第22話 二人の幸福論
玄関の姿見を覗き込み、今一度全身をチェックする。
……よし。
いつものコンバースのスニーカーを履くと、僕はドアを押し開ける。曇ってはいるものの幸いなことに雨は降っていなかった。
駅の下り方面の改札口周辺は閑散としていた。土曜日の昼過ぎという半端な時間、こんな寂れたところにいるのは暇な地元の中学生くらいだろう。不安定な天気のせいかそんな連中すらいなかった。誰もいない駅前を見て僕はほっと息を吐いた。
車の通行の邪魔にならない程度の場所に自転車を止め、券売機の横の電車の時刻表と腕時計の針の位置とを見比べた。あと四分といったところだろう。自転車の荷台に座って遠くの山並みを眺めた。上り方面の電車の通過を告げるアナウンスの後、踏切の音が響き、赤と白の玩具のような形の特急電車が轟音を立てて通り過ぎていく。僕は腕時計に目を落とす。あと二分。再び山並みに目をやる。視界の端からよたよたと一人の老婆が歩いてくる。僕がチラッと一瞬振り返ると目が合った。だがその直後にはお互いに何事もなかったかのように視線を戻し、老婆は改札に向かい、僕は相変わらず荷台で足をぶらつかせる。無表情のまま、僕は今のおばあさんになにをしてると思われただろうかと考える。そうすると意味もなく嬉しくなって、顔をにやつかせる代わりにしたくもないのに背伸びをした。そういえば背伸びダイエットってほんとに効果あるのかなとか考え始めた頃に、下り電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。時間を確認する。間違いない。思わず荷台から飛び降りたが、やっぱり大人しく待っていようと思いなおし、座りなおした。
扉の開閉音の後、いくつかの足音が近付いてきた。その横顔を認めると僕はすぐさま声をかけた。
「佐藤」
驚いたような顔で振り返る姿が新鮮で僕は笑った。それを見て佐藤も笑った。
「わざわざ迎えに来てくれたの?」
「まぁね」
ほら、っと佐藤から鞄を受け取り自転車のかごに突っ込んだ。
僕がスタンドを外してサドルにまたがると、佐藤も荷台に座り僕の腰に腕を回してきた。
「ミトのうちに来るのも久しぶりね」
「それもそうだね。お隣なのにね」
「お隣なのにね」
僕と佐藤は小学生の頃僕の家族がこのマンションの一室に越してきて以来の付き合いだった。昔はよくお互いの部屋を行き来したものだったがいつのまにかそんなこともなくなっていた。
「紅茶でも淹れようか? といってもティバッグだけどね」
「ええ、じゃあアールグレイ」
「了解、ちょっと待ってて」
リビングの椅子に佐藤を座らせてから僕はキッチンに向かった。
ティカップを二つ出してアールグレイとダージリンのティバッグを入れてお湯を注ぐ。それぞれ一分半と二分きっちり時間を計ってからティバッグを棄てる。シュガーを入れてスプーンで混ぜて溶かす。お茶受けは……まぁ、いいか。
ソーサーなんて洒落たものは使わず、取っ手を持って直にテーブルに置いた。
「ありがとう」
なにをするでもなく座ったままぼんやりと待っていた佐藤が小さく笑う。
僕は佐藤の向かいの椅子を引いた。
「今日は小父さんと小母さんは?」
「夜には帰るって。晩飯は自分で確保せよ、と」
「ふうん」
佐藤がカップを持ち上げてふーふーしている。猫舌なのだ。
「中間どうだった?」
「ん、まだ返ってきてないからわからないけど、いつも通りじゃないかしら。ミトは?」
「……まぁ、今までで一番いいとは思うけど」
「打倒佐藤さんはどうしたのかしら?」
「まぁ、期待は小さい方がダメージは少ないよ?」
「ものは言いようね。でもなんにしろいつもよりはよさそうなんでしょ? 小母さんも喜ぶわね」
そう言って佐藤は僕の保護者にでもなったかのように嬉しそうに笑った。
「……卒業までに一回くらいは勝つさ」
僕はなぜだか意地になっていた。
「楽しみね。私に勝てるなら東大だって夢じゃないわよ。私は東大には行かないけど」
「じゃあ僕も行かない」
「……じゃあ私と同じ大学にでも行く?」
「それもいいな」
あつっ、と佐藤が慌ててカップから口を離した。
「……ねぇ、佐藤。先週の返事だけど」
佐藤は黙ってカップをテーブルに置き、背筋を伸ばして真っ直ぐにこちらを見てきた。こういう風に向かい合うとさすがに少し照れ臭かった。
「あれから考えてたんだけどさ」
「うん」
「……」
「……」
……あぁ、もう。
いろいろ考えてたはずなのに、頭の中が真っ白でなにも思い浮かばなかった。
佐藤がこっちを見てる。不審がるようでも、急かすようでもなく、ただただ僕の言葉を待っている。その真っ黒な瞳を見ていると僕の気持ちは不思議と落ちついてきた。心拍数を抑えようと少しだけ息を吸う。
……シンプルに、シンプルでいい。
覚悟を決めて口を開いた。
「佐藤。……好き、だよ。僕と付き合って欲しい」
佐藤は黙って一度だけ首を縦に振った。それからいつものようにニヤッと笑った。
「……なに照れてるのよ。ミトらしくもない」
「佐藤こそ。強がって」
そう言うと佐藤はぷっと吹き出した。僕もつられて吹き出した。それから二人して声を出して盛大に笑った。テーブルをバンバン叩きながら腹を抱えて笑った。なにがおかしかったのか忘れてもなお笑い続けた。佐藤の顔は真っ赤だったし、僕もきっとそうだっただろう。
「ねぇ、ミト」
「なに?」
「私もミトのこと、好きよ」
「うん」
同時に二つの笑い声が上がった。僕は椅子が窮屈になってソファに移動して、それこそ文字通り笑い転げた。いつの間にやら佐藤も移動していて、押し合い圧し合いしながら笑った。ときどき目が合うと、なお一層甲高い声が上がった。
ようやく笑いが収まりかけてヒーヒー言いながら身体を起こした。目が合うとまたふつふつと笑いがこみ上げてきたが僕はなんとか我慢した。佐藤が悪戯っぽい笑みを浮かべたと思うと、ふいに生真面目な顔をしてこちらをじっと見てきた。
「佐藤。……好き、だよ。僕と付き合って欲しい」
奇妙な声色だった。僕は軽く佐藤の頭を叩いた。頭を上げた佐藤は堪え切れないように口元を押さえて震えていた。僕も佐藤と気持ちだったが、お互いこれではキリがないなと思い、佐藤の頭を自分の胸に押し当てるように抱き寄せた。佐藤はちょっとの間プルプル震えていたが、やがて耐えられなくなったのか、あはははは、とヘッドバンギングしながら笑い始めた。胸にガンガン頭がぶつかって結構痛かったが、やはり僕も笑わないわけにはいかなかった。
しばらくすると佐藤は体力が尽きたのか、やっと大人しくなった。ソファに仰向けになった僕の上に、ぜーぜーと息を切らして転がっていた。
「ミトー、……無茶苦茶、疲れたぁ」
佐藤がだるそうに息を吐いた。
「みぃ、とぅ」
互いの息が整うまで、そのままだらしなくもつれあいながら過ごした。
落ちついた頃になって、佐藤がもぞもぞと僕の上で動いた。やがて居心地のいい場所を見つけたのか、動くのを止めてそこでじっとしていた。僕の肩の辺りに佐藤の頭が乗っかっているせいで、髪が首筋にかかってくすぐったかった。それを訴えようと下を見ると、上目遣いで見上げる佐藤と目が合った。僕はそのやわらかい髪を撫でた。
「……好きよ」
佐藤の心臓の鼓動が伝わってきた。僕のもきっと伝わっているだろう。だがそんなことは気にならなかった。今はその響きをしっかり胸に刻みたかった。
「もう一回」
「……I love you.」
首筋に熱いものが押しつけられた。