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三国開拓志  作者: へるぱあ
2/17

夢を見ているか

主人公が出ます。

 煙草の吸殻が灰皿から溢れる。

 現地の言葉で流れるラジオからはこの渋滞は三時間あまりの規模になり、緩和にはまだまだ時間が掛かるという内容がずっと流れている。


「あー。どうすんだこれ」


 苛々とハンドルを指で叩きながら、頭を掻いた。


 稲飯浩は遺跡調査員である。


 大学卒業の後すぐ、かねてからの夢であった学芸員になり、茨城の博物館で働いたが、想像していたものとは違いデスクワークばかりの毎日に嫌気がさし、6年契約であった博物館職員をわずか2年で辞めてしまった。その後、大学生のころにバイトをしていたRESという遺跡調査の会社に正式に雇用される形となって今に至る。


 そして、職を変更したことが自身の生活様式を一変させることになる。


 RESでアルバイトをしていた時には、日本国内で行われている発掘調査にしか参加したことは無かった。

 しかし、この会社はアジア圏の各国に助人として調査員を送り込むといった業務内容も含まれていることをすっかり見落としていたのだ。


 現場での仕事を始め一年半程過ぎたある日、会社で報告書をまとめている自分の肩を叩いた後、社長が言った言葉を忘れることができない。


「稲飯君。君中国語できたよね?」


 こうして稲飯は派遣調査員の中国担当となってしまったのだ。

 バイト時代に、中国語を勉強しているなどと言わなければこうはならなかったと後悔の日々を送っているわけである。


 社長は簡単に言ったが、中国語と一口に言っても稲飯が勉強していたのは共通語として用いられている北京語である。


 中国大陸は広い。日本国内であっても、北と南で話す言葉に特徴の違いが見受けられる。同様に、同じ中国大陸内でも全く違う言語を話す地域が多く存在するのだ。

 そして現在、作業をしている地域は山東省。渤海と黄海に突き出した半島があり、遼東半島と向かい合った位置にある。この辺りは方言のきつい人が多く住んでいる。


 北京語を使わない地域での仕事はとても気を使うものであった。


 稲飯はダッシュボードに置いてあった緑表紙の手帳を手に取った。手帳には多くの単語が書かれ、標準の発音の隣に、現在の仕事場である三東省で使われている方言の発音が書かれている。その他この地独自の言い回しや、禁句などで幾ページも埋まっている。


 三東省での方言は、中国方言でよく例に挙げられる広東語、上海語、福建語のどれとも違うものであり、初めは数字すら聞き取ることもできない始末であった。 

 

 なんとか筆談で意思疎通は図れるものの、現地の人間には面倒なものであったはずだ。あまりにわからないものだから、現地人に何故わからないんだと怒鳴られたこともあったが、申し訳ないことにその時はそれすらも何を言っているのかわからなかった。


 そのため、使っている言葉に齟齬が生じた時にはその都度メモを取っていくことにしたのだ。稲井にはもうすっかり癖になってしまっている。

 時折そのメモを見直して、発音の矯正をするようにしているのだ。


 その努力のかいもあって、今では一人で外食も可能なくらいのコミュニケーションを図れるようになったのだ。


「そうだ……。これだ、この間聞き取れなかったの」

 稲飯ば三色ボールペンの色を赤に変え、要チェックの印を着けた。


 そして、今の現場で27歳の誕生日を迎え同僚たちに祝われた時、気の良い小話の一つもできるくらいには現地人に馴染むことができたわけである。今では友と呼べる人も何人かできた。

 また一つ、この地に馴染んで行くことを実感しつつ、稲井は手帳をダッシュボードの上へと置き直した。


「んー。携帯どこやったかな」

 稲井は後方へと手を伸ばした。


 ワンボックスタイプのライトバンであるこの車両の後部には貨物領域になっており、発掘調査に必要な道具類が一式積み込まれている。掘り道具や、測量のための道具、そして重機用の燃料など様々である。

 隅に置かれている、私的な荷物の入っている鞄を引き寄せると、ポケットから携帯電話を取り出した。

 数コールの呼び出し音の後、相手が受話器を取った。


「もしもし、袁さんですか」

『嗚呼。稲井サン。どうしタ』


 電話口から聞きなれた中国語訛りの日本語が聞こえてくる。たどたどしくあるが、なぜか親しみを持ってしまう声だ。

 彼の名は袁恩来。稲井の中国赴任におけるパートナーとも言える人物であり。彼もまた遺跡の発掘調査をしている。こちらで調査を始めてから初めにであった人物で、今では普段から一緒に連れだって飲み歩くほどの仲である。


「そのぉ。渋滞に捕まっちゃいまして」

 稲井が言うと、袁は納得がいったとばかりに笑った。


『ナルホド。だからまだ来ていないノカ。風邪でも引いたのかと心配しタゾ』


「ええ。まだ三時間くらいは動かないみたいで。」


『栄烏高速道路ダナ』


 この高速道路の渋滞は有名なようで、すぐに走っている場所を言い当てられた。


「ええ、まあ」


『ならば、今日のところはゆっくりで構わないゾ。道具はちょっと足りないケド』

「申し訳ないです。なんとか午後には荷物をもってそちらに到着できるようにしますので」


 事前の情報不足ということで、非は全面的に此方にある。稲井は携帯越しに頭を垂れた。

 今日の自分の仕事は道具の運搬で、そのまま帰ることになりそうだ。まだ何もしていないというのに、どっと疲れが押し寄せた。稲井は肺に入っていた空気をすべて吐き出した。


『そうそう、稲井サンのとこには情報が入っているか?』

 唐突に袁が話を切り替えた。


「え。なんのことです?」


『僕が調査してる別の場所で、妙な遺物を発見したんダヨ』


「妙な遺物?」


『是。何かの文字が書いてあるのは読めるんだケド、かなり擦れてるし、ドウヤラ漢字ではないようなんだ』


 確か現在袁さんが担当している現場は今向かっている場所と河南省のどこかなはずだ。


『一列に五つの文字が並んで十列ダ。もしかしたら詩なのかもしれないナ』


「漢語ではない詩ですか。それは興味深いですね」


『後で画像を送ってやる。時代は後漢末期である可能性が高いって話ダ』


 後漢末期と言えば、三国志で有名な時代ではないか、男心がくすぐられるな。


「嬉しいです。お願いします」


『こっちはぼちぼち作業を始めるとするよ。稲飯君はくれぐれも安全運転でな。ハハ』


「はい」


 通話が終了したが、車はほんの数十メートル程度しか動いてはいない。今日中に辿り着けるかどうかも怪しくなってきている。


「……さて。とりあえず、報告書をまとめないといけないのか」


 窓の外を眺めてみるが、高速道路のフェンスのずっと向こう側に山々が連なっているだけの、のどかな景色が広がっているだけである。見ていて暇を潰せるようなものは存在しない。

 稲飯は通話の為に音量を下げていたラジオのつまみを捻った。

 聞こえてきたのはやはり渋滞が三時間超の大規模であるという報であった。


「さてと……面倒だなぁ」


 稲飯はノート型PCを立ち上げ、膝の上に置く。派遣調査員である稲飯には、本国の会社へと定期報告書をまとめる義務があるのだ。

 新たに検出された遺構などの写真と、その補足説明を添えたデータを纏めていく。


 面倒だと言う反面、稲飯はこの派遣調査を楽しくも思っていた。なぜなら、日本での調査では取り上げるどころか、出土することすら珍しい遺物が出てくるのである。これほど珍しい体験をすることができるのは、考古を学んだ者としては嬉しい限りなのである。

 郷に入っては郷に従え、というように、日本での調査との勝手の違いにもめることも多くあったが、それ以上に楽しかった。


 稲飯はカタカタとキーボードを叩く指を止め、ホルダーに入っている温くなったお茶に口をつけた。


「まあ、こんな所か」


 まだまだ詰めるべきところはあるが、大体の体裁は整った、あとは部屋に戻った後に手直しをすればいい。


「……暇になっちまった」


 稲飯は煙草を取り出し火を点けた。


「あ」灰を落とそうとした手が空を彷徨う。


 備え付けの灰皿はいっぱいになっている。仕方無しに、稲飯はいつも胸ポケットに入れてある携帯灰皿に灰を落とした。


「ん?」


 ふと、稲飯はラジオから今までの道路交通情報とは違った内容が流れていることに気付いた。

そのラジオ音声は先ほどとは打って変って、ノイズ混じりのものであった。


『昔者、荘周夢為胡蝶。

 栩栩然胡蝶也。

 自喩適志与。

 不知周也。

 俄然覚、則遽遽然周也。

 不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。

 周与胡蝶、則必有分矣。

 此之謂物化。』


 よくよく聞けば、これは有名な胡蝶の夢の全文である。

 何故だか稲飯は聞き入ってしまう。

 宋国の荘周という男が蝶となり、自由な世界に満喫している。ふと目覚めれば自分は荘周のままであった。荘周は自分が蝶になる夢を見ていたのか、それとも蝶が荘周になる夢を見ているのかがわからなくなってしまった。というような内容だったはずである。


「なんでこんなの流してんだ」


 正気に返り、耳障りになった稲飯は、つまみを回し別の周波数に合わせてみた。だがどこも此の詩が流されている。

 一詩詠み終わるとまた初めから胡蝶の夢が詠まれ始める。


「なんか近づいてきてる、のか?」


 詠み終るたびに、詩の読み手がだんだん近づいているかのように、音量が大きくなっている。


「…………」


 稲飯の首筋に怖気と冷や汗が滲んだ。

 言葉を失った稲飯が見たのは、さっきまでウィンドウから見えていた、のどかな景色ではなかった。

 窓の向こうはうねる様にいくつかの景色が混ざり合っていた。別の色の絵具を中途半端に混ぜ合わせたような状態だ。


「…………う」


 常軌を逸した光景に胃の中身が景色と同じように絞られる。

 そしてついに、その声は耳元で話しかけられているのではないかと錯覚するほどに接近した。


『哪个是你的梦?』


 その言葉を最後に、稲飯の意識は暗転した。

 

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