第23話 約束と信頼
「紅茶、冷めちゃったわね」
「淹れなおそうか?」
「ううん。別にいい」
佐藤は微かに笑みを浮かべて冷めた紅茶を飲み干した。
「ねぇ、ミト。ちょっと訊いてもいい?」
「なに?」
「ミトが私と付き合うことを決めたってことは、七瀬ちゃんより私を選んだってことなのかしら?」
いたずらっぽい言い方だったが僕は少し緊張を覚えた。それを気取られないように気をつけながら慎重に口を開いた。
「まぁ、そういうことになるね。けど、選んだって具体的にどういうことかよくわからないな。佐藤はどうして欲しい? あるいはどうして欲しくない?」
ふふ、と佐藤はおかしそうに笑った。
「選んだ、っていう言い方はまぁ冗談よ。そんな言葉で縛りつけるつもりはないもの。でもありがとう」
それから真剣な顔をしてちょっと考え込むように顔を手で触った。
「……別にいつも私の側にいてとか、そんなことは言わないけど、でも、私が必要としているときは他のものを棄ててでも側にいて欲しいかな」
「わかった」
僕は迷いなく答えた。
「でもそれって、今までと変わらないかもね。佐藤が困ってたら別に付き合ってなくても手は貸したし」
「それはそうかもしれないわね。でもこうやって言葉にすることは必要だと思う」
「どうして? 約束が欲しかったの?」
「約束、……そうね」
佐藤はニッと唇の端を歪ませた。
「これからはミトが私に対する思いやりを欠くようなことをしたら彼女であることを盾に追求するわ」
「おぉ、怖い怖い」
ふざけてはいたが、なんとなく佐藤の考えていることはわかるような気がした。彼氏彼女であるという関係は様々なことを対外的にあるいは自分たちに対して正当化できる。幼馴染という曖昧な関係を根拠にどこまで寄りかかっていいのかわからない相手との不安定な付き合いを維持するのは本当は簡単なことではないのかもしれない。二人だけの世界なら容易いのかもしれないが。
「……まぁ、今のは半分冗談だけど。……だけど、もしも誰かと私を天秤にかけるような状況になったら、そのときは迷いなく私を選んで欲しいかな。約束できる?」
佐藤が安心を求めているのだったら、僕はできる限り彼女の信頼に応えたい。
「約束するよ」
「即答ね。安請け合いしたこと、後悔しないでね」
佐藤は今度はにこっと笑った。
「でも、ありがと。あ、もしミトが私にしてことがあったらなんでも言ってね」
「なんでも? それこそ安請け合いじゃないか」
「ミトがそんなに無茶は言わないと信頼した上での安請け合いよ」
結局、恋愛は信頼という曖昧なものを根拠にしなければ成立しない関係なのかもしれない。
「結局は信頼か」
「そうね、信頼ね。信頼が保たれるようならある程度なんでもオッケーよ」
それから意味ありげにニッと笑った。
「その範囲内でなら七瀬ちゃんとイチャイチャしても怒らないわよ?」
「イチャイチャ、ってその範囲越えてない?」
「あら、試験期間以外は毎日七瀬ちゃんと一緒に仲良く下校してるんじゃないの?」
佐藤のイチャイチャ判定は僕の思っていたよりも厳しいらしかった。
「……一応弁解しておくと毎日、ではない。それから、その範囲がわからないから世の男性諸君は困っているのではないのかな?」
「その辺はミトの想像力に任せるしかないわね」
ずいぶんと要求の多い信頼らしかった。それだけ期待されているということなのかもしれない。
「……善処します」
「ええ、善処して」
満面の笑みが僕に送られた。
「とりあえず、一つ質問」
「はい、ミト」
「七瀬と放課後二人で下校するのは、アウト?」
佐藤はにっこりと笑ったままなにも答えなかった。しばしの沈黙が二人の間に訪れた。佐藤は笑顔をはりつけたまま身動ぎ一つしなかった。
「……週に一日くらいは佐藤と帰るために部活終わるまで待つよ?」
笑顔のまま首を傾けた。
「……週二」
「仕方ないわねぇ」
僕はほっと息を吐いた。
「そんなに七瀬ちゃんと一緒にいたいの?」
「……佐藤がどうしても言うんなら諦めるけど?」
佐藤は頬を緩めた。
「今はその言葉だけで十分だわ」
そうして一人息を吐くのだった。
「帰るっても駅までだし、雑談とかするだけだけど、やっぱ嫌?」
「ちょっとね。図書準備室とかで、とかならまだいいんだけど。私とミトって高校入ってからあんまり二人で下校なんてことなかったじゃない? だからかな」
素気ないようでいて、案外独占欲は強い。そういうところは決して嫌いではなかった。
「佐藤って意外とかわいいとこあるよな」
「なに? 今更気付いた?」
「いや、前から知ってたけど」
「でしょ?」
佐藤は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「ミトには弱いとこも見せるけれど、でもミトはそこにつけ込んだりとか、そんなことしないもんね?」
「そりゃそうだよ。今までもそうだったし。どうかした?」
「なんでもないけど。……要は信頼が大事ってこと」
そう言って佐藤は曖昧に微笑んだ。僕はそれ以上は追及しなかった。
「ねぇ、ところでミトは私に対して約束しといて欲しいこととかないの?」
「僕? 僕はまぁ、いいかな。佐藤のことは信頼してるし」
「素敵な彼氏さんね。でもちょっとつまらない」
「つまらない? そんなもんかな? なにか不満があればその都度話すよ」
「そういうのって早いうちに言われた方が楽なんだけどね。まぁ、いいわ」
時計を見上げた佐藤がふいに話を断ち切るように立ち上がった。
「さて、今日の晩御飯なにが食べたい?」
「え、作ってくれんの?」
「そういう期待があって今日家に誘ったんじゃなかったの?」
「さすがにそこまで厚かましいことは考えてないよ」
「じゃ、なに。両親のいない家に誘ったっていうのはやっぱりそういう?」
あからさまに身体を庇うようなポーズを取られて僕は少し反応に困った。
「……佐藤ってときどき妙に思考がピンク色になるよね」
「春ですよー」
「秋ですよ? 今、秋ですよ? そんな裏声使って言ってみても今が秋だという事実は揺るぎませんよ?」
「ミトの頭の中が春なのよ」
「どっちかっていうと佐藤のがアレだよね?」
「アレって、春ですよー?」
「なんでそこだけ裏声使うの?」
「春を告げる妖精をイメージしてるのよ」
「それはなんとなく察していたけれど、……まぁ、どーでもいいか」
「ええ、どーでもいいわね」
佐藤は満足げに頷いた。僕もつられて頷いた。
「さ、買い物に行きましょ。早く行かないとご飯も遅くなっちゃうわ」
「そーするか」
それから二人連れ立って近所のスーパーに出かけた。外に出ると夕方五時を告げる『遠き山に日は落ちて』が町内放送で流されていた。最近では日が暮れるのも早い。僕はこれから家路に着く子どもたちの姿を想像した。そしてこれからもまだ佐藤と同じ時間を過ごせることが妙に嬉しかった。
約束、信頼、どちらも必要なものではないでしょうか。
次回は試験結果が返ってくる頃です。