまりなかった。王宮での生活費は支払われた手当てで賄うんだ」
「ええ、そうなの?」
思い返せば、側室が夜会などに出てくることはほとんど稀だ。茶会の催しも王妃に比べたら圧倒的に少ない。社交をしないのならドレスも宝石も最小限でいい。
「母上の虚栄心を満たすためにドレスや宝石を買う。そうするとどこかにしわ寄せがいく」
「そうなるわね」
当たり前の話に思わず頷いた。
「本当は一番金のかかる使用人を減らせばいいけど、人がいないのは目立つ。だからしわ寄せは食事に来る」
「食事?」
「そう。食事だ。抜かれることもないし栄養的には問題はない。だけど、毎日出される味の薄いスープとパンはお腹をそれなりに満たしても心を抉った」
一体、いつの頃の話なのだろう?
理解できずに首をかしげていると、レスターがちゅっと頬にキスをした。
「味気ない世界を変えたのは君との婚約だった」
「ふうん、そうなの」
どう答えていいのかわからず、曖昧に相槌を打つ。
味気ないって、そのままの意味で味気ないのよね。食事が。王族の彼がそんな食事をしてきたなど誰も考えないと思う。しかも嫌がらせとかではなくて、お金がないという理由で。
「君と婚約して僕は後宮から外の世界に出ることができた。招待された食事には肉が出ていた。久しぶりに食べた肉に嬉しさのあまりその夜は泣いたものだよ」
声を立てて吹っ切れたように笑っているけど、この話ってもしかして幼少時のトラウマ? この話をリーリアにしてリーリアが優しく心を癒すのよね、確か。前に思い出したときにイベントの一つとして見ていた。
憂い顔のレスターと彼の気持ちに同調したために涙を流すリーリア。
皆に放っておかれて食事さえ抜かれて。愛情を向けられなかったレスターの気持ちを理解しそっと寄り添うリーリア。
でも今の話だとちょっと違う。単純に支給されている生活費を切り詰めてドレスを買い、必然的にお金がないから食事が貧しくなったということだ。何度か彼の母である側室にもあったことがあるが、彼に対して愛情がないというところは見られなかった。わたしの方がお父さまによほど愛されてない。
レスターが幼い頃の辛さを思い出し一粒の涙を流すあの素敵なシーンがお腹空いた欠食児の癒しイベントだったとは、現実っていい加減すぎる。
物は言いようということなのか。それとも捉え方は一つではないという事か。
「君が与えてくれたものは肉だけじゃない。君の家に仕えている人たちは手元のお金を投資することで増やせる技術を教えてくれた。それから僕はとても頑張ったよ。今では異母兄上よりもお金を持っているからね」
「そうなの?」
「そうだよ。だからね、大抵のことは黙らせられる。君の大切なこの家を潰すつもりはないし、君に不名誉な思いをさせるつもりはない」
じっと彼を見つめれば、レスターは目を細めて笑った。
「僕が君を守るよ。あの時に君が僕を救ってくれたように」
「ありがとう……」
その囁きにジンと感動した。涙が出そうになって鼻の奥がツンとする。
「愛しているよ、バネッサ」
一飯の恩は侮ってはいけない。肉よ、ありがとう!




