第16話 予兆
あれから七瀬からは一度も連絡はなく佐藤とは一度も連絡は取れなかった。
春名の活躍も虚しく結局直撃した台風とそれに伴う暴風暴雨のせいで、僕は土日の二日間を家に引きこもることを余儀なくされた。
土曜日はいろいろ無駄な思考に時間を費やし、勉強する気などまるで起こらなかった。日曜日には考えても仕方ないと半ば強引に頭を切り替え勉強を始めた。最近割と真面目に取り組んでいた数学の問題を最初に解いたことでエンジンがかかったからなのか、あるいはそのときの精神状態が勉強に向いていたからなのかはわからないが、いつになく勉強ははかどった。数学の試験範囲となる分野の問題集の問題をすべて解き、日本史の試験範囲を一通り復習し、気付くともう外はすっかり暗くなっていた。風はもう随分と静かになったが、雨はまだ降っているようだった。
そろそろ夕飯の時間だろうか。日本史の教科書を閉じ、背もたれに体重をかけて思いっきり背伸びをした。ベッドに寝転がろうと思い立ち上がると机の足に左足の小指を思いっきりぶつけて、寝転がるどころかのたうちまわった。不器用だった。
月曜日は久々の晴れの天気だった。と言ってもまだ空を覆う雲は多く、かろうじて曇りではないという程度の晴れだったが、それでも久しぶりに降り注ぐ日差しは明るかった。だがそんな天の恵みを身体いっぱいに享受する余裕なんかは今朝の僕にはなく、明け方のオレンジの太陽の光を正面から受けながら、全速力で自転車を走らせた。
昨夜はさっさと寝ようと思っていたのだが、いつもなら休み時間にやる英語の予習を今日のうちにやってしまおうかという至極優等生的な発想がなぜか昨夜僕の頭に浮かんだ。いつもならそんな考えは一も二もなく即座に却下される愚案だが、いつになく勉強に対して前向きでハイテンションだった昨夜の僕はいつのまにか英語のノートを開いてしまっていた。それが午後十一時過ぎのこと。二、三十分で終わらせて日をまたぐ前には床に就くつもりだった。
だが勉強はやればやるほどわからないことが見つかるもので、忘れていた熟語や文法を前のページに戻って見返していくうちに前のページにもわからないことがまだまだあることに気付いた。そうして芋づる式に次々と手をつけていくうちに時間はとうに午前零時を越え、僕が気付いた頃には一時を越えようとしていた。慌ててそれからベッドに飛び込んだものの頭は妙に冴えて寝つけず、結局眠りに落ちたのは二時を過ぎてからだった。今朝起きたのはいつもより十五分も遅く、こうして慌てて駅に向かっているのだった。必死に自転車を走らせながら、たとえよい行いであっても急に慣れないことはするもんじゃないと僕は反省した。
駅の改札を駆け抜け階段を駆け昇り駆け降り、今着いたばかりの電車の車体が見えると安心して額の汗を拭った。と同時にそこに見知った顔があるのに気付いた。佐藤だ。あっちも僕に気付いたようだった。佐藤は息を切らしている僕を見て目を細めた。
「朝から私を見てはぁはぁと発情するのは止めなさいよ」
息が苦しく声を出すのも億劫だった僕は佐藤の肩を軽く小突いた。
駅から出ると僕らは並んで歩き出した。歩いて行ってもギリギリ遅刻せずに済むこの時間、駅周辺には同じ制服を着た生徒たちがたくさんいた。だが佐藤がこの時間にここにいるのは珍しかった。僕と違って堅実で真面目な性格の彼女はいつもはもう一、二本早い時間の電車で登校している。
「珍しいね。佐藤がこんな時間に」
「ええ、まぁ、……試験前だしね」
珍しく佐藤が言葉を濁したが、僕は特に言及もせずに、そ、と素気なく答えた。
「そういうミトはいつになく眠そうじゃない?」
「いや、実は僕も昨晩勉強してて……」
「ダウト」
佐藤は人差し指をピンと伸ばして僕を指差した。
「いやほんとだって」
「嘘ね。じゃなきゃこの天気はおかしいわ」
「そういや昨日テルテル坊主つくったよ」
「なら納得」
「嘘だよ。なんでそういうことばっかそんな簡単に信じるのさ」
「やっぱり。なんで勉強したなんてしょうもない嘘を吐くの?」
「それは嘘じゃないから、それは嘘じゃないから」
「この天気を見れば誰の目にも一目瞭然じゃない」
「なにそのよくわからない信頼感」
「そりゃあ信頼してるわよ。ミトと私の関係じゃない」
僕は思わず横にいる佐藤を振り返ったが、彼女はすっとぼけたような顔をしていた。
それから学校に着くまでの間、僕らはくだらない話をしながらだらだらと歩いた。いつも通りだった。呆気ないほどに佐藤と僕はいつも通りだった。
その一方で七瀬は姿を現さなかった。休み時間の教室にも姿を見せず、放課後の図書準備室にも現れなかった。今日は元気に登校してきてたことは昼休みにエタイから聞かされた。
放課後、僕はいつものように図書準備室を訪れた。今日から試験期間ということで各部活は活動を禁じられており、室内には佐藤や神名川、ついでに最近エンカウント率が低いと噂の春名までいた。そのためいつもよりも騒がしい放課後となった。その中で適当に会話に参加しながらも僕は図書室のハードカバーに目を落とし、佐藤は英単語を頭に詰め込んだ。だが三十分も経たないうちに僕は鞄を手に立ちあがった。あれ、もう帰るの? という神名川の間の抜けた声と、さては帰って勉強するつもりですね、という春名の白々しい声と、なにも言わない佐藤の視線のすべてを適当にかわしながら僕は準備室を後にした。
校門を出て先週も通った人気のない道に入ると携帯を取り出し電話帳の画面を呼び出した。画面に表示された七瀬の名前を見たとき、先週の彼女からのメールを思い出した。
――来週でもいいだろうって先輩は思うかもしれませんが、来週はダメなんです。
一体なにがダメだというんだろうか。先週はあれほど一緒に帰ろうとうるさかった七瀬がなぜこんな風に拒絶しなければならないのか。なにをそんなに恐れているというのか。
僕は携帯の画面を睨んだ。ボタンを一つ押せば電話はつながる。たぶんもう家にいる七瀬はすぐに出るだろう。僕の声を聞いた彼女はどんな反応を示すのだろうか。
だが僕が今七瀬に電話をすることは、会いたいという気持ちを彼女に知らせることは、なにかを決定的にしてしまうような気がして、僕はその一歩を踏み出すことを躊躇した。
と、そこで見計らったかのように携帯がメールの着信を告げた。僕は期待しながらすぐさま受信ボックスを開いた。
そこにあったのは佐藤理世の文字だった。