傭兵の独白
ウォルフガング・ディーゼルは、もはや何杯目かわからぬブランデーを、一気に飲み干した。
既にいつから飲んでいるのかも、定かではない。
ただウォルフの横のサイドテーブルには、ここまでの戦果である空になった数本のボトルがあった。一つ気になる点があるとすれば、ウォルフが普段飲んでいる安酒ではない点だ。
全てがブランデー。
常ならば、決してウォルフが口にしない種類の酒であった。
部屋の中は薄暗かった。
小さなルームライトだけが、ほの暗い室内を照らし続けている。
今が朝か夜かさえわからない。
分厚いカーテンは締め切っていた。戦場暮らしが長かった所為か、安全だと言われていてもカーテンを開ける気にはなれなかった。
ことんっ。
空になったグラスを床に無造作に置く。
うっすらと埃かぶったフローリングの床。ウォルフガング・ディーゼルはソファーに身をもたせかけたまま、定まらない焦点でライトの光を見つめた。
白い天井の隅で淡く光る電球。
ずっと、この風景を見てきた気がする。
――戦争の犬
まさしく己の人生は血と硝煙の中に在った。
酒の味を知るよりも早く、人を殺した。
女の味を知るよりも早く、人を殺した。
人を殺して、殺して、殺して、殺し続けた日々。
人が殺され、殺され、殺され、殺され続けた日々。
どこか現実じゃないような、夢の中に在るような日々だった。
実入りの良い傭兵企業があると戦友から聞いて「SGS」という会社に入社した。もっとも「SGS」がPMC--民間の戦争代行屋ではなく、最近はちょっと毛色の変った警備会社であると気が付いたのは最近だ。
『だから』と云うべきか、同僚の大半が戦場を知らなかった。それは半生を戦場で費やしてきたウォルフにとっては驚くべき事であった。そして、さらに驚くべき事に幾人もの同僚に、こう聞かれた。
「戦場はどんな場所だったか?」と。
戦場で、そのような疑問を持つ者はいない。
なぜならば、そこが現実であり、そこが世界なのだ。
初めて、その問いをぶつけられた時、ウォルフは暫らく思案をし、こう答えた。
『まるで夢の中みたいな場所だ』と。
大半の者がそれを聞いてと眉を顰めた。
それ以来、その種の問いには応えていない。
だが、ウォルフはその表現こそが、最も正しいと確信していた。
事実を事実として、あらゆる情報を怜悧冷徹に分析できなければ、戦場では生き残れない。
戦場の掟はシンプルだ。
客観性を欠いた人間から死んでいく。
客観的な情報の中には、自分も含まれる。
戦場の傍観者に徹する事。
それが戦局の流れを掴む為に必要な行為であり、事実、ウォルフは優れた戦場の傍観者であった。
歓喜も。
憤怒も。
悲哀も。
愉悦も。
全ては情報に過ぎない。
全ては記号に過ぎなかった。
そう、まるで。
まるで他人の夢を覗き見ているような、そんな日々。
それこそが、ウォルフガング・ディーゼルにとっての戦場の風景であった。
だが――
それだけじゃなかった。
それだけじゃなかった。
たった一つだけ。
たった一つだけの、現実。
ウォルフガング・ディーゼルにとって唯一の、大切な想い出。
それが、戦場には在った。
思考は既に完全に混濁し、自分が今どのような状態であるのかわからない。
何故こんなになるほど、酒を飲んだのか。
その答えは、戦場にあった。
そして、それは愛した女への弔いでもあった。
愛した女の好きだった酒で、我を忘れるまで酔う。
それは、一年に一度だけのウォルフの儀式。
体が妙に重く、疲れている。
それでもウォルフは、ソファーから身を起こし、ふらつく体でキッチンへと向かった。
酔い潰れるには、まだ酒が足りなかった。
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持ってきたボトルを開ける。
日本に渡航するに当たり、SGSが社屋代わりにあてがった部屋。
無味乾燥な、ただの部屋。
己しか、存在しない空間。
孤独を強調するような、嫌な静寂だけが横たわっていた。
その静寂を打ち消すように「レコードでも聴いてみるか」と独りごちる。
グラスを酒で満たしてから、部屋の一角を閉める重厚なオーディオ機器群へと向かう。
数瞬、このオーディオを死に際に自分に譲って逝った戦友の顔が浮かぶが、それもすぐに消えた。どうせ自分の持ち物の大半が、戦友からのオサガリだ。気にしたところで、意味が無い。
曲目は選ばなかった。
無造作に円盤を掴み、オーディオに押し込む。
音楽が緩やかに、低く流れ始める。
独特の少ない音源で紡ぎ出される、甘く感傷的なメロディーライン。
浮かない気分の折に、暗い感じの曲。
皮肉に思えた。
精悍な顔をわずかに強張らせて、酒を口に含む。
スローテンポ。
だが次第に激しい悲痛な曲調に変わっていく。
叫ぶような、泣くような、濡れた音色に。
やがてトランペットの音を借りて、一人の男のモノローグが始まる。
夕暮れ時を一人淋しく過ごす、恋人を失った孤独な男。
身も心も荒れ果て、今はもう、慕って訪れてくれる人さえ持たない。
朧げな意識の中で、心の傷がうずき出した。
この曲は――
この想いは――
壁にもたせていた体がずるずると床につく。
手が包んでいたグラスは、力なく離れ落ちる。
浴びるように酒を飲んだ理由が、思い出される。
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女が死んだ。
いい女だった。
もう何年前になるかも覚えていない。
そんな事など、まるで意味のなかった。
アイツと過ごした「時間」だけが存在した。
その一点のみが、重要であった。
己の人生の中で唯一、日の当たった時間――
アイツと逢ったのも、戦場だった。
アフリカ中央部の混迷する小国の反政府軍に、アイツはいた。
俺はそのレジスタンス側に雇われた傭兵だった。
クーデターで権力を握った独裁者気取りのデブが率いる政府軍が敵だった。
戦闘は、俺が経験してきた中でも熾烈を極める厳しいモノだった。
後になって分かった事だが、鉱山資源の権利譲渡を条件に米国が裏から手を回していたそうだ。
そんな非日常世界で、俺はアイツを抱いた。
きっかけは忘れた。
重要なのは、始まりではない。
結果だ。
俺はアイツを愛した。
アイツも俺を愛した。
短く甘い蜜月の時。
だが、それもすぐに終わった。
政府軍にレジスタンスの大将が投降した。
自分の命、可愛さに仲間を政府軍に売ったのだ。
戦争は終わった。
俺の仕事も終わった。
指揮官が裏切った今、レジスタンス側に勝ち目はない。
あとは一方的な虐殺が繰り広げられるだけだ。
とっと降伏しちまうのが、頭のいい身の振り方だと誰もが理解できた。
だが。
だが、生き方を死ぬと分かっても変えられない人種がある事を、俺は知っていた。
そして、アイツがそういった人種だと云う事も。
結局アイツは、自分の信じた生き方を曲げなかった。
俺は、アイツの生き方を曲げることができなかった。
――そして
女は己の信条を護る為に、死んだ。
俺は己の信条に従った為に、生き残った。
これまでも何度も同じような事はあった。
確かに、アイツはいい女だったが、だからと言って何かが変る訳ではない。
いつものように深く物事を考えずに、酒や賭博などの上辺だけの楽しみを享受していれば、すぐに忘れられると――そう思っていた。
そう、孤独を紛らわす自信はあった。
だが、できなかった。
――孤独を知ってしまったから。
アイツが他の女とどう違うのか。
それすら、俺には分からない。
だが、アイツだけが俺の孤独を癒すことができた。
誰と一緒にいても、孤独を感じずにはいられなかった。
手近な女とも幾人も交わった。
アイツを思い出さないための苦肉の策。
「愛」とか「恋」とか理屈を言わなければ、セックスは楽しいものだ。誰とでも、それなりに楽しめた。だが、それは孤独まで埋めてはくれなかった。
本気でないから。
本気になれないから。
また寂しくなって、違う女と肌を重ねる。
――その繰り返し。
そして。
刹那の快楽の代償は、激しい自己嫌悪であった。
火遊びが心を荒ませ、俺を追い詰める。
なにより、孤独。
それは何をやっても拭えない。
何をやっても、替えがきかない。
人を愛することは、人を強くするなんざ、嘘っぱちだ。
俺はアイツを愛したから。
アイツが俺を愛したから。
俺は、こんなにも弱くなっちまった。
アイツがいないだけで。
アイツが死んだだけで。
だから。
俺は、変わった。
無意識にも、意識的にも。
アイツの存在が、喩えようのない安心感を与える。
いつでも無鉄砲な自分を、決して見放さずに寄り添ってくれた。
そのことが、何ものにも代え難く心強かった。
アイツさえいれば、俺はいくらでも強くなれる。
その幼稚な考えが、自分をここまで弱くした。
実際は、アイツに依存して、己れの弱さを肥大させていたに過ぎなかった。
その証拠に、アイツの幻影が俺の心の中に巣食っている。
自分にしか見えない幻影。
まるで亡霊のように、突如現れては消える。
そう、たった今も目の前に、アイツは立っていた。
「よう、一年ぶりか?」
『男が時間を気にするものじゃないな』
「ったく、死んでも口が減らねぇ女だな」
『それは褒めているんだろう、ウォルフ?』
「――ああ、そうだ。お前よりいい女はいない」
『口は上達したみたいだな』
「そんな事はねぇよ」
『ふん、信用できないな』
「ひでぇ女だな。本気でお前より、いい女がいないと思っているぜ、俺は」
『――まだ一人なのか、ウォルフ?』
「ああ、まだ独りだよ」
『女々しいな』
「いいんだよ、女々しくて。男が本気で愛する女は一人で充分だ。二人は多すぎる」
『喜んでいいんだか、悲しんでいいんだか、悩む台詞だな』
「そこは喜ぶところさ。ウォルフガング・ディーゼルが愛を囁いているんだぜ?」
『――そうだな。喜ぶべきだな』
「ああ、そうだ。女冥利に尽きるだろ?」
『――なぁウォルフ』
「なんだ?」
『私は生きているお前が好きだ』
「いきなりだな。じゃあ、死んだら愛してもらえないのかよ?」
『弱い男は趣味じゃない』
「なら、精々しぶとく生き残って好かれるように努力するさ」
『その素直なところは、お前の美徳だな』
「そりゃどうも。――で。もう、いっちまうのか?」
『時間だよ、ウォルフ』
「女は時間にルーズじゃないのかい?」
『時間にルーズなのはフランス女だけだ。私は、時間に厳しい』
「――ああ、そうだった。そうだったな」
『それじゃぁな、ウォルフ。愛してる』
「俺もだ。愛してるぜ、イレ・イフェ」
「広い大地」という意味の名を持った、俺が愛した女は、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、俺の目の前から消えた。
いつのまにか、レコードは終わり、部屋には静寂が戻っていた。
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「感傷に生きるにゃ、30年早い……か」
ウォルフは静かに双眸を伏せた。
多くの人を殺してきた。
多くの人の死に接してきた。
そのウォルフガング・ディーゼルが、自身に許した、一年でたった一日の贅沢。
『己の脆弱さに溺れる』という究極の贅沢を味わい、満喫し、笑みを浮かべる。
「我が永遠の姫君へ――願わくば、また来年も君の幻影に生きて逢えますように」
毎年繰り返される、ウォルフガング・ディーゼルだけの儀式。
一流の傭兵として、一流の傍観者として生きるウォルフが『人間』を取り戻す一日が終わろうとしていた。
明日からは再び、世俗で磨耗しきった感情をぶら下げ、冷徹な傭兵の仮面を被る日々が続く。
そう眠りに落ちていく。
そして次に、目を覚ます時。
戦場を駆ける歴戦の兵ウォルフガング・ディーゼルの顔になっているだろう。